歌舞伎座6月『菅原伝授手習鑑 車引』『猪八戒』

歌舞伎座の一部です。

菅原伝授手習鑑 車引』がなぜか荒事になっていて、度々単独で上演されますが、今回もそうです。

ただ今回は、桜丸が上方の型で隈取がなく上の衣装を脱ぐと襦袢がトキ色となります。江戸型ですと、桜丸はむきみ隈で梅王丸と同じ赤の襦袢なのです。襦袢と言っても刺繡のある豪華なもので普通の襦袢のイメージとは違います。

三つ子の三兄弟がけんかをするのです。江戸型だと桜丸と梅王丸が赤の襦袢で、松王丸が白の襦袢なので、二対一という構図がはっきりするのですが今回は違う見方ができました。梅王丸は赤の筋隈で松王丸は二本隈で、東京型では桜丸はむきみ隈です。その隈取がないため桜丸と梅王丸が笠を取り顔を見せたとき、桜丸の悲劇性がぱっとこちらに見えました。隈取の無いことで、桜丸の窮地が透けて見えるといった感じでした。

桜丸は菅丞相の流罪の原因を作ってしまっていたのです。そのことは知らなくても、襦袢がトキ色ということで、二対一の対立というより三つ子でありながら一人一人の生き方があり、それぞれの背負っている人生はちがっているのだといことが明確になりました。

ただ荒事の様式美でみていたとしても、かえって、『菅原伝授手習鑑』のこの三人の前後の芝居を観たとき、えっ、そういうことだったのと謎解きができて引き込まれていくと思います。

綿入れの入った衣装に刀三本を差し竹本に合わせて声を張り上げリズミカルに動くのですから驚きです。壱太郎さんは上方型でやらせてもらえるということで、和事風の愁いさもよく伝わりその責任は果たされていました。巳之助さんは、荒事の舞台でとにかく声を張ることにつとめられていたので、今回はそのセリフ回しに味わいが加わってきていましたし赤の筋隈に負けない動きでした。松緑さんは、黒の筋隈をしているような雰囲気で大きさの中に稚気さもあり、面白い三兄弟でした。猿之助さんの時平も桜丸と梅王丸をすくませる力があり、あくどい権力者として異様さも十分でした。

三つ子はそれぞれ別の主人に仕えたことが運命の分かれ道でした。権力闘争の渦に巻き込まれて相対する立場になってしまうわけです。汚い手を使って権力を握った藤原時平の前では、桜丸も梅王丸も憎っくき時平に挑もうとしますが、にらまれるとすくんでしまうのです。時平に仕える松王丸はおれのご主人様に何やってんだお前たちは、おれが相手だと兄弟げんかとなるわけですが、ここは実際に三つ子が生まれたという世間の事件を違う形で舞台上で登場させ見せてもいるわけです。珍しい事があればすぐに舞台上で見せるという手際の良さです。

ただ物語性はしっかりしています。歌舞伎はこの後、「賀の祝(佐太村)」となります。佐太村に住む三兄弟の父・白太夫の七十歳の祝いがあるのです。

文楽では『菅原伝授手習鑑』の三段目として「車曳の段」「佐太村茶筅酒の段」「佐太村喧嘩の段」「佐太村訴訟の段」「佐太村桜丸切腹の段」と分かれていますので、桜丸が切腹するということが解るわけで物語の先の想像がつくわけです。

2014年4月に大阪・国立文楽劇場で引退公演をされた七世・竹本住太夫さんの狂言が『菅原伝授手習鑑』の「佐太村桜丸切腹の段」で、テレビの「古典芸能への招待」で放送され録画していました。「車曳の段」はなくて、その後の「佐太村茶筅酒の段」「佐太村喧嘩の段」「佐太村訴訟の段」「佐太村桜丸切腹の段」でした。三兄弟のその後をじっくり観ることができ、この作品はある意味それぞれの人生の成長していく過程でもあるのだとおもえました。

そして途中で命を絶った桜丸を「寺子屋」での松王丸は涙を流すのです。そこで松王丸の本当の心の内がわかり、松王丸のそれまでの孤独さも見えてくるのです。

それらの事をフィルターにかけて荒事として「車引」だけを役者によってみせるという試みは歌舞伎ならではの見せ方とも言えます。荒事がそこからどう人の心の機微を見せてくれるのか、出発点として若い役者さんとそれをけん引する役者さんの組み合わせでみれるというのも楽しいことでした。男寅さんも復帰できよかったです。その時期、時期で出会える貴重な役ですから。

録画するだけして見過ごしているものがあり、この時期それらのえりすぐりの舞台映像と出会えるのが目下の至福のときでもあります。

菅原伝授手習鑑』はまだまだ名場面がありますからそのとき今回の「車引」とどうつながるのか楽しみなきっかけになるでしょう。

猪八戒』は、澤瀉屋十種の一つで歌舞伎座初演が1926年で今回は96年ぶりの歌舞伎座公演なのだそうです。今回鑑賞して、これはやる演者の年齢的なことが関係すると思いました。一時間近くずーっと踊り続けさらに立ち廻りがあるのです。

振り付けは二世藤間勘祖さんと藤間勘十郎さんで、演者も演者なら、振付師も振付師と思いつつしっかり観ているつもりでしたが、過ぎてみれば、あれよあれよのラストに向かっていきました。

西遊記』の内容はきちんと把握していないのです。テレビドラマも見ていません。二十一世紀歌舞伎組の『西遊記』の舞台は観ていますがもう記憶のかなた。テレビで放送され録画していたのですが、ダビングに失敗したようで最初のほうで止まってしまいました。無念。

孫悟空がでてきて三蔵法師に頭に輪っかをかぶせられインドまで三蔵法師のおともをするというその程度しかわかりません。その仲間として猪八戒と沙悟浄がいるということなのでしょう。アニメくらいは見ようとおもっていますが。今回は猪八戒が主人公での舞踏劇ということで、三蔵法師は出てきません。

猿之助×壱太郎「二人を観る会」』の座談会のとき、猿之助さんが今回の『お祭り』は清元ですと言われ、清元は語りですから長唄とは踊り方が違いますといわれたのですが、始まったら忘れていてあれよあれよで終わってしまいました。

今回は竹本ですので足のつま先から手のさきまでの全身の動きを竹本を耳にしつつじっとみつめていました。納得できたような気になっていましたが終わってみるとこれまた消えています。もともとよく動く方ですが、今回はさらによく次から次へと動くものだと感心と驚きです。どういう体の構造なのでしょうか。

猿之助×壱太郎「二人を観る会」』の素踊りの時、段四郎さんに似てこられたと思いましたが『猪破戒』の足の動きは段四郎さん系のように思えます。

猿之助さんの口が動いていて猪八戒の浄瑠璃の台詞の部分を言われていたようなんですが、そのほうが体にリズムがなじむのかなと思っていましたら、セリフもすべて浄瑠璃で語られるので耳の不自由な方にもわかるようにということのようです。

この時期思わぬところで不自由な方がさらに負担を負うということなんですよね。

笑也さんと笑三郎さんの衣装と二刀流が素敵でした。一人、童女になりすました猪八戒にいいように遊ばれていた猿弥さんの霊感大王も援軍を得るわけです。が、元気で陽気な右近さんの孫悟空とやるぞ感の青虎さんの沙悟浄が参戦し、アクロバット軍団も登場し敵味方わからなくなるくらいの混戦状態のスピード感です。バックの背景が藍色の波から山水画の岩山にかわり皆さんの動きを静かに見つめていました。空間が広がりました。

村の長老が寿猿さんで村人に澤瀉屋の役者さんが顔を揃えていました。澤瀉屋一門とその仲間たちにひと時楽しませてもらい煙にまかれたうつつのようなうつつでないような時間でした。配信があったら観なおしたいです。

追記: 坂東竹三郎さんがお亡くなりになられた(合掌)。 『仮名手本忠臣蔵 六段目』の映像で仁左衛門さんと猿之助さんのそれぞれの勘平の義母・おかやをつとめられていて、江戸も上方も両方その雰囲気をかもし出されるのに見入っていたので貴重な役者さんがまたおひとり芸を持って行ってしまわれたと残念です。ただこれから歌舞伎の中心となるであろう役者さんや若手の役者さんたちが上方の型が無くなることを危惧され東京も上方も両方に垣根を作らず学ばれているのが心強いですし繋がることでしょう。

追記2: 歌舞伎名作撰の『菅原伝授手習鑑 車引・賀の祝』のDVDを持っていました。松王丸(吉右衛門)、梅王丸(團十郎)、桜丸(梅玉)、時平(芦燕)、白太夫(左團次)、松王女房・千代(玉三郎)、梅王女房(当代雀右衛門)、桜丸女房(福助)。(平成14年歌舞伎座)

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写真の上の松王、梅王は「車引」の隈取で、下の桜丸は「賀の祝」で隈取がありません。松王も梅王も「賀の祝」では違う隈取となります。上方型では桜丸は「車引」から隈取の無い姿で「賀の祝」につながっていくわけです。「賀の祝」自体が謎解きの部分があり、さらに「寺子屋」への暗示がよくわかりました。

追記3: 平成22年(2010年)の初春公演でも「車引」が上演されました。松王丸(当代白鸚)、梅王丸(吉右衛門)、桜丸(前芝翫)、時平(富十郎)。今月の猿之助さんの隈取は富十郎さんに似ていました。藍色の隈取はしていませんでした。令和3年(2021年)には高麗屋三代「車引」。松王丸(白鸚)、梅王丸(幸四郎)、桜丸(染五郎)、時平(彌十郎)。白鸚さんの隈取は平成22年とは違って細い赤でした。時平の袖のクルクルも片袖だけの方もおられ色々なのだということがわかりました。こんなに「車引」に注目したのは初めてです。

追記4: 松竹の社長・会長をつとめられた永山武臣さんの『私の履歴書 歌舞伎五十年』を愉しんで読了。ロック・ミュージカル『ヘアー』を手掛けられたのは知りませんでした。そうそうたる役者さん達の知られざる様子も新鮮でした。六代目菊五郎さんが『吉田屋』の伊左衛門を自分流にしていいならとやっと引き受けられたそうですがどんな感じか観てみたいです。手探りのアメリカ・ソ連・中国公演などいつの時代も文化交流はあってほしいものです。

伊能忠敬の歩いた道(4)

一之橋は、『鬼平犯科帳』では一ツ目之橋として登場するそうですが、まだ映像も本でも認識する物に触れていません。気にしていなかったので、どこで出会えるのか楽しみが増えました。

二之橋もありまして、鬼平ゆかりの軍鶏なべ屋「五鉄」はこの側という設定です。

この堅川には歌舞伎や落語にある塩原多助の炭屋があったのでその名にちなんだ塩原橋もあります。三津五郎さんの『塩原多助一代記』も好かったなあと思い出します。

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赤穂事件に関しては、隅田観光協会でだしている下記の小冊子が大変参考になります。

中から少しお借りしますと下図では歌舞伎にもある『土屋主悦』の屋敷が吉良邸の隣に位置します。歌舞伎『松浦の太鼓』の松浦邸はどこだったのでしょうか。

引き上げルートも書かれています。かつて(2015年12月14日)夜に両国駅を出発し次の日早朝泉岳寺に着くという討ち入りルートを歩くイベントに参加しましたが、今はちょっと一気に歩けるかどうか自信ありません。休憩はファミレスでの軽食でした。

夜の江島杉山神社の前も歩いていました。思い出しました。境内に小さな岩屋があり入ったのです。周囲は暗くちょっとミステリアスで昼間来てみたいと思ったのですが忘れていました。昼と夜ではイメージが変わるものですね。

隅田川の近くに戻りますと三つ案内板がありました。

旧両国橋・広小路跡」。両国橋は明暦の大火の大災害から防災上の理由で幕府が架けた橋で、武蔵と下総の国を結ぶので両国橋と呼ばれ、この辺りに架かっていました。橋のたもとは火除け地として広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛け茶屋が並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねていました。

赤穂浪士休息の地」。赤穂浪士は討ち入り後、広小路で休息しました。一説には、応援に駆けつける上杉家の家臣を迎え撃つためとも言われています。休息後、大名の途上路である旧両国橋は渡らず、一之橋を渡り永代橋を経由して泉岳寺へと引き上げました。

石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)」。石尊とは神奈川県伊勢原市の大山のことで、大山詣り前に、水垢離場で体を清めました。旧両国橋の南際にあり、その賑わいは真夏の海水浴場のようだったとされています。

両国橋

夜の両国橋

下の写真は別の日の両国橋の写真です。奥に柳橋がみえます。

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下図も隅田観光協会で出されているものです。

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柳橋

ライトアップの夜の柳橋。河面が緑色になっています。

JR総武線の鉄道橋。

隅田川テラスの壁には様々な絵などが並んでいます。隅田川テラスギャラリーです。両国橋の初渡りの様子。国芳画。

百本杭。強い水勢を弱める護岸の役割として沢山の杭。特に両国橋より川上の左岸側に打たれた杭を「百本杭」と呼びました。芥川龍之介の作品『本所深川』、幸田露伴の随筆『水の東京』に百本杭の様子がでてくるようです。

道路下に何か案内があるので降りて観ましたら北斎さんの富岳三十六景の紹介でした。川浪の描き方がこれまた独特です。

蔵前橋を渡ります。

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浅草御蔵跡。江戸幕府直轄地の全国から集められた年貢米や買い上げ米を収納していて、この米は、旗本、御家人の給米用に供され勘定奉行の支配下におかれていました。

楫取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)。江戸幕府が米倉造営用の石を船で運搬中に遭難しないようにと浅草御蔵内に稲荷社を創建したといいます。

ついに目的地、天文台跡です。「忠敬は全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。」

伊能忠敬さんは、ひたすら歩幅で距離を測って歩いたわけです。色々な人物や事件や物語があった道なのですが、忠敬さんにはそちらはあまり興味がなかったことでしょう。

伊能忠敬深川旧居跡から浅草天文台跡までのプチ旅はおしまいです。

追記: 山本周五郎さんの『柳橋物語』を読みました。赤穂浪士事件の時代で、地震、火災、水害が次々と襲い、そんな中で、主人公のおせんの過酷な人生。心も病み、これでもかという展開ですが、ラストは清々しい。柳橋は庶民の要望で架かった橋でした。市井の人々の生活が風景も含めてつぶさに描かれています。千住の野菜市場もでてきました。遅まきながら山本周五郎ワールドにはまりそうです。

追記2: 幸田露伴『水の東京』より 「百本杭は渡船場の下にて本所側の岸の川中に張り出てたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして百本杭の辺はまた特に深し。ここに鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。」

追記3: 芥川龍之介『本所両国』より 「僕は昔の両国橋に ー 狭い木造の両国橋にいまだに愛情を感じている。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかゝっていた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めたりした。」

追記4: 十八代目勘三郎さんの『勘九郎ぶらり旅』では、両国橋を渡っています。『三人吉三』で三人が出会うのが百本杭のある場所で、お嬢吉三は杭に片足かけてセリフをいうのを紹介しています。すべて舞台からのインスピレーションで場所を見つけ出していくのです。百本杭につかまって助かったのが『十六夜清心』の清心。柳橋では、『瞼の母』の番場の忠太郎の母・お熊の料理屋が柳橋。柳橋芸者といえば『お祭佐七』の主人公お糸という具合でセリフも出てくるのです。

伊能忠敬の歩いた道(3)

萬年橋を渡り隅田川テラスにおります。次の新大橋

その前に芭蕉庵史跡展望庭園へ上がっていきます。開園時間があって以前に来たときは閉まっていたのです。

芭蕉さんの座像は、午後5時前は川上をみていて、5時過ぎると清州橋の方向をみるという回転式なのだそうです。

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間隔をあけて描かれている北斎さんの「深川万年橋下」。富士山が小さく姿をあらわしています。

下におりますと観光高札がありました。「赤穂浪士ゆかりの道」。赤穂浪士が本所の吉良邸を引き上げ泉岳寺に向かうのと反対に私は進んでいますのであしからず。

説明を簡略化しますと、本所吉良邸から堅川の一之橋を渡り隅田川沿いの道を南下し、小名木川の萬年橋、佐賀町あたりの上之橋中之橋下之橋を渡って永代橋のふもとでひと息入れたと伝えられています。この道は、時代が武断政治から文治に移りかわろうとした元禄時代の出来事がしのばれる道です。

一之橋は後で出てきます。このあたりの隅田川沿いの道は赤穂浪士引き上げの道でもあるわけです。

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その隣に正木稲荷があります。由来の石碑から興味あるところを抜き書きします。

かつては征木稲荷であったが正木稲荷に改められた。江戸時代の古くからあり為永春水の「梅暦」の挿絵にも描かれている。江戸名所図会では、真先稲荷大明神となっている。昔征木の大木がありそれを社名とした。征木の葉が腫物にも効いたといわれ、蕎麦断ちをして祈願し、全快すると蕎麦を献じるという信仰があった。

隣には船番所があった。近くには芭蕉庵があって大正時代に東京府の「芭蕉翁古池の跡」として旧跡に指定されたが昭和56年に旧跡は芭蕉記念館に移転された。

おできの神様とは、庶民の日常生活に根ざした信仰心です。

小説『橋ものがたり』の「約束」にでてきたのがこの稲荷神社とおもいます。五年後幸助はお蝶に会うため約束の萬年橋に向かい待つ間、稲荷社の境内に入ります。征木の大木のことは書かれてません。幸助のその時の幸福な期待感が好くあらわれています。

「幸助は境内の端まで歩き、大川の川水がきらきらと日を弾いているのを眺め、その上を滑るように動いて行く、舟の影を見送った。そこに石があったので腰をおろした。石は日に暖まっていて、腰をおろすと尻が暖かくなった。」

さてむかいに芭蕉稲荷神社があります。芭蕉庵史跡芭蕉稲荷神社とあります。

深川芭蕉庵旧地の由来。芭蕉さんは、門弟の杉山杉風に草庵を提供されここから全国の旅にでかけ「奥の細道」などの紀行文を残しました。芭蕉さんが亡くなった後は武家屋敷となりそれも焼失。大正6年津波のあとに芭蕉さんが愛好していた石造の蛙がみつかり、地元の人々が芭蕉稲荷を祀りました。さらに戦災のため荒廃していたのを地元の人々が再び尽力し復旧されたのです。しかし狭いため芭蕉記念館を建設しました。石の蛙もそちらのあります。

芭蕉庵跡の石碑の右手に蛙がいます。

芭蕉記念館の前の道は通らず、隅田川テラスを新大橋に向かって進みます。

隅田川テラスには大川端芭蕉句碑がならんでいます。

新大橋の下から反対側の隅田川テラスが見え、あちらはあちらで、壁に何か描かれています。

途中から金網があり通れなくなりましたので隅田川テラスから道を変えました。歩いているとむかい側に神社が。

江島杉山神社

将軍綱吉が鍼術の腕を認めた杉山和一総検校という人がいて、この地を拝領されその西隣に弁財天の一社を建立したのが江島杉山神社の始まりです。和一さん、幼いころ失明し鍼術を学び、江の島の弁財天の岩屋にこもり管鍼術を授かったため祀ったのでしょう。学びに学び鍼術の神様といわれたようです。

竪川にかかる一之橋に出会いました。そうです。赤穂浪士が吉良邸から引き上げる時に最初に渡った橋です。

堅川

隅田川側には堅川水門があります。上を首都高が走り、風景としては味わいがありませんが、治水は大切なことです。

一之橋までといたします。

伊能忠敬の歩いた道(2)

油堀跡の観光高札がありました。

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高札を読みますと、隅田川から富岡八幡のうらを通って木場へ通じていた堀で、油堀に架かるのが下之橋とあります。油堀を進んでいくと富岡橋があり、この橋は歌舞伎の『髪結新三』でよく知られている焔魔堂橋です。油堀は下記の図と思うのですが、架かっているのが中之橋なのです。

朱丸が中之橋、水色丸が油堀、黄色丸が富岡橋、ピンク丸が『東海道四谷怪談』の三角屋敷、赤丸がえんま堂の法乗院です。伊能忠敬さんが亡くなった後、この辺りは歌舞伎作品の舞台となったわけです。鶴屋南北さんの関連本を読むと『東海道四谷怪談』の三角屋敷の場はとても重要な場であることがわかってきます。青丸は材木商冬木屋のあった冬木町。

次に遭遇したのが中之橋の観光高札でした。

中之橋は隅田川と現在の大島川西支河とを結んでいて中之堀に架かっていた橋とあります。渡った福島橋の下が大島西支川でした。江戸時代から流れているのですね。下之橋はどうしたのでしょう。中之橋の位置も違います。

そして現れた上之橋跡でした。

観光高札があったのかどうか見逃しました。江戸時代から昭和59年(1984年)に清澄排水機場の建設に伴い撤去され、それまで残っていたのです。

清澄排水機場。

下の図では中ノハシと上ノハシの間の橋に中がみえます。

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そこで次のように推理しました。

朱丸の仙台堀に架かる橋を上之橋、黄色丸の中堀に架かる橋を中之橋、水色丸の油堀に架かる橋を下之橋。私的解釈で一件落着とします。

三つの橋は隅田川からながめるとなかなか味な情景だったようです。

目指すは7の清住町の平賀源内さんがエレキテルの実験をした場所ですが、階段がありましたので隅田川テラス側をのぞいてみます。清州橋とスカイツリーがみえます。

もどって進むとむかい側に石柱らしきものが見えます。

平賀源内電気実験の地跡

次の目的地は清州橋

清州橋

小名木川に架かる萬年橋

萬年橋から見た小名木川水門

萬年橋から見た隅田川と小名木川入口。左手に清州橋。萬年橋を渡り右手の隅田川テラスを進むと芭蕉さんの像にお会いできるわけです。

萬年橋の説明パネル。

萬年橋の解説。かつては小名木川を通る船の積み荷などをを調べる番所がありました。後に番所は中川口へ移ってしまいます。小名木川に架かる橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。歌川広重は「名所江戸百景」の中で「深川万年橋」として、葛飾北斎は「富嶽三十六景」の一つに「深川万年橋下」として富士山も描いています。

広重さんの萬年橋につるされた亀はインパクトがあります。手元に「名所江戸百景」と「富嶽三十六景」がほしいところです。

萬年橋は江戸時代の塩の道の隅田川からの入り口でもあるわけです。紫の線が塩の道です。

黄色丸が萬年橋で小名木川から中川に出る場所に番所が移ったわけです。少し江戸時代より位置がづれていますが現在この場所に中川船番所資料館があります。小さいのですが内容は充実していました。

塩の道につながってくれました。忠敬さんのおかげです。大河にならなくても重要な河を指し示してくれました。

追記: 今月の歌舞伎座第一部の『車引』の桜丸は上方の型でやるそうで、歌舞伎オンデマンドの『車引』を観ました。一つ一つの圧倒的な動きが目に飛び込みます。これも6月14日までの配信でした。間に合ってよかった。隈取の無い桜丸と衣装の色の違いなど、桜丸、梅王丸、松王丸の印象が舞台上では違う感覚を呼び起こしてくれるのでしょうね。

追記2: 『乾山晩愁』に光琳さんが材木商冬木屋の奥方のために描いた「冬木小袖」のことがでてきました。もしかして東京国立博物館で修復を進めていたあれではと思い出しました。やはりそうでした。今年中には修復したものが公開されるようです。深川との嬉しいつながりです。

追記3: 藤沢周平さんの作品に『橋ものがたり』があります。橋での出会いや別れなどの人間模様の機微が10篇にえがかれています。その最初の『約束』の橋が「萬年橋」です。同じ町に住んでいた幼馴染のお蝶が深川の冬木町に引っ越すと知り、幸助は五年後に小名木川の萬年橋の上で会おうと約束するのです。ふたりは会えるでしょうか。永代橋の出てくる作品もあります。橋は様々な人と想いを渡らせています。

伊能忠敬の歩いた道(1)

日本地図を描かれるために歩いた道ではありません。深川の黒江町の伊能忠敬宅跡より天文屋敷(天文台)までの道です。忠敬さん、家業を譲り引退して改めて勉学のために高橋至時先生に弟子入りします。そして自宅から天文屋敷まで通ったのです。ここを歩いてみたいと思っていて実行しました。

写真を撮りつつ道に迷いつつですので、忠敬さんがどのくらいの時間で歩いたのかはわかりません。さらに忠敬さんは歩幅をかぞえながら歩いてもいましたのでどんな感じだったのか。映画『大河への道』の感じですと、忠敬さんの歩く姿を実際に見た人はかなり奇異に感じたことでしょう。映画で香取市職員の池本さんが大河ドラマの「続武田信玄」のポスターを見て大河ドラマ誘致の発言したのも笑えました。大河の<続>はまだないですね。

隅田川でいうと、永代橋から蔵前橋を渡ったところへの道と言えます。

東京メトロ門前仲町駅から先ず伊能忠敬旧居跡を見つけるのが大変です。方向音痴系でいながら何となくこちらで歩いてしまうのですから。番地をみつつ行きましたがわからず、最後は深川東京モダン館頼みと訪ね、すぐですよと伊能忠敬旧居跡の石碑まで案内していただきました。感謝!感謝!

伊能忠敬旧居跡の石碑。出発です。

渋沢栄一宅跡

福島橋

大島川西支川。先に見えるのが御船橋(みふね)と緑橋。

佐久間象山砲術塾跡

永代通りを渡った向かい側近くに初代段四郎さんのお墓のある正源寺があるのですが、時間の関係上残念ながらあきらめてまずは永代橋に到着。ここまでくれば、後は隅田川沿いで進みます。隅田川テラスを歩けば楽なのですが、探す史跡もあるのでその一本内側の佐賀町河岸通りをたどります。

2が正源寺。3が佐久間象山砲術塾。6が伊能忠敬旧居のあった黒江町。永代橋は1807年(文化4年)に、富岡八幡宮の祭礼に訪れた人々の重さに耐えかねて崩落事故がありました。亡くなった方の数は定かではありませんが1500人ともいわれています。いかに多くの人々が押し掛けたかが想像できます。

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隅田川テラス。

地図上だけでの確認だったのが実際にわかるわけですから見つけるぞと気合が入ります。

早速、赤穂義士休息の地の碑。大高源吾がちくま味噌の初代竹口作兵衛と其角門下で、一同を招き入れ甘酒粥をふるまったとあります。碑を建立したのはちくま味噌16代目さんです。今の若い人は「忠臣蔵」といっても知らないようです。

向い側に古い建物が。

次は非常に頭を悩ませられた下の橋、中の橋、上の橋にいきます。

追記: 歌舞伎オンデマンドの2012年(平成24年)新橋演舞場での『仮名手本忠臣蔵 5段目6段目』が6月14日で配信終了ですので観ておいて欲しいです。特に6段目の上方型を観れるのは貴重です。この時の若手の通し狂言観ていました。思い出しました。10年前でまだまだと思って斜交いに鑑賞していました。特に6段目の勘平は18代目勘三郎さんのが好きでしたので、上方型とは気にかけずに何か地味だことと感じたと思います。今になって東京型(音羽屋型)との比較が出来、配信に感謝です。

追記2: 勘三郎さんの録画なく、同じ2012年の勘九郎さん襲名披露南座顔見世公演で、仁左衛門さんが東京型でされていた録画がありじっくり観させてもらいました。さらに文楽の録画もあり比較の楽しみ三昧です。今月大阪の国立文楽劇場で上演されていますのでそちらも是非観ていただきたいです。ついに17代目勘三郎さんの勘平のDVDも購入してしまいました(音羽屋型)。それぞれに発見があり多種多様の観方ができ、かつての名優の役者さんたちの芸も味わうことができ、どんどん末広がりとなり嬉しきかなでした。

追記3: 2012年に花形歌舞伎通し狂言『仮名手本忠臣蔵』をやっていたからこそ、2020年新型コロナの中、図夢歌舞伎『忠臣蔵』が誕生したのかもしれません。

追記4: 葉室麟さんの『乾山晩愁』を読んでいたら、尾形光琳が赤穂浪士に加担し、討ち入り装束が光琳さんの好みというナゾがからんできておどろきでした。江戸での光琳さんに援助していたのが深川の材木商の冬木屋だそうで、この話はここで止めておきます。先に進まなければなりませんので。それにしても面白し。 

日光街道千住宿から回向院へ・そして浄閑寺へ(5)

やはり浄閑寺まで到達しなければすっきりしません。というわけで南千住へ行ってきました。

かつては道があったのでしょうがいまは貨物車の線路が集中してまして、歩道橋下に延命寺・小塚原刑場跡がありました。

延命寺の地蔵菩薩は1741年(寛保元年)に造立され、明治29年に隅田川線が敷設するに伴って移設されたとあります。明治30年代から昭和30年代まで毎月5、14、27日は地蔵の縁日には大変なにぎわいだったそうですが、今ではちょっと想像できません。

お顔がよくわかりませんが優しい穏やかなお顔のお地蔵菩薩様です。

歩道橋のうえから、貨物線の沢山の線路が集まっているのがわかります。右の白い建物の黄色丸のところにJR隅田川駅とあります。貨物駅でも隅田川が駅名に残っているのはうれしいですね。かつては隅田川が引き込まれていて船でここまで運んで貨物列車でと荒荷を運んでいたようです。常磐炭鉱の石炭もここに集められていたのです。

南千住まちあるきマップによりますともっと南千住駅近くの南千住駅前歩道橋がビューポイントのようです。その歩道橋からですと隅田川駅での車両の入れ換え作業がみれるようです。

JR常磐線にそって西に向かいますと浄閑寺があります。1855年(安政2年)の大地震で犠牲となった多くの新吉原の遊女たちの遺体を葬ったとされるお寺です。のちに新吉原総霊塔が建立されました。

永井荷風さんが愛したお寺でもあり、娼妓のそばに自分の墓を望みましたが、お墓はなく谷崎潤一郎などによって文学碑とゆかりの品を納めた荷風碑がたてられました。そのほかおやっと思う方のお墓もあります。

本庄兄弟首洗井戸並首塚がありまして説明がありました。「父の本庄助太夫の仇である平井権八を討ち果たそうとした助七と助八の兄弟でしたが、兄・助七は吉原田圃で権八に返り討ちにあってしまう。弟の権八はこの井戸で兄の首を洗っているとことを無残にも権八に襲われて討ち果たされた。兄弟の霊を慰めんと墓(首塚)が建てられた。」

歌舞伎では白井権八となり、幡随長兵衛との出会う『鈴ケ森』は前髪の美しい若者と侠客の中のヒーローと決め場面は心躍らせます。歌舞伎は現実味を帳消しにして華にしてしまうところがあります。そこが面白さであち、芸の見せどころでもあります。

花又花酔の句壁。「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と「新吉原総霊塔」。

永井荷風文学碑荷風碑

浄閑寺を出ると音無川と日本堤の案内板と広重さんの『名所江戸百景』に描かれた新吉原へ通う客でにぎわう日本堤(吉原土手)がありました。

日本堤は三ノ輪から聖天町まで続く土手です(パステルグリーンの丸)。黄色丸の8が浄閑寺。6が新吉原。11が浅草寺。12が三社祭りの三社権現。14が天保の改革で芝居小屋が一ケ所にあつめられた猿若町。朱丸が待乳山聖天。不夜城の新吉原の周囲は田地です。

前進座の『杜若艶色紫』の最後の「日本堤の場」の舞台背景が気に入りましたが、この地図を見て絵画化してくれたようにぴたりとはまりました。

ただ安政の大地震の犠牲となった遊女の遺体は、音無川を船で運ばれたり、田地の間の道を運ばれて浄閑寺にたどり着いたのかなとも地図を見つつ想像してしまいました。遊女たちを偲んだ文豪永井荷風さんがそばにいますよ。

さてそのあとは、都電荒川線の始発・終点の三ノ輪橋駅から乗車。何年ぶりの都電でしょうか。チンチンの音もわすれていましたし、こんなに静かに移動していたんだと新鮮でした。さて適当なところで途中下車することにして日光街道千住宿の旅もここでお開きです。

日光街道千住宿

日光街道千住宿から回向院へ(1)

日光街道千住宿から回向院へ(2)

日光街道千住宿から回向院へ(3)

日光街道千住宿から回向院へ(4)

追記: 歌舞伎『鈴ケ森』は、鶴屋南北さんの作品『浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくのいなづま)』の一場面です。皆川博子さんの『鶴屋南北冥府巡』を読み終わりました。表と裏。南北さんと初代尾上松助さんをモデルとして、南北さんが松助さんのために『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』を書き上げるまでの話です。裏の世界を表現するのを得意とする南北さんが松助さんのために立作者となるまでを裏から描いていて、皆川博子さんの独特の視点でした。

追記2: 『鶴屋南北冥府巡』の付記に書かれていることをお借りして記入させてもらいます。

文化3年、桜田治助、没。文化5年、並木五瓶、没。伊之助は、立作者の地位を確立する。文化8年、伊之助は、四代目鶴屋南北を名乗る。文化12年、南北と組んで、文化年間、けれんの妖花を咲かせつづけた尾上松助、72歳にて、没。文政12年、鶴屋南北、没。75歳。翌年、年号は天保と変わる。「文化元年より、文政最後の年まで、江戸爛熟の25年間、南北の描く悪と闇と血と笑いは人々を鷲掴みにした。鼻高幸四郎、三代目菊五郎、目千両の半四郎など、すぐれた役者にも恵まれた。」1804年から1830年の間です。その次の時代、天保の改革によって歌舞伎の芝居小屋は浅草に集められるのです。南北さん関連本を数冊読む予定なので参考になります。ありがたし。

追記3: 永井荷風さんは、21歳のとき歌舞伎にかかわりたくて福地桜痴に弟子入りしています。下働きをし、柝を打つ練習もしています。しかし十カ月終わります。桜痴さんが歌舞伎座を去り日出國新聞社(やまと)の主筆となるので行動をともにします。近藤富枝さんは『荷風と左團次』中で、荷風さんは役者になりたかったと推察しています。その後、荷風さんと二代目左團次さんは出会います。二人の友情を<交情蜜のごとし>としてその様子を書かれています。歯切れのよい文章で読みやすく興味深いです。

追記4: 南北さんの時代は、芝居に対して細かい規制のお触れがあって、地名や料理屋などの名前も限定されていました。新吉原を背景にした狂言は、大音寺前、日本堤、隅田川、向島などの固有名詞は使用してもよいとされていました。高価な衣装はダメで、血のりもダメで赤く染めた血綿ならよいなど、子供だましでない大人の芝居としてどうリアルにみせるか工夫に工夫を重ねたことでしょう。

追記5: 鎌倉の建長寺の場所はもとは刑場で地獄谷よ呼ばれそのためご本尊は地蔵菩薩坐像であるということを『五木寛之の百寺巡礼』で知りました。

国立劇場周辺の寄り道

東京メトロ半蔵門線半蔵門駅から国立劇場の行き帰りの寄り道を紹介します。半蔵門駅の1番出口か6番出口を出ますと道向かいのマンションの間にに小さな稲荷神社があります。千代田区麹町にあるので麹町太田姫稲荷神社と呼ばれているようです。

神田にある太田姫稲荷神社の分社で、伝説によると太田道灌の娘が天然痘にかかり、さる稲荷神社に祈願したところ治り、江戸城内に勧請し祀られたました。そのあといろいろな変遷があり麹町の有志によって、地域の守護神、病気平癒、商売繁盛の神としてまつられたようです。

「バン・ドウーシュ」というオシャレな名前の銭湯もあったのですが今回見ましたら名前がなく廃業したようです。皇居周辺をマラソンするかたも利用していたようですが憩いの場がまた一つ消えていました。

1番出口、6番出口を右に坂を下っていきますと平河天満宮があります。これもまた太田道灌が江戸の守護神として江戸城にお祀りしたようです。二代将軍秀忠によってこの地にうつされ、平河天満宮の名にちなんで平河町と名づけられました。御祭神が菅原道真公ですから学問の神様で合格祈願のお参りも多いようです。

鳥居が銅で作られています。左右の台座の部分に小さな四体の獅子がいます。初めてみました。銅の鳥居は何代も続く名ある鋳物師(八代目・西村和泉藤原政時)によって作られ、江戸時代の鳥居の特色の一つとのことです。鋳物だからこそできる意匠です。

稲荷神社の横には、百度石があり、力石、筆塚などもあります。そのほか、石牛、狛犬なども奉納されています。

半蔵門駅の改札を出てすぐの右手に『半蔵門ミュージアム』のポスターがありいつも気になっていたのです。仏教に関係があるらしく無料なのです。駅すぐそばなのです。いつも使う出口ではなく4番出口すぐそばでした。

運慶作と推定される大日如来座像だけでも必見の価値があります。そのほかガンダーラ関係のものもあり、今回初めて入館しましたが、静かで入場者も少なくゆったり鑑賞できました。シアターも二つ観ました。「曼荼羅」は解説を読んでも難解ですが、映像によりほんの少し近づけました。「大日如来坐像と運慶」も心が揺さぶられました。次回は「ガンダーラ仏教美術」も観たいとおもいます。

そして今回は写真家・井津健郎(いづけんろう)さんの「アジアの聖地」の特集展示がありました。お名前も作品も初めての出会いです。プラチナ・プリントなのだそうでが白黒写真とは違う不可思議な感覚が呼び覚まされます。静寂、恐れ、邂逅、祈り、命の尊厳、悠久の時間空間、一瞬、などなど言葉を越えた世界です。

大日如来様に会えるだけでも嬉しい場所となりそうです。ただ展示替えの休館日などもありますのでお確かめください。

半蔵門ミュージアム (hanzomonmuseum.jp)

追記: 『猿之助×壱太郎「二人を観る会」』。予定していなかったのですが出先から電話すると当日券ありなので寄り道しました。頭から足の土踏まずの丸みまで全身見えての素踊り鑑賞。歌舞伎舞踊の身体表現の深さ。壱太郎さんの進行が絶妙で途絶えることのないトークの楽しさ。芸の話がさらっと何気なく出て超納得。愉快な思い出話など爆笑多し。最後は打ち上げ花火のような『お祭り』。まさしく「二人を観る会」でした。

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追記2: 『猿之助×壱太郎「二人を観る会」』が開催された日本教育会館の1階ロビーに御神輿が飾られていました。休憩時間にゆっくり眺めさせてもらいましたが、清元『お祭り』にぴったりの偶然の出会いでした。御神輿のように歌舞伎座などとは異なるピカピカのおふたりでした。この雰囲気は他では観れないかもです。(笑)

化政文化の多様性

映画『HOKUSAI』(2021年・橋本一監督)を観ていると本当に化政時代の文化は庶民を歓喜させ多様さの花盛りであったとおもわされます。葛飾北斎さんを映画にすると様々な角度から描くことができ、さらに絵のその到達度と発想の変化球を追うだけでも観客はワクワクしてしまうとおもいます。

読み物、俳諧、川柳、錦絵、人形浄瑠璃、歌舞伎などそうそうたる創作者が輩出しています。そしてそこに観る側の庶民の熱気があったわけです。歌舞伎役者からファッションを取り入れたりもしました。もし当時の江戸の人が今の時代に飛び込んできたら、SMS!実際に観ないでどうするんだい、シャラクセイ!と言ったかもしれません。

映画『HOKUSAI』は、北斎さんが独自の<波>に到達し、80代半ばで弟子である高井鴻山を訪ね小布施に出かけ、祭り屋台に<波>を描くという<波>に力点を置いています。

同時代の人として、柳亭種彦を配置しました。種彦さんは武士であり、出筆に悩みますが最後まで自分の意思を通すということで悲惨な最期をとげます。実際には死因は不明のようです。

種彦さんが気になり『柳亭種彦』(伊狩章・著)を読み始めましたら、歌舞伎の中村仲蔵が斧定九郎のモデルにした人のことがでてきました。種彦さんは小普請組(こぶしんぐみ)に属していました。小普請組は泰平の世であれば、これといった仕事もなくすることがないので問題を起こす人もいたようです。

「小普請組の悪御家人、外村(とむら)大吉が、刃傷・窃盗の罪で斬罪になった話などその適例である。歌舞伎役者の中村仲蔵がこの外村のスタイルを忠臣蔵の定九郎の型にとりいれたことなど余りにも名高い。」とありました。

今月(24日まで)の文楽『義経千本桜』(伏見稲荷の段、道行初音旅、川連法眼館の段)を観て同じ演目でも歌舞伎との相違点から楽しませてもらいましたが、この定九郎も文楽と歌舞伎では全然違います。歌舞伎では「50両」だけの台詞ですが、文楽では定九郎は饒舌です。そして残忍で与一兵衛をなぶり殺しにするという憎くさが増す定九郎です。歌舞伎は役者がどう見せるかの工夫を常に意識することによって、変化してきたのでしょうが、あの文楽の早変わりの動きはいつからだったのでしょうか。

さて化政文化の中に鶴屋南北もいたわけです。この方も次から次へと当たり狂言を書いていきます。

桜姫東文章』はシネマ歌舞伎での印象が強く残りますが、南北さんの発想も奇抜です。ただ仇討ちやお家のためとなると、あの情欲におぼれているとおもわれた桜姫が、仇の血が流れる我が子を殺し、釣鐘権助(つりがねごんすけ)を殺すのですから、さらにその展開には驚きます。

葛飾のお十もお家のためとなれば喜んで桜姫の身代わりとなって女郎屋にいきます。とにかく仇討ちやお家のためならば、女性が身を売ることは美徳なわけです。当時はそうであったのでしょうが、今観ると何か南北さんの皮肉にもとれてきます。

自分から情欲におぼれていながら、最後は艱難困苦のはて目出度くお家再興を果たした桜姫というのが観ていて清き正しき桜姫の復活だと思えて可笑しかったです。桜姫は因縁を自らの手で封印してしまったのですから自立したお姫様ともいえます。

ただこれも役者で見せる演目だなあと改めておもわされます。仁左衛門さんと玉三郎さんという役者を得ての演目ともいえるのです。ただ時間が経てば新たな役者ぶりの演目となって化けることはあるでしょう。

そして仇討ちに違う見方を加えたのが明治、大正の『研辰の討たれ』で、現代によみがえらせたのが、『野田版研辰の討たれ』でしょう。

さて今上演中(23日まで)の南北さんの前進座『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)ーお六と願哲ー』のほうは、ドロドロとはしていません。亡霊もでてきません。

お六は見世物の蛇遣いの女性で悪婆ものと言われる役どころです。お六といえば、『お染七役』の土手のお六が浮かびます。蛇遣いお六は男勝りで、気の利かない亭主の義弟のためならと一肌ぬぐのです。そのことが回りまわって犠牲となった人のために自らの手で決着をつけるという、言ってみれば格好いい女性でもあるわけです。邪悪な女に見せておいて心根はそうではなかったのだと落ちがつくわけです。

この辺りは『東海道四谷怪談』のお岩さんの亡霊になって恨みを晴らすという設定とは違うところでもあります。こういうところも南北さんの多様な発想の面白いところです。

五世國太郎さんは、悪婆の國太郎と言われた役者さんで、今回は五世國太郎さんの三十三回忌追善公演でもあり、六代目國太郎さんがお六を演じられるのです。筋書によりますと、女形不要論の時期があり、五代目國太郎さんも不遇の時代があったようです。そして万難を排しての悪婆役への到達だったようです。

南北さんですから実はこういうことでしたという人間関係となりますが、途中で口上も入り、聴きやすい口跡で分かりやすく、その後の展開に参考になりました。的確な入れ方でした。

ここから物語に集中でき、國太郎さんの演技も光ってきたように思えます。お六がひるがえす裾の裏の模様が撫子で粋でした。

人間関係は次のようになります。

南北さんにしてはそれほど難解な人間関係ではありませんが釣鐘の苗字も使われています。そのほかにもあるのかもしれません。國太郎さんはお六と八ツ橋との二役で、おとしいれる側とおとしいれられる側の両方を受け持たれるわけです。

劇中では二人の次郎左衛門の名前がやはり重なるように仕組まれていて、南北さんの使う手だなとおもわせてくれます。さて佐野次郎左衛門(芳三郎)と八ツ橋(國太郎)の運命はいかに。このあたりの見どころも当然盛り込まれています。そしてお六(國太郎)と願哲(矢之輔)の関係はその後はどうなるのでしょうか。下手な口上よりも観てのお楽しみ。

南北さん、江戸庶民に親しまれていた場所を登場させます。風景は違っても今でも名前が残っている場所が多々あります。

最期の<日本堤の場>の舞台背景も、当時はこんな感じで見渡せる風景だったのであろうと思いつつ眺めていました。そしてここで立ち回りも入ります。

芝居の会話の中で三河島のお不動さんが出てきまして、今もあるのかなと思いましたら、前進座公式サイトの  劇団前進座 公式サイト (zenshinza.com)  「ふかぼり芝居高座」<ふかぼり番外 南北カンレキ>で現在の荒川区三峰神社の袈裟塚耳無不動であることを教えてくれました。三河島。南千住の隣駅です。いやはや呼ばれていますかね。

三峰神社 袈裟塚(けさづか)の耳無不動/荒川区公式サイト (city.arakawa.tokyo.jp)

山東京伝の黄色本にも書かれたようで、山東京伝さんも化政文化時代のお仲間です。

筋書に杵屋勝彦さんが中村義裕さんと対談していまして、杵屋勝彦さんは昨年「すみだリバーサイドホールギャラリー」で『2021年度第41回 伝統文化ポーラ賞受賞者記念展』での受賞者の方だと気がつきました。前進座と縁の深い方で、今回のお芝居でも邦楽での唄にお名前があります。これから観劇の方は音楽にもご注意ください。

ロビーでは「五世河原崎國太郎展」のコーナーもあります。

化政文化は庶民が参加してワイワイ楽しんで作り上げたもので興味がつきません。それにしても発信者側のそうそうたる方々の人数のなんと多いことでしょうか。

追記: 歌舞伎『ぢいさんばあさん』の原作、森鴎外さんの『ぢいさんばあさん』を読んだところ、引っ越してきた老夫婦の様子を周囲の人々が見て噂話をするような感じで書かれはじめています。甥っ子夫婦も出てきません。老夫婦は朝早くから出かけることがあり、それは亡くなった息子さんのお墓詣りに行くのです。赤坂黒鍬谷(くろくわだに)にある松泉寺です。このお寺赤坂一ツ木から渋谷に移転し今もあるようです。この老夫婦はわけあって37年ぶりに再会しますが、再会したのが文化6年でした。文化文政の化政文化時代に突入したときでした。ただそれだけのことですがインプットされました。

追記2: 志の輔さんの創作落語「 伊能忠敬 物語―大河への道―」が映画化された『大河への道』がいよいよ公開されます。伊能忠敬さんが隠居して自分の好きな道を突き進み歩き続けるのが化政文化の時代です。またお仲間がふえました。

追記3: 『名作歌舞伎全集 第二十二巻』に『杜若艶色染』が載っていまして(土手のお六)となっていました。「蛇遣いの土手のお六」ということになりますか。舞台を観ていたので読んでいてこの人はこうでとか浮かびますが、文字を立体的な動きのある舞台にするということは大変な作業だと改めて思いました。さらにどう役作りをし、それが観客にどう伝わるか。観ている側でよかった。

追記4: 映画『大河への道』(中西健二監督)期待以上でした。立体を平面にする作業。現代と江戸時代の二役のキャラの相違。笑わせて泣かせて。脚本家の加藤先生の執筆に対するこだわりが素敵です。忠敬(ちゅうけい)さんが出てこないのに忠敬さんがそこにいます。将軍に大地図を見せる場面、CGでも目にできてよかった。

映画『湖の琴』からよみがえる旅(2)

京都から湖西線で近江塩津まで行き、北陸本線に乗り換えて、米原で東海道線に乗り換えるという旅を計画したことがあります。当然、高月が入ります。途中、近江今津と余呉に寄ることにしました。

近江今津の観光案内で観光スポットを地図に書き込んで教えてもらいました。水色丸が琵琶湖周航の歌記念碑。青丸が琵琶湖周航の資料館。黄色丸はヴォーリズ通りと称して、アメリカ人のヴォーリズが近江八幡へ英語教師として来日し、その後キリスト教布教と社会福祉事業のために建設設計事務所を開き、洋館を設計します。今津ヴォーリズ資料館日本基督教団今津教会旧今津郵便局と並んでいます。赤丸は江若(こうじゃく)鉄道駅跡

琵琶湖周航の歌碑の形は今津の地形をかたどっています。赤御影石の歌碑には歌詞1番から6番まで刻まれています。琵琶湖には歌碑が、今津、竹生島、長浜、彦根、近江八幡、大津、近江舞子にもあります。

ヴォーリズ通り今津ヴォーリズ資料館日本基督教団今津教会旧今津郵便局

ヴォーリズ建築は近江八幡に行ったとき知りましたが、やはり近江八幡が一番多いです。当時、アメリカで開発されたメンソレータム(今のメンターム)の輸入販売も開始し、設計の収入とで売り上げ収益もよかったようですが、全て社会事業などに使われました。近江の人はヴォーリズを「近江の百万損者(そんじゃ)」とあだ名しました。

日本人女性と結婚し日本国籍を取得しましたが、太平洋戦争では苦難の時期だったようです。

江若鉄道近江今津駅跡。浜大津駅から近江今津駅まで走っていた鉄道でその後、湖西線に変わります。この三角屋根で親しまれた駅舎跡の建物も惜しまれつつ昨年解体されました。

次は余呉駅で途中下車。余呉湖に行ったときには気にもとめませんでしたが、左側の黄色丸が西山大音です。ピンク丸が天女の衣掛柳。現在地に余呉湖観光館。案内板も賤ヶ岳周辺での秀吉と勝家のそれぞれの陣地を示す案内でした。

余呉湖に伝わるいくつかの「天女羽衣伝説」の内の一つ。天から舞い降りた天女と村人との間に生まれた男の子が、後の菅原道真公で幼少期の道真公が預けられたと伝わる菅山寺があります。

小説『湖の琴』では、『湖北風土記』から紹介しています。余呉湖の畔に桐畑太夫という長者がいて柳に掛かる天女の衣を見つけてこれを隠します。桐畑太夫は天女を連れて帰り、天女は泣く泣く嫁となり二人の子ができました。ある時、天女は子守女の唄から隠されていた衣を見つけ天に帰ってしまいます。母の居なくなった子供たちは、夜な夜な湖畔の石の上にたたずみ泣きました。菅山寺の老僧が二人を寺に連れ帰り一人はなくなってしまいますが、もう一人は後に学者となりました。それが菅原道真公です。

子供たちが立って泣いた石は、「夜泣き石」として残っています。映画でも喜太夫が自分の解釈でさくに説明しています。

余呉湖の役目の説明板がありました。

人がいなくて本当にひっそりとした余呉湖でした。余呉湖観光館の食堂がお休みで空腹のためなおさら寂しさを感じる風景でした。

いよいよ十一面観音の高月へ。

文学碑。「慈眼 秋風 湖北の寺 井上靖書」。この十一面観音のことは井上靖さんの小説『星と祭』に出てくるのです。

星と祭』読もうとおもい図書館から借りましたが、知床での船の事故と重なるようでつらい話となります。

映画『湖の琴』に誘われてのかつての旅の反芻はこの辺でお開きとします。まだまだ途中下車して楽しめる場所がありそうです。近江の白髭神社もよさそうです。

追記: 国立劇場大劇場で前進座『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)ーお六と願哲ー』鑑賞。鶴屋南北さんのまぜこぜはやはり面白し。八ツ橋花魁に佐野次郎左衛門とくれば、『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』となりますが、この芝居ではお六と破戒坊主の願哲が主導権をにぎり、佐野次郎左衛門は浪人中の侍の設定です。名刀の「籠釣瓶」も登場し、さらにもう一刀「濡れ衣」が登場。複雑そうですが、國太郎さんの早変わりを楽しみながら、わかりやすいお芝居となっていました。

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映画『湖の琴』からよみがえる旅(1)

映画『湖の琴』(1966年)は水上勉さんの原作ですが、<湖>を<うみ>と読ませるのだそうです。近江の余呉湖が重要な舞台となります。

三味線や琴など邦楽の弦糸を生産している近江の大西に若狭から栂尾さく(佐久間良子)が働きに出ます。次の日、主人の百瀬喜太夫(千秋実)が違う部落に用事があるためさくを伴って賤ヶ岳(しずがだけ)へ登ります。賤ヶ岳は羽柴秀吉と柴田勝家が信長の後継者争いの戦いの場となったところです。映像にもさくの想像としてた兵士が走りまわります。

そして、賤ヶ岳の頂上に到達すると琵琶湖と余呉湖が両方見えるのです。さくが桑の葉をつみに来るためにも桑賤ヶ岳のふもとにある桑畑も教えておきたかったのです。農地を売るということで訪れた部落で、さくは、松宮宇吉(中村 嘉葎雄)と出会います。宇吉は今度喜太夫のところで働くことになったのです。宇吉も若狭の出身でした。宇吉には両親がなく、すでに繭の糸取りもできる仕事熱心な青年でした。

お蚕さんを飼い、繭から糸を取り、糸巻きにとりつけて巻き、独楽よりで糸をより弦糸にするその様子が見ることができるという興味深い映画でもあります。90パーセントの三味線の糸がこの地域で作られていたのです。それも機械でなく手づくりです。

原作によると、初心者のさくがおこなっているのが真綿づくりだということがわかります。出来の悪い死繭を特別に煮たものを桶にあつめておいて、繭をひき破り、マス型の木枠にはめてうすく延ばす仕事です。

三味線糸の生まれる場所を見たいと京で有名な三味線の師匠・桐屋紋左衛門(二代目中村鴈治郎)が西山を訪れます。その前に高月の渡源寺で十一面観音様を見て感動し、西山でさくに出会い観音様と重なってしまいます。紋左衛門はこの娘に三味線を仕込んでみたいと思い立ち、京に呼ぶのです。西山の人々は誉だと喜び、さくも皆の期待に応えようとおもいます。さくが想いを寄せる宇吉は兵役のため入隊していました。

宇吉はもどり、二人は結婚を誓います。師匠は宇吉の存在からさくを誰にも渡したくないと思うようになります。さくはそのしがらみから逃げ出し宇吉のもとにきます。そして結ばれて自殺してしまいます。宇吉は誰にもさくの遺骸をさらしたくないとして糸の箱に詰め余呉湖に沈めることにします。宇吉は一人生きてゆ気力を失い自分も箱に入り、二人は湖深くに沈んでいくのでした。

余呉湖には羽衣伝説もありそのことも映画では重ねられています。西山には古い話が多く残っていて、西山の人々は紋左衛門一行に得々と語ります。

水上勉さんは、この作品は全くのフィクションで、近江の大音と西山へ何度か行っていて自分の生まれた若狭の村とあきれるほど似ていたといいます。桑をとり、糸とりする作業も母や祖母がやっていた座ぐり法で、七輪で繭を煮て枠をとるのも同じであったそうです。

「一日だけ、余呉湖行楽の帰りに、私は高月の渡岸寺に詣でて、十一面観音の艶やかな姿を見た。観音の慈悲の顔と、座ぐり法で糸をとっていた娘さんの顔がかさなった。と、私の脳裡に、不思議の村を舞台にして、亡びゆく三味線糸の行方を、薄幸な男女に託してみたい構想がうかんだ。」

連載中に、映画『五番町夕霧楼』の田坂具隆監督と脚本家の鈴木尚之さんが是非映画にしたいとし、結末を心中とするというメモをおいていきました。水上さんは二人の仕事ぶりに敬意をもっていたので一切を任せたとのことです。

思いもかけず賤ヶ岳の上から余呉湖をながめる風景や、弦糸の手作りの様子が見れて貴重な鑑賞となりました。題字が朝倉摂さんで、衣装デザインが宇野千代さんです。

原作で桐屋紋左衛門は、石山寺、義仲寺、渡岸寺と訪れています。

渡岸寺の十一面観音。絵葉書から。

渡岸寺は奥琵琶の観音像を訪れるツアーに参加し、渡岸寺は電車でも行けるのを知り、いつか再訪したいと考えていました。そして、ほかの地も訪れつつ渡岸寺にたどり着いたのです。その時余呉湖も訪れたのです。かつての旅がよみがえりました。

追記: 国立劇場小劇場での文楽鑑賞。文楽の『義経千本桜』の「伏見稲荷の段、道行初音旅、川連法眼館の段」が観れました。映像では味わえない躍動感。場面場面で人形遣いの方の衣装も変わり、人形と勘十郎さんの早変わりと宙乗りもお見事。ついに生で観ることができ念願かなったりです。咲太夫さんが休演だったのは残念でしたが、太夫さんの声、三味線の音も心地よく堪能できました。