大阪と江戸

司馬遼太郎さんの文『政権を滅ぼす宿命の都』は、色々な面で疑問だったことにこたえてくれた。『政権を滅ぼす宿命の都』とは<大阪>を指している。摂津ノ国を大阪に入れるとして、京から摂津沿岸への福原遷都を試みたのは平清盛である。中国との貿易を考えてであったが、清盛の死によって都が京都に戻されてしまう。

その後、大阪湾を根拠地としたのは、蓮如である。蓮如は親鸞の血筋であり、「つまり本願寺は親鸞によって興ったのではなく親鸞の教団否定の遺訓を無視してこの宗祖の名をかつぎまわった蓮如によって興ったのである。」蓮如は妻帯僧で六、七十人の子がありそのうち二十七人は成人したと言われているらしいが、これくらいの体力がなければ、全国組織を完成させられないとしている。この蓮如が根拠地とした石山本願寺の石山城は、大阪城の基である。

この石山本願寺と対決したのが、信長である。十数年の武力闘争の結果、本願寺は紀州へ退く。信長は石山城を手に入れる。「蓮如が発見し信長が再発見した大阪は、なるほど甫庵(ほあん・医者として関白秀次につかえた伝記作者)がいうように宝石のような土地であるかもしれないが、ここに腰をすえようとした権力は不思議に薄命である。」大阪を手に入れた二年後に信長は本能寺で亡くなる。

その後が秀吉である。秀吉は長浜城や姫路城に帰らず大阪城を築城するのである。そうであったのか。どうして大阪城のなかに石山本願寺があったのかと疑問であった。石山本願寺の後が大阪城なのである。しかしこの大阪城も秀吉の代で終わってしまう。そのことから<政権を滅ぼす宿命いの都>とは大阪のことを指したのである。

江戸は、家康が秀吉から与えられたもとは北条氏の領土、二百五十万石である。当時の家康の領土は三河、遠江(とおとうみ)、駿河を合わせても百万石である。しかし、政治の中心から離れている未開の土地である。秀吉は家康に城は、江戸に築くようにと薦める。司馬さんによると、秀吉は関東で東京湾北岸に江戸という漁村を発見していて、こここそが、関八州の鎮府にふさわしいと考え、家康も江戸に入部し納得したが、水の獲得に苦労させられたとある。 「大阪をお輿し、さらに江戸を発見してこのふたつの都市を日本の東西文化の二大頂点にした最初の着想者は秀吉であった。経済にせよ、こういう点にせよ、近世日本の骨格をつくったのは秀吉であり、家康とその後の徳川政権はそのみがき手であったにすぎない。」「徳川政権は政治を江戸へもって行ったが、経済だけは大阪にのこした。」大阪と江戸の役目が別になったのである。

司馬さんは連れの方と大阪城から高津ノ宮を通り聖徳太子のたてた四天王寺まで歩いて、夕陽ケ丘に立って茅渟(ちぬ)ノ海に落ちる夕陽をながめている。しかし「芭蕉もここであそび、名句をつくった。が、いまは茶屋もない。媒霧で、夕陽もない。」と書かれている。 織田作さんに誘われて歩いたところが、大阪と江戸の話につながるとは、楽しい。

そして、『芸十夜』(坂東三津五郎・武智鉄二)の<十夜>にも四天王寺のことが出てくる。『摂州合邦辻』の俊徳丸の日想観にふれていて、<四天王寺は日想観のためにできたんですからね>と強調されているが、詳しく説明がないので、床本を読まなくてはならないが、どうも国立劇場の上演の時、俊徳丸の日想観の部分を削ったということではないかと思う。日想観とは、陽の沈む方向にある浄土を想う心といったことであろうか。これは、何かの折りに調べてみたい。日想観の有無は俊徳丸を理解するうえで重要なことのようである。

<合邦庵室の段>の最後、床本によると「仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦が辻と、古跡を留めけり」とある。

検索してみると「摂州合邦辻閻魔堂西方寺」とある。ここもピンを指しておこう。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です