深川江戸資料館 ごっつあんです

江東区『深川江戸資料館』へ新内を聴きに行った。常設展示室の火の見やぐらの下まで流してきて、簡単な解説を入れて新内を聴かせてくれ、また流していく。少し休憩があって、また流してきてとこれが一時間の間に三回ある。

資料館での「新内流し」は初めての体験である。演者は新内多賀太夫さんと新内勝志壽さんである。演目は『狐と弥次郎兵衛』で、新内と言えば心中物とされるが、『狐と弥次郎兵衛』のように滑稽な内容の物もありチャリ物と言われると説明がった。

内容は、弥次郎兵衛が喜多八とはぐれてしまい、赤坂の松並木で自分に化けた小狐に会い一緒に踊ってしまい、狐は逃げ出してしまう。その話を簡単に置き、クドキなどの三つにわけ、三回分のそれぞれの聴きどころを押さえて語られたのである。吉原かぶりのこと、縞の着物は新内が流行らせたこと、三味線は細いヒモで支えられていること、上調子の三味線のバチがとても小さいことなどを説明してくれ、新内に少し近づいた気分にさせてくれ、高音で聴かせどころを語ってくれた。

知らなかった新しい知識ももらい楽しかった。帰ってからCDで『蘭蝶』を聴いてしまった。こちらは端物という。

企画展『杉浦日向子の視点 ~江戸をようこそ~』(11月10日まで)とゴールデンウイーク特別展『深川モダン ~文化で見る近代のKOTO~』(5月6日まで)も開催されていて、いやいや、ごっつあんです、である。

杉浦日向子さんとはアニメ映画『百日紅』以来であろうか。 『肉筆浮世絵 美の競艶』展

杉浦日向子さんの原作でもう一本映画があるのを知る。映画『合葬』である。彰義隊の若者たちの青春群像を描いている。漫画の実写化で原作は読んでいないが何となく杉浦日向子さんの社会性から少しずらした若者の心情が出ていて漫画の一コマはこんな絵かなと想像してしまう。

三人の若者が彰義隊に参加する。徳川慶喜が江戸を去る時に見送った秋津極は、その姿をみて慶喜の敵討を決意する。福原悌二郎は妹・砂世が極と婚約しているのでそれを反故にするのかと極にせまる。そこに居合わせた吉森柾之助は養子先の父が仲間内の争いで殺されその仇を義母から言い渡され、都合の良い養家からの追放であった。三人は幼い頃から知っており、写真を撮り三人の若者が彰義隊に参加する。

徳川慶喜が江戸を去る時に見送った極は自分から彰義隊に入るが、柾之助は行くところがないので何となく引っ張られて入隊。長崎で蘭学を学んだ悌二郎は彰義隊など意味がないとして解散を説得するためについてゆく。彰義隊の指導的立場の森篤之進は、新しい生き方を望む者は去らせ、それでも志を曲げない者たちの死に場所を作ってやりたいと思うが、上のほうは何の方針もなく、ただ若者たちを鉄砲玉の替りとしか考えていない。

腰抜けだと森は若い彰義隊に殺されてしまう。森の想いを知っていた悌二郎は、彰義隊を離れるが妹のお嫁に行く前に極に一度会いたいという想いを遂げさせるため再び彰義隊にもどる。そして開戦に居合わせ、二人だけ死なせるわけにいかないと残るのである。

柾之助が好きになった娘が極を好きであったりと淡い恋い心も挿入されている。そして三人のその後は・・・

(監督・小林達夫/出演・柳楽優弥、瀬戸康史、岡山天音、門脇麦、オダギリジョー)

杉浦日向子の視点』の展示内容も杉浦日向子さんの江戸ワールドが展開されている。江戸で人気があった三男が火消、力士、与力とある。これは、『一日江戸人』にも書かれていることであるが、与力とあるのが面白い。与力は上下色の違う裃(継裃)であったが、幕末には羽織となる。しゃべり方が「来てみねえ」「そればっかり」「そんななァ嫌(きれ)ぇだよ」と庶民に親しみを与え、金銭的にも余力があり、こせこせせず遊びにも精通していたようである。杉浦日向子さんの好みと研究の深さがわかる展示である。

もう一つ『深川のモダン』の展示は、深川の出てくる書物を探し出しその書物を展示し、さらにそれを書いた著者も紹介している。その数が多いのである。よく探し出されたと思って係りの人の尋ねたところ、この資料館の館員さんたちが探し出したのだそうである。

小津安二郎監督、谷崎潤一郎さん、永井荷風さん、泉鏡花さんなども別枠となっていて、泉鏡花さんはタウン誌『深川』で特集「鏡花と歩く深川」となっており、これでまた鏡花さんの歩いた深川めぐりを楽しむ機会が増えた。


「国立映画アーカイブ展示室」から

  • 最古の『忠臣蔵』鑑賞のあと、7階にある展示室へ。久しぶりである。目的は『生誕100年 映画美術監督 木村威夫』の展示であったが、見慣れた常設展・「日本映画の歴史」からさらっと見て行ったが、『藤原義江のふるさと』の映像で足が止まる。今回は浅草オペラなども少し知ったので以前と興味が違う。なるほどこれが「吾等(われら)のテナー」かと耳をそばだてる。1930年、溝口健二監督作品で日活第一回のトーキー映画と宣伝されている。完全なトーキーではなくサイレント部分もあったようである。

 

  • 藤原義江さんは、澤田正二郎さんが新国劇を立ち上げた時、戸山英二郎の名前で入団している。ところが、関西で田谷力三さんの歌声をきいてオペラの道に進むのである。全く音楽などやったことのない人であった。日本にオペラが誕生したのは、帝国劇場にイタリア人のローシーが招かれてオペラの指導をしたのが始まりである(1912年)。ここで清水金太郎さんなどが育つ。石井漠さんはローシーと喧嘩して山田耕筰さんのところへいくが、ローシーに指導されたバレエが後の舞踏家誕生となるのである。帝劇歌劇は経費がかさみ1916年には解散となる。

 

  • ローシーは自費で東京赤坂「ローヤル館」を設立、オペラをはじめる。ここに入ったのが三越少年音楽隊出身の田谷力三さんである。この「ローシー・オペラ」で田谷力三さんを聴いてオペラに魅了されたのが藤原義江さんなのである。ローシー・オペラ→浅草オペラ→藤原歌劇団へと進むわけである。ちなみに「ローシー・オペラ」は失敗で、1918年にローシーさんは日本を離れる。横浜港から見送ったのは田谷力三さんだけであった。

 

  • 浅草オペラの根岸歌劇団の柳田貞一さんの弟子となって・看板スター・田谷力三さんと同じ部屋にいたのが榎本健一さんである。エノケンさんはその前に、尾上松之助さんに弟子入りしようとして京都に行くが居留守を使われあきらめる。そのあと根岸歌劇団のコーラス部員となるのである。関東大震災で浅草オペラは衰退。エノケンさんは二回目のカジノ・フォーリーでやっとお客をとらえる。お金がないから道具立てはなくバックは画である。

 

  • エノケンさんバックの描かれたベンチで腰かけ弁当を食べ、胸がつかえて描かれた噴水の水を飲む。大爆笑。新しい喜劇の誕生である。エノケンさんが初めてでたトーキー映画が日本初の音楽レヴュー映画『エノケンの青春酔虎伝』である。1934年。『藤原義江のふるさと』から4年後である。監督はエノケンさんの希望で山本嘉次郎さんであった。撮影は同時録音で、二階からシャンデリアに飛びつき手がすべってコンクリートの床にたたきつけられ気を失う。気が付き立ち上がるが再び倒れて病院行きとなったがキャメラマンはしっかりまわしていたという映画である。こちらも止まらなくなるのでここでとめる。

 

  • 展示室には、アニメ『アンデルセン物語』で登場するキャラクター人形があった。これも見た記憶があるが、何のアニメか忘れていた。『アンデルセン物語』のアニメ映画を見てすぐなので親近感が違う。時々は同じ展示とわかっていてものぞいてみる必要がありそうである。

 

  • 映画美術監督・木村威夫さんの仕事も素敵である。最古の『忠臣蔵』のセットはかなり手を抜いていたので、その後の映画人がいかなる努力、工夫によってセットやロケのための設定をしたかの心意気が伝わってくる。『』(豊田四郎監督)は好きな映画で坂の場面は特に印象深い。医学生の岡田(芥川比呂志)が散歩で、高利貸しの妾であるお玉(高峰秀子)の家の前の坂道を通る無縁坂。あれはセットであった。緻密につくられた設計図に基づいて作られていたのである。

 

  • 木村威夫さんの父・小松喜代子(きよし)さんは、岡田三郎助さんに東京美術学校で教えを受けている。岡田三郎助さんは二代目左團次さんと小山内薫さんが始めた「自由劇場」の背景の仕事をしており、喜代子さんはその手伝いをしている。わが国で最初にイプセン劇を演じたのが二代目左團次さんで、森鴎外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』である。小山内薫さんはその後「築地小劇場」を創設。その頃舞台美術家として活躍していたのが伊藤熹朔さんである。木村威夫さんは、伊藤熹朔さんに師事するのである。

 

  • 『雁』以降の映画美術で資料として展示されていたのは、『或る女』『春琴物語』『黒い潮』『雑居住宅』『陽のあたる坂道』『昭和のいのち』『花と怒涛』『肉体の門』『刺青一代』『東京流れ者』『ッィゴイネルワイゼン』『ピストルオペラ』『カポネ大いに泣く』『忍ぶ川』『サンダカン八番館 望郷』『本覺坊遺文 千利休』『ZIPANG』『父と暮らせば』『夢のまにまに』『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』などである。『陽の当たる坂道』では、やっとこれという洋館を鶴見に見つけ、中はセットで坂道は別の場所と4、5か所をモンタージュでつないだということである。『ZIPANG』は、宇都宮の大谷石地下採掘場を使っていた。木村威夫さんの仕事のほんの一部である。『夢のまにまに』『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』は映画監督作品でもある。

 

  • 映画『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』(2009年)をDVDで観た。筋は有るような無いような。舞台は老人ホームで元気だが色々な事情で入居している人々と職員の様子が描かれている。主人公は学歴のない植物学者ということらしい。学歴があってもなくてもよいのだが一応話題として出てくるのである。その植物学者が黄金花をみつけてその花に惹きつけられて水死するということで映画は終わる。とらえどころがなく、美術映画監督の木村威夫さんの様々な映画の仕事を映画をみつつ思い浮かべて楽しむ方向に切り替えた。自然尊重のもの、文学的なもの、斬新なものなどその映画美術に関しては広域におよんでいる。その一つ一つを散りばめているようにおもえた。黄金花の花粉が光となって拡散しているようである。

 

  • DVDの特別映像で、京都造形芸術大学北白川派との共同作業で出来上がった作品らしいということがわかった。木村威夫監督は筋はいらないといわれている。一応基本がなければということで周囲の人が筋を考えているようだ。木村威夫監督は若者のようなアバウトさで新しい映像を求めているらしい。周囲はかなり困惑している。変更に変更を重ねていく。91歳。60歳のとき0歳になったのだから今は31歳だという。老人が登場するが31歳の感覚の映画を作るといことであろうか。老人たちが思う出すのも30代の場所ということか。筋書きがあるようで無い生のたゆたい。

 

  • 大学の学生さんが、ヒマラヤの山奥の200年生きる人の背景を発泡スチロールで一生懸命作っていて、その出来栄えに木村威夫監督が感動していた。映像に映るか映らないかわからない美術。まさしく秘するが花の仕事である。国立映画アーカイブでの映画美術監督・木村威夫さんの展示は来年の1月27日までやっている。

 

  • もう一つ映画ポスター展のフライヤーがあった。場所は「アーツ千代田3331」で営団地下鉄銀座線の末広町駅4番出口徒歩1分とある。末広町駅は初めて降りた。建物の前が練成公園で、案内板がある。『松浦武四郎住居跡』「1818年伊勢国で生まれ、日本全国を旅し見聞を広めた。その後、蝦夷に渡り、蝦夷地の豊かな原始の自然に魅せられた、アイヌの人たちとともに全6回、13年にわたり、山川草木の全てを調査した。明治になると、政府が設けた開拓使の役人となり、蝦夷地に代わる名称「北海道」を提案採用される。1888年、この地で亡くなる。」

 

  • 「アーツ千代田3331」は元練成中学校の建物である。『映画ポスター モダン都市風景の誕生』で、『浅草の灯』のポスターもあった。ポスターの数は少ないが、大きなポスターもありよく保存していたと思う。興味ひかれたのは関東大震災以後にできた映画館の写真映像である。モダンで「葵館」などは建物の表がレリーフになっている。当時の新しい感覚を取り入れ、映画館内もデザインに凝っており、ロビーの椅子や灰皿などもアートを主張している。ポスター、映画館の建物、内部と人々を誘い、スクリーンでさらに魅了させたわけである。それにしても廃校の面白い使い方である。

 

  • いわさきちひろさんも師事した岡田三郎助さんの展覧会が、箱根の「ポーラ美術館」で開催されている。(2019年3月17日まで)『岡田三郎助生誕150年記念 モダン美人誕生』。「ポーラ美術館」は一度行ってみたいと思っていたので良い機会である。計画にいれよう。

 

『浅草文芸、戻る場所』(日本近代文学館)

  • 京王井の頭線・駒場東大前駅西口改札から歩いて7分の「日本近代文学館」で『浅草文芸、戻る場所』展をやっている。関東大震災のころは、写真というものが庶民に広く普及していたわけではないので、十二階の凌雲閣などの様子も銅板画とか錦絵などで、こういう貴重な絵をしっかり保管しておられる方がいての展示である。2時からギャラリートークもありそのあたりのことの解説があった。

 

  • 凌雲閣は関東大震災で二つに折れて倒れ、その後爆破されて消滅してしまうが、今年の2月にその建築跡が出て来てきちんとその位置が確認されたそうである。そのときに分けてもらった赤レンガの破片が展示されていた。凌雲閣が重要な場面となっている文学作品の紹介もあった。爆破のときのことは、川端康成さんの『浅草紅団』にもでてくるし、江戸川乱歩さんの『押絵と旅する』にも出てくるらしい。乱歩さんが使いたい建物である。青空文庫にもあるらしいがまだ読んでいない。

 

  • 凌雲閣の映画といえば、『緋牡丹博徒・お竜参上』である。最後の闘争の場所が凌雲閣なのである。お竜さんが、鉄の門を開けるのであるが、そこからすぐに凌雲閣の建物がありこんなに狭いのだろうかとおもったが、絵からするとかなり正確である。架空の東京座という劇場の利権争いがあるが、この東京座の前に実際にあった電気館の建物が映り、この六区のセットには相当力を入れていたのがわかる。

 

  • 監督は加藤泰監督で脚本も鈴木則文さんとふたりで書いているので、意識的に凌雲閣を選んだのであろう。お竜さんが世話になるのが鉄砲久一家で、色々調べられて、六区を選んだ以上その雰囲気を作り出そうと頑張られている。映画人の心意気である。お竜さんが馬車で走る鉄で覆われた橋はかつての吾妻橋のように思える。今戸橋の雪の中をころがるミカン。この映画の事は書いているかもしれない。

 

  • 文学のほうにもどると、ひょうたん池に噴水があったが、もう一つ浅草寺の本堂の後ろにも噴水があってその真ん中に立っていたのが、高村光雲作の龍神像で、今はお参り前に清める手水舎に立っているのだそうで、よく見ていないので今度いったときは見つめることにする。その噴水で子供の身体を洗ってやる親子のことを書いているのが、堀辰雄さんの『噴水のほとりで』である。堀辰雄さんは橋を渡ったすぐの向島の育ちであるから浅草育ちと言ってよいだろう。

 

  • 浅草はレビュー、カジノフォーリー、オペレッタ、浪花節、女剣劇、喜劇などのエノケン、ロッパ、シミキンなど多くの芸人さんの名前が登場する。シミキンこと清水金一さんなどの「シミキンの笑う権三と助十」の宣伝ポスターもある。伴淳さんもロック座で一座を構え、喜劇とレビューをやっていたが、レビューのほうが人気となりそれがストリップとなり、伴さんの退団でストリップ劇場になったとあった。こういうポスターやチラシなどを収集しているかたがいてその方たちからお借りしての展示となったようである。

 

  • 同時開催として『モダニズムと浅草』として、川端康成さんを中心にした展示室もある。川端さんは映画『狂った一頁』(1926年)で映画製作にも参加している。小説『伊豆の踊子』の発表が1926年で、小説『浅草紅団』が1929年に発表され浅草が評判となり、1930年には映画化されている。そして『伊豆の踊子』が1933年に映画化されている。大正時代の経験が小説となり、そして、映画化さる。川端康成さんの作家として、あるいは作品としての知名度は芸人さんと芸人さんのいた場所と映画とが結びついて始まっているわけである。

 

  • 大正モダニズムについては、日比谷図書文化館で特別展を『大正モダーンズ 大正イマジュリィと東京モダンデザイン』も7月1日まで開催していたが、そこで観たいと思っていた浅草ひょうたん池の夜の絵葉書があった。

 

  • 高見順さんの『如何なる星の下に』で、主人公と嶺美佐子という女性がひょうたん池の橋の上から池に映るネオンをみて「綺麗だ」という場面がある。展示物に東京の地図に当時の写真の絵葉書をそえて名所を紹介していたものがあった。名所用でもあるから、夜のひょうたん池はネオンの灯が映って美しかった。けばけばした歓楽街とすたれた歓楽街の両極端のイメージがついて回りちょっと気の毒な六区なので、「綺麗」の言葉にちょっと気恥ずかしがっている六区に思えた。

 

  • 東京モダーンズ』では、大正時代の印刷術の発達と出版文化の興隆時代であることに触れている。なるほどと納得する。雑誌の表紙や挿絵、そして、浅草でのカジノフォーリー、レビュウー、演劇、音楽などのポスター、パンフレット、プログラムなどにどんどんポップな絵やデザインが使われるのである。それが『浅草文芸、戻る場所』の六区のポスターなどにもあらわれている。

 

  • 女性や子供に人気があったのが竹久夢二さんである。その他、杉浦非水さんなどが図案集などをだし、そこから商店などが宣伝用に図柄を使っているのである。「新時代のジャポニズム」として小村雪岱さんや橋口五葉さん、鏑木清方さんなどの絵も新しい浮世絵として見直される。

 

  • 次に出てくるのが写真ということになる。浅草の芸人さんたちも写真で紹介され雑誌などにも写真で登場ということになる。劇場も実演が成功すると芸人さんは浅草六区から出て行き映画のほうが主となっていく。この辺の変遷は沢山あった劇場のそれぞれの変遷でもあり複雑で手に負えない分野である。浅草を舞台とした小説も書かれた年代によって浅草の顔が違う。

 

  • 高見順さんの『如何なる星の下に』は、1939年(昭和14年)に連載され、その時代の浅草なのであるが、主人公はその一年前に浅草の本願寺うらの田島町に部屋を借りるのである。しかし主人公は六区や浅草寺の境内や仲見世などにはいかないのである。その反対側にある「風流お好み焼 惚太郎」が軸になっていて、そこで出会う芸人さんなどとのことで回転していくのである。

 

  • 活躍している芸人さんたちではないのでその人達からきく六区の様子はかなり厳しい状態のようである。浅草国際劇場の松竹歌劇団華やかなりし頃で、そのお客は脇目もふらずに田原町の停車場か地下鉄駅と劇場を真っ直ぐに往復すると書かれてある。そういう時代である。

 

  • 「風流お好み焼き 惚太郎」は現在の「染太郎」さんで、「高見順の観た浅草」ということで、日本近代文学館では染太郎二代目ご主人の対談があったようである。『如何なる星の下に』で主人公は、浅草レビュー発祥の水族館も廃屋のままで、ただ食い物屋は凄いと言っている。確かに無くなってしまった飲食店もあるがいまだにしっかり残っているところもあり、主人公の考察は当っていることになる。また半村良さんの『小説 浅草物語』は時代も違い、浅草の別の顔がみえるが、長くなるのでこのへんで・・・。

 

  • 『浅草文芸、戻る場所』の主催は「浅草文芸ハンドブックの会」である。

 

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(4)

藤村さんの系図を簡単に紹介すれば、藤村さんは馬籠宿本陣の四男として生まれています。母(ぬい)は妻籠宿本陣の娘で馬籠本陣の長男(正樹)と結婚し、藤村さんの二番目の兄(広助)は三歳のとき、母の実家の妻籠本陣に養子にはいっています。もともと、妻籠本陣と馬籠本陣の当主は島崎家から出て続いていくのです。

藤村さんは、九歳の時、三番目の兄と一緒に勉学のため東京にでてきて泰明小学校に通います。本陣を継ぐものは一人でいいわけで、長男以外はそれぞれの生きる道を見つけなければなりません。

馬籠本陣の隣の大黒屋の娘・おゆうさん藤村さんの幼馴染で初恋の人といわれていますが、おゆうさんは、14歳の時、妻籠の脇本陣にお嫁入りしています。

妻籠宿の本陣は江戸時代の本陣を再現し、藤村さんのお母さんとお兄さん関係の島崎家の印象が強いです。脇本陣にはおゆうさんの使っていたものも展示され、それらの高価さから見ると藤村さんのその後の生活と比較し、おゆうさんも収まるところへ収まったのかなという感じを持ちます。

妻籠の脇本陣は屋号を「奥谷」といい、9月から3月まで夕方明かり窓を通して囲炉裏ばたに美しい縦じまの光の道を描きます。係りの方が、「残念です。陽が射していれば見れるのですがと」と教えてくれました。ここには歴史資料館もあって三館をゆっくりみさせてもらいました。

そのほか瑠璃山光徳寺には、幕末から明治にかけてここの住職さんが考案したという駕籠に車をつけた人力車が飾ってありました。面白い事を考える住職さんです。

馬籠宿は本陣跡は藤村記念館となり、第二文庫では、藤村さんの長男・楠雄さんの息子さん・緑二さんの作品展があり、穏やかで優しい水彩画が展示されていました。大黒屋さんも楠雄さんの四方木屋さんも残っています。馬籠脇本陣は史料館となっていてめずらしいのは、玄武石垣という亀の甲羅ににた六角形の石垣が積まれているものです。

永昌寺にある島崎家のお墓もいってみました。島崎藤村家は楠雄さん達もふくめ幾つかのお墓が一つの集まりとなって肩よせあい静かに眠られていました。

『夜明け前』では、藤村さんの祖父の時代からはじまり、藤村さんのお母さんが半蔵さんのところにお嫁に来て、お母さんの兄で妻籠本陣の当主・寿平次さんが訪ねてきたり、半蔵と寿平次とが一緒に三浦半島にいる先祖を訪ねて江戸にでてきたりします。その時半蔵は国学の平田門人としての許可をもらうのです。半蔵はそのことだけに集中し、寿平次との性格の比較としても際立つ旅です。

落合宿や中津川宿には、半蔵の学問の友や師がいて、師の宮川寛斎は、中津川の生糸商人に頼まれ開港した横浜へ生糸を売り込むためにつきそい、その後よそで隠遁生活に入りますが、半蔵は別れの機会があると思っていましたが寛斎は半蔵にあわずに去ってしまいます。

中津川宿は、信濃とは違う商人の宿でもあり、これからの『夜明け前』でもいろいろでてくるのかもしれません。

実際の今の中津川宿は、説明書きも新しく整備されていて、日本画家の前田青邨(まえだせいそん)さんの生まれ故郷でもありました。桂小五郎さんが隠れていた家などもあり、「中山道史資料館」には、桂小五郎、井上薫、岩倉具視、坂本龍馬など幕末から維新にかけて活躍した人たちの資料があるらしいです。行ったときは、<企画展 中津川の明治時代 ー情熱をそそいだ学校教育から地域の発展へー >をやっていました。ここは脇本陣のあったところで、建物の一部と土蔵一棟が公開されています。皇女和宮さまの降嫁の際に随行した江戸城大奥老女花園が尾張徳川家の御用商人である間家に宿泊し、さらに翌年に寄りその応対ぶりに感激し人形などを送りその品も飾られていました。

皇女和宮様の降嫁の行列はそれを受け入れる側も大変で、人はもちろんのこと立派なお嫁入り道具などもあるわけで死人もかなりでたようです。山道を考えるとそうでもあろうとおもえます。人足などはただ囲われた寝泊りの場所で、農民たちは農作の繁忙期に宿の手伝いにでなければならず、それに対する不満も次第に膨らんでいきます。

明治にはいると明治15年4月3日には自由党総裁・板垣退助が中津川で演説を行い、その3日後に岐阜で暴漢におそわれています。「板垣死すとも自由は死せず」

歴史資料館を見てますと、平田学などの国学の人々が自由民権運動にも参加して、さらに中津川の教育にたずさわっていったような感じもみうけられました。

中津川は江戸末期から地歌舞伎が盛んのようです。横浜港が開港したと聞くとすぐ生糸を売りにいき紡績がはじまり、水力発電がはじまるとその工事関係の人でにぎわったようでそういう人の集まりに合わせて芸能も楽しみの一つとして受け入れられたのでしょう。江戸の歌舞伎役者さんにもきてもらったようで、地歌舞伎が今も残っているというのは凄いことです。

旅としては中山道はしばらくないと思いますが、中津川の資料館では、この近辺の中山道の道をコピーして置いてくれてましたので、それを眺めつつ観光として出かけることもあるでしょう。

さらにここで『夜明け前』の文章と写真で構成した『夜明け前ものがたり』(白木益三著)を購入したので、それを開きつつ、『夜明け前』の続きにとりかかるとしましょう。

 

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(1)

『夜明け前』を読んでいると、やはり現地へいかなくてはと思い立ちました。JR南木曽駅で降りてバスで妻籠へ。南木曽から妻籠まで歩いて一時間ということなので歩くことも考えたのですが、東海道歩きでどうしても時間に追われるのを経験しているためそれをやめにし、今回は宿場をゆっくり見学することにしました。正解だったとおもいます。南木曽は<みなみきそ>ではなく<なぎそ>と読むのですが、<なぎそ>にすぐ反応できず、一呼吸おいて気がつきあわてて降りました。

南木曽はもう一つ発見があり、記憶に強い場所となりましたが、それはのちほど。

妻籠と馬籠間は歩きました。ここは歩いて置かなければ『夜明け前』の世界により密着できないですし、まだ四分の一しか読んでいないのですから、このあとのための楽しみとも関係してきます。『夜明け前』は面白いです。島崎藤村さんは、この作品があっての文豪とおもいます。

明治維新前の木曽路の山の中で限られた情報と規制の多い生活の中でこれから起こるであろう渦をまだ捉えられず、続いてきたしきたりを受け継いでいこうとする主人公・半蔵がゆっくりと自分の生き方をさぐりはじめています。

妻籠、馬籠、中津川は半蔵にとっての心の支えともなる地域であり人でもあります。

本陣の仕事、それを助ける宿のそれぞれの立場の人。宿には旦那衆という集まりもあって、そこでは、俳句であるとか、古美術に対する趣味であるとか、それを理解する仲間があったようです。本陣とか脇本陣となれば、お殿様が泊ったり休憩したりするので、床の間の掛け軸や置物などのためにも名のあるものを収集したりもしていたのでしょう。

ただ本陣は副業が許されず、脇本陣は許されていたようで酒造業を兼ねたりして、維新の時には脇本陣のほうが長く生き残れたところもあるようです。

先に馬籠で、藤村さんの家族のことで気にかかっていたことのあらましがわかったのでそのことから書き記します。

年譜に1923年(大正12年)8月藤村さんが52歳のとき、「長男楠雄を郷里で帰農させ、妻子の遺骨を埋葬するため帰郷した」とあり、楠雄さんが18歳のときです。一人で親戚にでもあずけたのであろうかと気になっていたのです。

馬籠宿に「清水屋資料館」があり、馬籠宿役人を努められた家で、建物は残っていて二階が資料館となっています。そこに立ち寄って二階を見せてもらったのですが、その時、「上には藤村さんの手紙などもあるのですが、お金の事が出て来て金貸しだったのですかとよくきかれます。そうではなく、藤村さんの息子さんの楠雄さんを預かっていたのです。」とご婦人が教えてくれました。「えっ、楠雄さんはここに預けられていたのですか。」私があまりびっくりして素っ頓狂な声をだしたからでしょうか、色々なお話しを聞かせてくださいました。楠雄さんは東京で明治学院に通っていたのに中退して馬籠にて帰農するのです。

そこまでにいたる、藤村さんと楠雄さんとの話し合いがどんなものであったのかはわかりません。清水屋さんの原家は、島崎家とは旦那衆としての付き合いもあり親しい関係で、すでに島崎家は馬篭をはなれだれも残っていませんでした。いわば他人に楠雄さんを一人農業にたずさわるため預けたわけで、相当信頼関係がなければできないと思います。

ご婦人は楠雄さんを預かった原一平さんの息子さんのお嫁さんで、一平さんは舅にあたるわけです。ご婦人からみても一平さんは穏やかで周りからも信頼されたかただったそうです。楠雄さんは、通りに面した部屋で寝泊りして農業に従事し、藤村さんがたずねてくると藤村さんはその部屋の二階の部屋に泊まられたそうです。

資料の手紙には、細かくお金のことがでてきます。楠雄さんはその後家を持ち、田畑ももちます。そのため藤村さんはお金をだされたようで、そのやりとりの様子が手紙からうかがうことができるのです。そこまで原さんにまかせるということは、藤村さんが原一平さんを信頼して楠雄さんを預けられたのだということですし、原さんもその信頼にこたえて楠雄さんを受け入れられたわけです。

1926年(大正15、昭和元年)には、楠雄さんの新築の家に藤村さんも訪れています。楠雄さんが馬籠の人となり、藤村さんが『夜明け前』を書くことによって、馬籠から去った本陣の島崎家はその過去の足跡を残すかたちとなったわけです。

原一平さんのことは、藤村さんの作品『嵐』に「森さん」としてでてくるようです。ご婦人のおかげで、楠雄さんが親戚のいない馬籠で帰農するという新しい出発が危惧していた暗さとは違っていたらしいことがわかりお話しを聞けてよかったです。ご婦人のお嫁にこられた時の様子も聴かせてもらえて楽しいひと時でした。

南木曽の発見ですが、馬籠から妻籠に入るところに、「関西電力妻籠発電所」のたてものがあり、関西電力といえば、電力王の福沢桃介さんですので、桃介さんとこの旅であうかも、貞奴さんも出て来たりしてと思っていたら出現しました。

木曽の豊富な水を見逃すような桃介さんではありません。しっかり水力発電をやっておりました。その仕事の関係で南木曽に別荘をたてており今そこが記念館として公開されています。もちろん貞奴さんも訪れています。そして木曽川に発電所建設資材運搬用の橋をかけ「桃介橋」となずけられ今は生活道路として使われている橋があるのです。

日本最大級の木製吊り橋で、南木曽駅から5分のところにあり、急いで少しだけ渡ってきました。残念ながら福沢桃介記念館による時間はありませんでした。橋の竣工式の写真には、貞奴さんも写っていました。

長谷川時雨さんの「近代美人伝」の「マダヌ貞奴」を読みました。時雨さんとしては、さらなる芸の修練をした役者貞奴さんを観たかったようです。それほで、役者貞奴は時雨さんの眼にかなった役者さんだったようです。時雨さんから観ると和物よりも洋物のほうが魅力的だったようですが、残念ながら写真と想像ではわかりません。おそらく和の型のないところから匂いたつ妖しさなのでしょう。

『夜明け前』は読み終わるのに時間がかかりそうです。

 

 

茅ヶ崎散策(2)

鎌倉で思い出しました。夏目漱石さんが円覚寺で参禅しましたが、そのときのことは『門』に書かれていて、『門』にでてくる釈宜道が釈宗活さんのことで、宗助は宜道さんあての紹介状をもって寺を訪れ、宜道さんによって老師とお会いします。らいてうさんはこの宗活さんのもとで「見性(けんしょう)」といわれる悟りの一つに到達しています。不思議なつながりです。森田草平さんとのことでは、らいてうさんは漱石さんを快くおもっていなかったようです。  東慶寺の水月観音菩薩

さて二回目の茅ヶ崎散策には、「開高健記念館」をいれ、そこから海岸にでて適当なところで高砂緑地に向かい、市立美術館へもより駅にむかうコースを考えました。

「開高健記念館」は開館日が週3日ほどでバスを使うことにしましたが、開高健記念館前には停まらないバスに乗車したので、一番近いバス停を降りる時に運転手さんが道を教えてくれ助かりました。

開高健さんならではの言葉の石碑やモニュメントがあります。「入ってきて人生と叫び出ていって死と叫ぶ」「明日世界が滅びるとしても今日あなたはリンゴの木を植える」

可笑しかったのは家のサンルームから外にでて玄関のほうへ降りてゆく階段があるのですが、その階段の石が、火口から飛んで来てそのままの石というようなごつごつした石で、足元が危なっかしくあえて危険につくってあるようで、これは下駄で呑気に降りれない石段だと思わず開高健さんの怪しげな笑い顔を思い浮かべました。「遠い道をゆっくりとけれどやすまずに歩いていく人がある」

書斎から見える庭には越前スイセンがあります。ベトナム戦争の取材を終えた冬、越前岬の深い雪のなかで、灯の様に咲く越前スイセンに強い感銘を受けたのがこの花との出会いのようです。

柳原良平さんのイラストと開高健さんのキャッチコピーのトリスウイスキーの広告も多数展示されていますが狭いのがちょっと残念でした。映像の笑っていながら眼が笑っていないところが、開高さんの見て来た深淵を覗きみるようでしたが、つりのときが一番幸せな表情です。

お隣が「茅ヶ崎ゆかりの人物館」になっていて、茅ケ崎ゆかりの土井隆雄さん、山本昌さん、加山雄三さん、桑田佳祐さんなどの関連するものが展示されていました。新しくて明るくて、休憩室に茅ヶ崎関連のコミュニティ雑誌もあり閲覧させてもらいました。

面白いのを見つけました。小津安二郎監督の甥御さんが撮影を見に行った時の文で、見ているとをお風呂を沸かしていて、気に入った湯気がでず何回も同じことをやっていてあきてしまったというのです。これには笑ってしまいました。小津監督が俳優さんだけではなく湯気とも格闘していたのです。

森田芳光監督も茅ヶ崎出身でした。函館を舞台にした映画を4本も撮られているので、海の近くに親近感があるのかもしれませんが、湘南の海とは違うなあとおもわれたかもしれません。でも湘南の森田監督の映画はまだみていません。あるのでしょうか。漱石さんの『それから』を期待せずにみたところ、松田優作さんが思いがけずはまっていて驚いたことがあります。

気持ちのよい時間のあと、係りのかたと少し話しをしましたら、小津監督の定宿がまだ営業しているということで、このまま海に出て海岸線を歩き、サザンビーチのモニュメントのあるあたりから駅に向かう途中であることを教えてもらいました。小津さんのことは調べていなかったので朗報でした。

海にでたところその砂山の感じに、映画『長屋紳士録』の飯田蝶子さんと少年がおにぎりを食べる場面を思い出し、きっとここの海岸線で撮ったのだろうと確信しました。この砂浜の山の感じなのです。ここと決めました。八木重吉さんの「あの浪の音はいいなあ 浜へ行きたいなあ」 の浜でもあります。  映画『長屋紳士録』と『日本の悲劇』

サザンビーチのCのモニュメントを背に国道にでて、途中昼食をとり、小津監督の定宿「茅ヶ崎館」に向かいます。この宿は、南湖院の国木田独歩さんを見舞った田山花袋さんなども滞在し、なんといっても小津監督の『東京物語』などの映画作品のうまれた場所です。宿は民家の住宅街にこじんまりとはまりこんで暖簾が静かにゆれていました。ここから浜へも散策にもいかれたのでしょう。

最後は再び、高砂緑地から市立美術館へ。今回は開館していることを調べてありました。

青山義雄展 「この男は色彩を持っている ーマティスが認めた日本人画家ー没後20年」

初めて目にする画家でした。残念ながらこの人だけの色というのがわかりませんでした。歩き疲れた者にとってはじーっと見つめるというよりも、ふわっとながめる感じの絵でした。

茅ヶ崎関係の本が展示されていて、長谷川時雨さんの『近代美人伝(上)』がありました。貞奴さんのところだけでも読んでくださいとありました。ほかの本もながめ読まずにきましたが、今思えば読んでくればよかったとおもっています。いずれ手にしましょう。いずれが多すぎますが。

森まゆみさんの『断髪のモダンガール』に<読書案内>があり、数えますと88あります。(上)(下)とか全集もありますから何冊になることでしょう。

菱沼海岸からサザンビーチを歩いたわけですが、東方面の鵠沼(くげぬま)海岸あたりも歩いてみたいと思っています。

茅ヶ崎は芸能の街で、壮士演歌手の添田唖然坊さんが住んで居たり、友田恭助さんと土方与志さんが子供芝居「南湖座」をはじめたりもしています。イサムノグチさんも小学校時代ここで過ごしていました。なかなか盛りだくさんの散策となりました。

 

でこぼこ東北の旅(1)

三月末に函館へ旅をした時の帰り、函館空港にいくバスの乗り場で「フェリー乗り場に行きますが」とバスの運転手さんに言われる。「空港にいきます。青森までのフェリー今もあるのですか。」「ありますよ。」

その言葉から、今度は友人達と函館へフェリーで集合と思い立ち、帰ってから連絡したところ即連絡した四人が参加である。

ところがきちんと調べていなかったので、検討したところフェリーは時間的に無理であった。急遽弘前集合となる。まだまだと思っているうちに旅の日となり、五人集まれるのは奇跡かもという予想をこえて無事実現したのである。

ただし、一緒の行動は、一泊二日、二泊三日、三泊四日とでこぼこになってしまったが、とにかく五人で乾杯できたことは旅の神様に感謝である。

弘前はお城などはいっても、お城の周辺を見ていない。寺町があったり、驚いたことには洋館も多い。距離的に見学しやすい<青森銀行><旧東奧義塾外人教師館><旧市立図書館><藤田記念庭園>を散策する。<旧東奥義塾外人教師館>の裏側には、弘前の洋館のミニチュアがならんでいてこれがまた建物の全体像がわかり親しみがわく。

この一画には、<市立観光館>があり中には「ねぷたまつり」の山車が展示されていて係りの人が説明してくれる。<弘前市立郷土文学館>には「石坂洋次郎記念館」があり、作品が多数映画化されており映画ポスターもならんでいる。

小説の『若い人』は、函館の「遺愛女学校」をモデルとしていて、映画では函館ではなく長崎をロケ地としているようである。函館の「遺愛学院本部」はピンクの可愛らしい建物で外からのぞかせてもらったが、劇団民藝の『真夜中の太陽』はこの学園を舞台としている。

石坂洋次郎さんの作品は読みやすいとされているが、『若い人』を読み始め途中でギブアップしてしまう。古い文庫本で字が小さく、描写がこまかく、男性教師・間崎からみた登場人物にたいしても一人一人を観察し感じた気持もかかれ、簡単におわるとおもっていたのがくつがえされてしまった。

『若い人』では、女学生が間崎も引率教員のひとりとなり東京に修学旅行にくるところがあり、宿に戻らない生徒がでて、原作と映画ではその生徒がちがっている。映画では、吉永小百合さん演じるところの江波恵子である。間崎が石原裕次郎さんで、宿から恵子を捜しに行く場面でニコライ堂が映る。御茶ノ水である。明治大学で『映画のなかの御茶ノ水』の著者・中村実男さんの無料の公開講座があり、その場面を写してくれた。そのあとDVDも見直したのであるが、江波恵子はむずかしい役である。そのことを吉永さんは『夢一夜』のなかでかかれている。ほかに吉永さんが御茶ノ水に映画の中で立たれているのは『伊豆の踊子』である。

劇団民芸には『満天の桜』の舞台があり、津軽藩二代藩主信枚に嫁いだ家康の養女・満天姫の話である。 三越劇場 『満天の桜』 こちらの探索は止ったままである。

弘前市内をみてまわるには半日では足りない。100円バスが15分おきにでているのでかなりかつてより便利になった。

次の日は金木である。私は再訪である。今回は津軽鉄道の金木駅から一つ先の芦野公園駅まで行き、そこから金木に歩いてもどる。芦野公園はひっそりとしていて桜の時期には美しいであろうと思われる桜並木がつづく。「津軽三味線発祥の地」の碑、二重マント姿の太宰治さんの像がある。芦野湖(藤枝溜池)にかかる桜松橋のつり橋は通行どめであった。

金木では定番の<津軽三味線会館>で生演奏を聴き、<斜陽館>見学である。今回はそこから駅に向かう途中にある<太宰治疎開の家>(旧津島家新座敷)での時間をとる。前回時間がなく説明を超スピードにしてもらったのである。

ここはもともとは、津島家の長男文治さんの新婚の離れ座敷としてつくられたもので、太宰さん夫婦が戦中焼け出され津島家に疎開したとき住んだのである。座敷といっても様式を含めて5部屋あり、津島家から見放された太宰さんが、疎開ということで津島家に守られた時期である。<津島家>に複雑な想いをもっていた太宰さんにとってそれはどんな想いを心にのこしたのか判断の難しいところであるが、妻にも胸をはれる優遇を受けたこととおもわれる。

この時期に太宰さんが心穏やかに多くの作品(23作品)を残したことなどを、館長さんが作品を紹介しつつわかりやすく説明してくれる。かつて太宰さんが、兄の文治さんのお嫁さんをのぞきにきた座敷でもあり、病床の母を見舞った離れ座敷でもある。今この座敷は津島家の<斜陽館>から分断され移動されて残されている。長男の文治さんの死後、津島家の斜陽がおとずれるのである。太宰さんは故郷で終戦をむかえ、ふたたび東京へもどることとなる。

弘前、五所川原、金木には豪商がいて、その住いは贅沢で大きい。太宰さんの父・源右衛門さんは津島家に養子に入っており、津島家をさらに大きくしたひとである。実家も裕福で、津島家の屋敷も自分の実家に模して造られたそうである。津島家は女系で持ちこたえる傾向がある。

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (4)

川本三郎さん「終戦前夜の永井荷風」

永井荷風は3回の空襲にあっている。人付き合いのしない荷風で老人(66歳)であり単身者である。空襲による孤独感と恐怖は大きかったであろう。(1回目)昭和20年3月10日の大空襲で麻布自宅偏奇館焼失。杵屋五叟宅へ。(2回目)5月25日、菅原明朗の紹介で住んで居た東中野の国際文化アパート空襲で焼失。菅原明朗と永井智子と明石へ向かい、岡山に移動。(3回目)6月28日岡山での大空襲にあう。この三つの空襲の体験は、その後の荷風の様子から考えて、トラウマとなり心的障害をきたしていたのではないか。荷風を支えていたのは、言葉である。

荷風を助けた人々。クラッシク音楽家の菅原明朗、声楽家の永井智子、菅原の弟子・宅孝二。明石に向かったのは宅の実家があったから。(訂正:菅原の実家である)永井智子は作家・永井路子の母である。菅原と永井は8月3日から3日間広島でコンサートがあり、5日の夜岡山に残した荷風が心配で泊まらずに岡山に向かう。泊っていたら被爆していたであろう。菅原はドイツ音楽ではなくフランス音楽を研究しフランス好きの荷風と好みが一致した。宅孝二はクラッシクからジャズに転向し、戦後、映画音楽を手掛けている。森繁久彌の社長シリーズなども。荷風の詞、菅原の作曲、智子の歌、宅のピアノでの演奏会もあった。

〔 資料もあり、広島原爆の後、荷風さんと谷崎さんとの岡山での再会のことなど『断腸亭日乗』から調べたことがあるので、長くなってしまう。市川市文学ミュージアムでの『永井荷風展』での講演でも、荷風の空襲によるトラウマとする考えは聴いているが、テーマは違っていたので少し触れただけだが、今回はきちんと日記をひいてなので説得力はある。フランス仕込のおしゃれな荷風さんには考えられない晩年の姿と行動の原因と考えておられるのである。価値観が変わったことは確かであるがそのトラウマの程度や影響は荷風さんの言葉、文章から読み解くことはできないのであろうか。それが知りたいところである。

永井智子さんという声楽家がいてその方が、永井路子さんのお母さんであるということを初めて知る。古河市に永井路子さんの実家があって、古河文学館の別館として公開されている。私が古河と『南総里見八犬伝』の関係から古河市を訪れたのは、東日本大震災の後だったので、非公開であったが、再公開されているようである。その旧永井家は智子さんの育った家でもあったわけである。古河城の櫓が歌舞伎『南総里見八犬伝』での<芳流閣屋上の場>の芳流閣のモデルとされているが、その痕跡はない。代わりに古河市の文学関係者のことを知る結果となったわけである。

その一人が子供雑誌『コドモノクニ』の編集者・鷲見久太郎さんである。映画『小さいおうち』の男の子の枕元にもこの『コドモノクニ』が置かれていて、奥さんの好きになる青年が男の子に読んであげる場面がある。『コドモノクニ』は大正から昭和初めにかけて出版された、贅沢で、子供たちの情操を深く考慮した本で、この男の子が大変幸せな環境にいることがわかるし、ここにこの本を出し子供文化の豊富な時代の先駆けであった時代の停止も感じとれる。

永井路子さんは、家の方針で、絵本を眺めることなく、すぐさま本を読むことを習慣づけられ目にしていないといわれ、郷里の大先輩の鷲見先生を後になって知ったことを残念に思われている。鷲見さんは、古河藩江戸詰家老で洋学者鷲見泉石の曾孫にあたり、鷹見泉石の住居も残っていて公開している。文学館に併設しているレストランはお薦めである。

音楽家の宅孝二さんが、映画音楽に携わり、市川崑監督の映画『日本橋』も担当をしており、永井荷風さんの交際する限りある周辺からは興味深いことが出現した。次の日、原爆が落とされることなど全く知らずに、音楽を聴き一時の倖せを享受していた人々もいたのである。移動演劇の桜隊の演劇人、丸山定夫さんや映画『無法松の一生』の吉岡夫人役の園井恵子さんなども被爆し亡くなられている。荷風さんが言葉を捨てなかったことによって、その日記をもとに様々な見分ができるわけである。〕

追記: 上記文章の中に<明石に向かったのは宅の実家があったから。>とありますが、宅氏の実家ではなく菅原氏の実家とのコメントをいただきました。調べますと確かにこちらの間違いでした。荷風は5月25日の夜、駒場の宅孝二氏宅に泊めて貰っています。6月2日、菅原氏夫妻とともに宅氏兄弟に渋谷駅で送られ、東京駅から罹災民専用大阪行の列車に乗り、3日に明石に到着。「菅原君に導かれ歩みて大蔵町八丁目なるその邸に至り母堂に謁す。」とあります。菅原氏の実家でした。訂正させていただきます。

新宿区落合三記念館散策

新宿中村屋のビル三階に<中村屋サロン美術館>がある。この案内チラシもどこかで手にしたのであるが何処であったのやら。そして、この<中村屋サロン美術館>で、<佐伯祐三アトリエ記念館>のチラシを手にした。そのチラシの裏に、落合記念館散策マップが載っており、<中村彝(つね)アトリエ記念館><佐伯祐三アトリエ記念館><林扶美子記念館>の三館をまわるマップである。

中村屋サロンというのは、明治から大正にかけて、中村屋が若き芸術家のサロンのような役割を果たしていたのである。中村屋の相馬愛蔵の郷里である穂高の後輩・荻原守衛(碌山)が、中村屋の近くにアトリエを作り、そこに彼を慕う若き芸術家が集まってきた。このサロンの中心は萩原守衛さんであるが、それは置いておく。その中に、画家の中村彝さんがいた。

佐伯祐三さんの足跡を訪ねてパリまでいった、佐伯祐三大好きの友人が、山梨県立美術館の『佐伯祐三展』に行けなかったので、この散策に誘うと是非という。

佐伯祐三さんは大阪生まれで、大阪の中之島に佐伯祐三の専属部分を持つ美術館を建設したいとして、その準備機関が資金調達の意味もあって『佐伯祐三展』を開催しているようである。大阪でも開催され、その時は友人も大阪まで出向いたらしい。大阪の中之島では、大阪市立東洋陶磁美術館は好きである。良いところなので、新しい美術館が出来、佐伯祐三の常設もできるなら喜ばしいことである。

山手線の目白駅から先ず中村彝さんのアトリエに行く。中村彝さんは、中村屋の長女俊子さんを好きになるが、反対され、失意のもと下落合にアトリエを建て、肺結核のため若くして亡くなってしまう。俊子さんは、中村屋がお世話していたインド独立革命家と結婚するが、彼女も20代で亡くなっている。このあたりの事情は中村屋サロン美術館で知っていたので、ここが、彝さんの孤独に苛まれたアトリエなのだと光の入り方などを確かめる。アトリエの庭に椿が咲いていて、係りの人に尋ねると、彝さんは椿が好きで大島にも行っているとのこと。調べたら彼の記念碑が大島にあった。大島ではそんな情報は何も掴まなかったので驚きである。

ここでだったと思うが、佐伯祐三さんが中村彝さんにも影響を受けていたとあり、繋がって友人には喜んでもらえた。

次に佐伯祐三さんのアトリエに向かう。友人は佐伯さんの絵は頭に入っているので、この周辺の風景画と現在の写真が載っている資料に感動していた。ボランティアの方の手によるものであろう。映像やパネルなどから、友人の解説を聞き、一通りの絵は見ていたので良く理解できた。佐伯さんも結核のためフランスで亡くなるが、神経も侵されてしまう。

友人が思うに、佐伯さんは結核を遺伝性の病気と思い、自分の命の短いことを感じていて生き急いだのではないかという。娘さんも幼くして結核で亡くなっている。感染してしまったのであろう。奥さんの米子さんは二人の遺骨を抱え、佐伯さんの絵とともに帰国するのである。その後画家として生きられる。友人と米子さんの絵を観て、なかなかよね!と感嘆する。友人は持っていない図録を購入。こちらもかなり、佐伯祐三さんに精通してきた。志し半ば亡くなられていて、これが佐伯祐三だというところに到達する前に思える。到達点などはないのであろうが。

昼食を済ませ林夫美子記念館へ。私は何回か来ている林夫美子記念館であるが、説明されるボランティアのかたが変わると、また新しい発見があって楽しい。入口に昭和初めの新宿駅前の地図があり、友人のお父さんは田舎から出てきたとき、新宿の駅前に住んだということで、父に帰りに地図を買って行こうかなと言っていたが、帰りに何も言わないので買わないのだなと声もかけなかった。帰り路途中で、急に、地図を買って来るから待たないで先に行ってていいわよという。

彼女は、どこかうわの空だったのかも知れない。きっと佐伯祐三さんの世界の中だったのであろうなと感じたので、待たないで帰ることを告げる。何かにこだわっている時は、一人もいいものなのである。

後日、他の行きたくて行けなかった友人に地図を渡したら、かなり早い段階で行ってきたという知らせを貰った。この散策は手頃でよい企画であった。

驚いたことに、劇団民芸が10月頃、中村彝さんを中心にした『大正の肖像画』(作・吉永仁郎)を上演するらしい。新作のようである。忘れないでいれば良いが。

もう一つ、気がついたことがある。萩原守衛さんが、<文覚>像を作っているのである。文覚とは、袈裟御前を夫と間違えて殺めてしまう遠藤盛遠である。<碌山美術館>では気が付かなかったが、<文覚>の作品を通しての萩原守衛さんの心のうちも透かし見ることができる。映画「地獄門」や「平家物語」に接していなければずーっと気がつかなかったであろう。

 

『大佛次郎記念館』は鞍馬天狗

『谷崎潤一郎展』の帰りに、大佛次郎記念館に寄る。時間が無かったが、『鞍馬天狗』関係の展示があるようなので、軽く見学する。『鞍馬天狗』のコレクターの故・磯貝宏國さんが、コレクションを寄贈され、その第一回目の展覧会というこである。嵐寛寿郎さん主演の映画ポスターや、映画館の週報、メンコなど、いかに大衆に愛されていたかがわかる。

落語家の林家木久扇さんの「私と鞍馬天狗」の寄稿文も展示されていた。「杉作!日本の夜明けは近い!」は、木久扇さんの造語とのこと。杉作とくれば、美空ひばりさんの杉作と歌を外すわけにはいかない。

木久扇さんの『木久扇のチャンバラスターうんちく塾』にはお世話になっているがその本でもトップバッターは嵐寛寿郎さんである。何作目の作品かは忘れたが、軸足一本でくるくるまわりながら斬っていくのに驚いたことがある。殺陣も様々に工夫されたようだ。大佛次郎さんは嵐寛寿郎さんの映画に不満があり、自分で制作されたが、やはりアラカンさんでなくてはと、鞍馬天狗ファンは納得しなかったようである。

『徳川太平記 吉宗と天一坊』(柴田錬三郎著)の解説を書かれた清原康正さんが、その解説の中で、2003年に県立神奈川文学館で「不滅の剣豪3人展 鞍馬天狗、眠狂四郎、宮本武蔵」が開催されたことを紹介されている。それぞれの原作者は大佛次郎さん、柴田錬三郎さん、吉川英治さんである。清原さんは、「眠狂四郎」について一文を寄稿され柴田錬三郎さんの死生観にも触れている。この三剣豪の中できちんと映画を観ていないのが『眠狂四郎』である。観ていないのにイメージが固定化されていて観たいとおもわないのでる。『徳川太平記 吉宗と天一坊』を読んで柴田錬三郎さんの面白さに触れれたので、時間を作って観たいとは思っている。

『徳川太平記 吉宗と天一坊』の中に、盗賊<雲切仁左衛門>が出てきて、こちらの方は、五社英雄監督の『雲霧仁左衛門』(池波正太郎原作)をレンタルしてすぐに観た。時代劇映画に関してはまたの機会とする。

『鞍馬天狗』も一冊くらいは、原作を読んでおいたほうが良いのかもしれない。

話しは飛ぶが、嵐寛寿郎さんと美空ひばりさんの関係書物で竹中労さんがお二人のことを聞き書きも含めそれぞれの本にされている。これはなかなか面白い。嵐寛寿郎さん(「鞍馬天狗のおじさん 聞書アラカン一代」)のほうが飾りなく豪胆に話され人柄がよく出ていて好著である。

その竹中労さんのお父さんが画家であることを知った。山梨県の甲府は太宰治さんが新婚時代を過ごした町でもある。その間、甲府にある湯村温泉郷の旅館明治で、太宰さんは滞在し作品を書いている。そのため、太宰さんの資料も展示されているということなので、山梨県立美術館へ『佐伯祐三展』を観に行ったおり、寄って、見させて頂いたのである。その帰り道に『竹中英太郎記念館』の看板があり、その日は休館日であった。聞いたことがない方なので気になって調べたら、竹中労さんの父で画家だったことが分った。意外な組み合わせである。機会があれば訪ねたいと思っている。

思っていることが沢山あって、思い風船がどんどん膨れて行く。割れないうちに飛ばして誰かに拾ってもらうのがよいのかもしれない。

横浜から甲府まで飛んだが、次は東京新宿区にでもしようか。