世田谷文学館 『幸田文展』

幸田文さんは幸田露伴さんの娘さんである。幸田露伴さんが亡くなられたとき、近くに住んでいた永井荷風さんは喪服が無いとして、家には入らず外から露伴さんを弔われている。(『永井荷風展』 (2))その家の中では、喪主の文さんとその娘さんである玉さんが並んで座られていたのである。その時、文さんは43歳である。その年令から父・露伴さんのことを書き始め好評を博し認められるが、自分の力ではない様に感じられ、筆を絶つ事を宣言され、台所仕事なら自信があるとして職を探し、47歳の時柳橋の芸者置屋に賄婦として住み込む。この仕事の経験から生まれたのが「流れる」であり映画にもなっている。映画会社から、「流れる」ではどうも縁起が悪いのでと改題を申し込まれたが、文さんは頑として断ったらしい。他の所でこのことを、室生犀星さんが書かれている。

絶筆宣言は、幸田露伴の娘からの文筆家としての決別ともとれるが、既に文さんの文さんとしての文章表現力は確立されていた。露伴さんとの共に生活した題材からの決別で、新たな主題を見つけていかれる。

それでいて、露伴さんから習った植物のこと、木のこと、日常生活のことなどに自分の目を加えられて作品化していく。

60歳を過ぎてから、奈良斑鳩の法輪寺の三重塔再建への協力され一時は奈良に住まわれる。しかし、この経過については法輪寺の住職のかたが本にまとめられたので、文さんはその経過については書かれていない。そこに位置する人を尊重されてのことであろう。

72歳の時、大谷崩れを取材し、各地の崩壊する自然を訪ね、これが最後のライフワークとなる。このことは死後(没86歳の1年後)「崩れ」として発表される。

文さん好みの着物も展示され、文さんが選んだという自分の花嫁衣裳は黒地に白、濃さの違う赤、ねずみ色の松が描かれ、裏地は赤鹿の子で袖のふりからその赤が極細く表に見せているのが花嫁さんの愛らしさが覗いていて素敵であった。文さんの好きな縞柄は本の装丁にも使われている。露伴さんもおしゃれであったようで、石摺り(しのぶ摺り)の羽織があった。裏は雲に龍を配置してあった。(しのぶ摺りについたは司馬遼太郎 『白河・会津のみち』)

幸田文さんの文学領域について見やすく分類されていて、文さんの娘さん・青木玉さんの遺品の管理の良さのお陰でもある。映画「おとうと」の映画ポスターや脚本は、市川市文学ミュージアムからの提供であった。市川市文学ミュージアムでは「水木洋子展」(2013年10/26~2014年3/2)を開催している。同じ時期にお二人の仕事の展示が開催されていてとても嬉しいのである。「幸田文展」は、2013年10/5~12/8までである。着物が好きでよく着る友人が、幼い頃から田舎で木や草花に親しんでおり、近々屋久島に行くというので、「幸田文展」を見てから行ったほうが良いと伝えたら早速行ったようで、感謝とメールがきた。木とどんな対話をしてくるのであろうか。それを聞くのが楽しみである。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です