劇団民芸 『八月の鯨』

『八月の鯨』は映画にもなった。たしか岩波ホールで見て、リリアン・ギッシュとベティ・デイヴィスが共演し、それも高齢になってからの共演で老年をあつかった映画として話題になった。よくわからなかった。リリアン・ギッシュは可愛いおばあさんでベティ・デイヴィスは皮肉屋のおばあさんといった印象で、若い頃の映画の役柄をも表しているのだろうかと思ったものである。鯨を待っていて、待っている鯨は現れない。「ゴドーを待ちながら」を重ねているのだろうかなどとも考えたりしたものである。

今回舞台の『八月の鯨』を観て、こんなに静かな心もちであろうか。もっと老いとはドロドロした内面なのではないだろうかと考えた。マグマは見せなかった。歳をとると諦める、諦念の心境に入ると思われがちだがそうとも言い切れない。

アメリカのメイン州沿岸の島の別荘で夏だけ過ごすことになっている二人の老いた姉妹の、ある夏の話のようである。ここに住み着いている二人と思っていたのでその点でも捉え方が違ってきた。姉のリビー(奈良岡朋子)は目が不自由らしく、さらに動きも思うようにはいかないため、妹のサラ(日色ともゑ)が面倒を見ている。サラは老いてはいるが、家事一般をするにはまだ大丈夫のようで、体を動かせる喜びを感じつつ楽しそうに家事に勤しんでいる。バザーに出す品物の制作もし人との付き合いも上手くいっている。リビーのほうは、老いる前からそうだったのかどうかは定かではないが、サラのやることに皮肉を言ったり人付き合いも上手いほうではないようだ。人に頼まなければ出来ないという立場は辛いことで、老いとともにそうなったのかもしれない。

周りには、毎日訪ねてきてくれる友人・ティシャ(船坂博子)や家の修繕などをしてくれるジョシュア(稲垣隆史)がいて、二人の話仲間となってくれている。そこへ、マラノフ(篠田三郎)というロシアから亡命してきた貴族が、釣った魚を持参してディナーとなる。マラノフは紳士的で話方も優雅でサラは次々質問するがリビーは早々と自分の部屋に入ってしまう。

サラは姉の仕打ちを謝るがマラノフは言う。<お姉さんは見抜かれている。> それはマラノフの本心を見抜いているということである。ある意味、リビーとマラノフは同じ立場なのである。誰かのお情けを必要とするのである。それを上手く取り入るか、それが嫌さに依怙地にならざるおえない老いの悲しさと闘いがある。お互いにそれを感じているのであるが、言葉で説明するのは難しいことである。時間とともにそれぞれの問題となってくるのであるから。リビーも自分のためにサラを縛っておくわけにはいかない。サラもこのままだと姉に対する愛情がなくなってしまうかもしれない。と二人が感じたかどうかは解らないが、そう受け止めた。

時間と状況が変ると二人の関係もまた変ってくるのかも知れない。ただかつて見た鯨の訪れた時は去ってしまったのである。だからといって時間は止まるわけではない。時間はもう前に進んでいるのである。どうやってその時間を埋めていくのか。それぞれの課題である。

奈良岡さんはもっとマグマを爆発させるのかなと思ったが、意思の強さをだしつつ、老いとの闘いを内に秘めつつ演じられていた。日色さんは、リビーの老いの状態までいっていない若さを明るく、今の老いを楽しんでいる様子を表現された。海を感じ、風を感じ、その自然の風景を観客に見せてくれた。過ごしやすい所なんだろうなあ。それだけに、リビーの老いの状態からくる心のやり場のなさが解るのである。

芝居が終わってから出演者との交流会があり、訳・演出の丹野郁弓さんが、「作者であるデイヴィッド・べリーが今回の舞台を観てくれて今までで最高のシチュエーションだと言ってくれた。」「バックから鐘の音が聞こえていたと思いますが、これは、パンフレットの表紙の写真にありますが、舞台となった海にあった浮標ベル(ブイベル)の鐘の音です。」と教えてくれた。その音を出すために波の音が小さめだったのかもしれない。教会が遠くにあるのかなあと思たりもしていた。客演の篠田さんの役は、詐欺師としたくなかったと丹野さんは言われた。映画のマラノフの人物像は忘れていたので、マラノフの台詞にはハッとさせられた。漂泊。パンフレットの写真を見つつ、浮標ベルは漂いながらも海の道標で、小さくても意味のあるもので、忘れられそうで忘れられない存在である。

奈良岡さんは、「是非生の舞台、ライブを見てください。音楽でも芝居でも民芸だけでなく他の芝居も。それから自分の好きなことを見つけて下さい。何でもいいんです。小さなことで。好きなことをやるのが元気の素です。」と話された。

(2013年12月4日~19日 三越劇場)

 

 

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