伊能忠敬の歩いた道(4)

一之橋は、『鬼平犯科帳』では一ツ目之橋として登場するそうですが、まだ映像も本でも認識する物に触れていません。気にしていなかったので、どこで出会えるのか楽しみが増えました。

二之橋もありまして、鬼平ゆかりの軍鶏なべ屋「五鉄」はこの側という設定です。

この堅川には歌舞伎や落語にある塩原多助の炭屋があったのでその名にちなんだ塩原橋もあります。三津五郎さんの『塩原多助一代記』も好かったなあと思い出します。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3446-1024x576.jpg

赤穂事件に関しては、隅田観光協会でだしている下記の小冊子が大変参考になります。

中から少しお借りしますと下図では歌舞伎にもある『土屋主悦』の屋敷が吉良邸の隣に位置します。歌舞伎『松浦の太鼓』の松浦邸はどこだったのでしょうか。

引き上げルートも書かれています。かつて(2015年12月14日)夜に両国駅を出発し次の日早朝泉岳寺に着くという討ち入りルートを歩くイベントに参加しましたが、今はちょっと一気に歩けるかどうか自信ありません。休憩はファミレスでの軽食でした。

夜の江島杉山神社の前も歩いていました。思い出しました。境内に小さな岩屋があり入ったのです。周囲は暗くちょっとミステリアスで昼間来てみたいと思ったのですが忘れていました。昼と夜ではイメージが変わるものですね。

隅田川の近くに戻りますと三つ案内板がありました。

旧両国橋・広小路跡」。両国橋は明暦の大火の大災害から防災上の理由で幕府が架けた橋で、武蔵と下総の国を結ぶので両国橋と呼ばれ、この辺りに架かっていました。橋のたもとは火除け地として広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛け茶屋が並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねていました。

赤穂浪士休息の地」。赤穂浪士は討ち入り後、広小路で休息しました。一説には、応援に駆けつける上杉家の家臣を迎え撃つためとも言われています。休息後、大名の途上路である旧両国橋は渡らず、一之橋を渡り永代橋を経由して泉岳寺へと引き上げました。

石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)」。石尊とは神奈川県伊勢原市の大山のことで、大山詣り前に、水垢離場で体を清めました。旧両国橋の南際にあり、その賑わいは真夏の海水浴場のようだったとされています。

両国橋

夜の両国橋

下の写真は別の日の両国橋の写真です。奥に柳橋がみえます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0495-1024x576.jpg

下図も隅田観光協会で出されているものです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3461-2-729x1024.jpg

柳橋

ライトアップの夜の柳橋。河面が緑色になっています。

JR総武線の鉄道橋。

隅田川テラスの壁には様々な絵などが並んでいます。隅田川テラスギャラリーです。両国橋の初渡りの様子。国芳画。

百本杭。強い水勢を弱める護岸の役割として沢山の杭。特に両国橋より川上の左岸側に打たれた杭を「百本杭」と呼びました。芥川龍之介の作品『本所深川』、幸田露伴の随筆『水の東京』に百本杭の様子がでてくるようです。

道路下に何か案内があるので降りて観ましたら北斎さんの富岳三十六景の紹介でした。川浪の描き方がこれまた独特です。

蔵前橋を渡ります。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3464-2-1024x576.jpg

浅草御蔵跡。江戸幕府直轄地の全国から集められた年貢米や買い上げ米を収納していて、この米は、旗本、御家人の給米用に供され勘定奉行の支配下におかれていました。

楫取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)。江戸幕府が米倉造営用の石を船で運搬中に遭難しないようにと浅草御蔵内に稲荷社を創建したといいます。

ついに目的地、天文台跡です。「忠敬は全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。」

伊能忠敬さんは、ひたすら歩幅で距離を測って歩いたわけです。色々な人物や事件や物語があった道なのですが、忠敬さんにはそちらはあまり興味がなかったことでしょう。

伊能忠敬深川旧居跡から浅草天文台跡までのプチ旅はおしまいです。

追記: 山本周五郎さんの『柳橋物語』を読みました。赤穂浪士事件の時代で、地震、火災、水害が次々と襲い、そんな中で、主人公のおせんの過酷な人生。心も病み、これでもかという展開ですが、ラストは清々しい。柳橋は庶民の要望で架かった橋でした。市井の人々の生活が風景も含めてつぶさに描かれています。千住の野菜市場もでてきました。遅まきながら山本周五郎ワールドにはまりそうです。

追記2: 幸田露伴『水の東京』より 「百本杭は渡船場の下にて本所側の岸の川中に張り出てたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして百本杭の辺はまた特に深し。ここに鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。」

追記3: 芥川龍之介『本所両国』より 「僕は昔の両国橋に ー 狭い木造の両国橋にいまだに愛情を感じている。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかゝっていた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めたりした。」

追記4: 十八代目勘三郎さんの『勘九郎ぶらり旅』では、両国橋を渡っています。『三人吉三』で三人が出会うのが百本杭のある場所で、お嬢吉三は杭に片足かけてセリフをいうのを紹介しています。すべて舞台からのインスピレーションで場所を見つけ出していくのです。百本杭につかまって助かったのが『十六夜清心』の清心。柳橋では、『瞼の母』の番場の忠太郎の母・お熊の料理屋が柳橋。柳橋芸者といえば『お祭佐七』の主人公お糸という具合でセリフも出てくるのです。

日光街道千住宿から回向院へ・そして浄閑寺へ(5)

やはり浄閑寺まで到達しなければすっきりしません。というわけで南千住へ行ってきました。

かつては道があったのでしょうがいまは貨物車の線路が集中してまして、歩道橋下に延命寺・小塚原刑場跡がありました。

延命寺の地蔵菩薩は1741年(寛保元年)に造立され、明治29年に隅田川線が敷設するに伴って移設されたとあります。明治30年代から昭和30年代まで毎月5、14、27日は地蔵の縁日には大変なにぎわいだったそうですが、今ではちょっと想像できません。

お顔がよくわかりませんが優しい穏やかなお顔のお地蔵菩薩様です。

歩道橋のうえから、貨物線の沢山の線路が集まっているのがわかります。右の白い建物の黄色丸のところにJR隅田川駅とあります。貨物駅でも隅田川が駅名に残っているのはうれしいですね。かつては隅田川が引き込まれていて船でここまで運んで貨物列車でと荒荷を運んでいたようです。常磐炭鉱の石炭もここに集められていたのです。

南千住まちあるきマップによりますともっと南千住駅近くの南千住駅前歩道橋がビューポイントのようです。その歩道橋からですと隅田川駅での車両の入れ換え作業がみれるようです。

JR常磐線にそって西に向かいますと浄閑寺があります。1855年(安政2年)の大地震で犠牲となった多くの新吉原の遊女たちの遺体を葬ったとされるお寺です。のちに新吉原総霊塔が建立されました。

永井荷風さんが愛したお寺でもあり、娼妓のそばに自分の墓を望みましたが、お墓はなく谷崎潤一郎などによって文学碑とゆかりの品を納めた荷風碑がたてられました。そのほかおやっと思う方のお墓もあります。

本庄兄弟首洗井戸並首塚がありまして説明がありました。「父の本庄助太夫の仇である平井権八を討ち果たそうとした助七と助八の兄弟でしたが、兄・助七は吉原田圃で権八に返り討ちにあってしまう。弟の権八はこの井戸で兄の首を洗っているとことを無残にも権八に襲われて討ち果たされた。兄弟の霊を慰めんと墓(首塚)が建てられた。」

歌舞伎では白井権八となり、幡随長兵衛との出会う『鈴ケ森』は前髪の美しい若者と侠客の中のヒーローと決め場面は心躍らせます。歌舞伎は現実味を帳消しにして華にしてしまうところがあります。そこが面白さであち、芸の見せどころでもあります。

花又花酔の句壁。「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と「新吉原総霊塔」。

永井荷風文学碑荷風碑

浄閑寺を出ると音無川と日本堤の案内板と広重さんの『名所江戸百景』に描かれた新吉原へ通う客でにぎわう日本堤(吉原土手)がありました。

日本堤は三ノ輪から聖天町まで続く土手です(パステルグリーンの丸)。黄色丸の8が浄閑寺。6が新吉原。11が浅草寺。12が三社祭りの三社権現。14が天保の改革で芝居小屋が一ケ所にあつめられた猿若町。朱丸が待乳山聖天。不夜城の新吉原の周囲は田地です。

前進座の『杜若艶色紫』の最後の「日本堤の場」の舞台背景が気に入りましたが、この地図を見て絵画化してくれたようにぴたりとはまりました。

ただ安政の大地震の犠牲となった遊女の遺体は、音無川を船で運ばれたり、田地の間の道を運ばれて浄閑寺にたどり着いたのかなとも地図を見つつ想像してしまいました。遊女たちを偲んだ文豪永井荷風さんがそばにいますよ。

さてそのあとは、都電荒川線の始発・終点の三ノ輪橋駅から乗車。何年ぶりの都電でしょうか。チンチンの音もわすれていましたし、こんなに静かに移動していたんだと新鮮でした。さて適当なところで途中下車することにして日光街道千住宿の旅もここでお開きです。

日光街道千住宿

日光街道千住宿から回向院へ(1)

日光街道千住宿から回向院へ(2)

日光街道千住宿から回向院へ(3)

日光街道千住宿から回向院へ(4)

追記: 歌舞伎『鈴ケ森』は、鶴屋南北さんの作品『浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくのいなづま)』の一場面です。皆川博子さんの『鶴屋南北冥府巡』を読み終わりました。表と裏。南北さんと初代尾上松助さんをモデルとして、南北さんが松助さんのために『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』を書き上げるまでの話です。裏の世界を表現するのを得意とする南北さんが松助さんのために立作者となるまでを裏から描いていて、皆川博子さんの独特の視点でした。

追記2: 『鶴屋南北冥府巡』の付記に書かれていることをお借りして記入させてもらいます。

文化3年、桜田治助、没。文化5年、並木五瓶、没。伊之助は、立作者の地位を確立する。文化8年、伊之助は、四代目鶴屋南北を名乗る。文化12年、南北と組んで、文化年間、けれんの妖花を咲かせつづけた尾上松助、72歳にて、没。文政12年、鶴屋南北、没。75歳。翌年、年号は天保と変わる。「文化元年より、文政最後の年まで、江戸爛熟の25年間、南北の描く悪と闇と血と笑いは人々を鷲掴みにした。鼻高幸四郎、三代目菊五郎、目千両の半四郎など、すぐれた役者にも恵まれた。」1804年から1830年の間です。その次の時代、天保の改革によって歌舞伎の芝居小屋は浅草に集められるのです。南北さん関連本を数冊読む予定なので参考になります。ありがたし。

追記3: 永井荷風さんは、21歳のとき歌舞伎にかかわりたくて福地桜痴に弟子入りしています。下働きをし、柝を打つ練習もしています。しかし十カ月終わります。桜痴さんが歌舞伎座を去り日出國新聞社(やまと)の主筆となるので行動をともにします。近藤富枝さんは『荷風と左團次』中で、荷風さんは役者になりたかったと推察しています。その後、荷風さんと二代目左團次さんは出会います。二人の友情を<交情蜜のごとし>としてその様子を書かれています。歯切れのよい文章で読みやすく興味深いです。

追記4: 南北さんの時代は、芝居に対して細かい規制のお触れがあって、地名や料理屋などの名前も限定されていました。新吉原を背景にした狂言は、大音寺前、日本堤、隅田川、向島などの固有名詞は使用してもよいとされていました。高価な衣装はダメで、血のりもダメで赤く染めた血綿ならよいなど、子供だましでない大人の芝居としてどうリアルにみせるか工夫に工夫を重ねたことでしょう。

追記5: 鎌倉の建長寺の場所はもとは刑場で地獄谷よ呼ばれそのためご本尊は地蔵菩薩坐像であるということを『五木寛之の百寺巡礼』で知りました。

幕末の先人たち(4)

勝海舟、福沢諭吉が咸臨丸(かんりんまる)でアメリカへ行ったとき、ジョン・万次郎が同船していました。そうですか。万次郎さんにいきなさいということですか、と好奇心がつのります。

たしか、深川でジョン・万次郎の名前があったような。ありました。小名木川クローバー橋のそば、砂町銀座の近くでした。ここを歩いたときは全然頭にありませんでした。

そろそろ刀から離れましょうかと思っていましたら、ジョン万次郎宅跡(朱丸)の上に刀工左行秀碑(黄色丸)があります。ここは土佐藩の下屋敷があった場所で、刀工左行秀は筑前国(現福岡県)で生まれ江戸で修業し、土佐藩に見込まれ土佐藩城下へ。藩主・山内容堂に従い江戸の土佐藩下屋敷で仕事をすることになりました。実戦用の古刀を重んじた復古調の刀剣は幕末維新期の動乱期に人気があったようです。

では刀と関係のない、漁師で漂流のために人生が一変したジョン万次郎はどうして土佐藩下屋敷で暮らすことになったのでしょうか。

万次郎は土佐の足摺岬(あしずりみさき)の中の浜で生まれました。足摺岬に銅像がありました。その時は観光的感覚でみていて彼の人生を深く知ろうとは思いませんでした。その機会がおとずれてくれました。

万次郎が8歳の時にお父さんが亡くなり、10歳の時には漁船の手伝いをしてわずかな賃金をお母さんに渡し助けていました。14歳の時、中の浜から歩いて4日かかる宇佐ノ浦の船主からスズキ漁に一緒にでてくれないかと使いがきます。漁師仲間の間で万次郎は年が若いのに見込まれていたのでしょう。母の許可もおり宇佐ノ浦にむかいます。

船頭は筆之丞(38歳・後に呼びにくいため伝蔵にする)、伝蔵の弟・重助(28歳)、伝蔵の息子・五右衛門(16歳)、寅右衛門(27歳)、万次郎(14歳)の5人が船に乗り込みました。この船が嵐のために漂流して無人島(鳥島)にたどりつきます。重蔵はこの時足にひどい怪我をしてしまいます。

4か月後アメリカの捕鯨船に助けられます。1841年(天保12年)のことです。「異国船打払令」により、アメリカ船籍の商船モリソン号が日本人漂流民を連れてきて打ち払われる「モリソン号事件」が起こったのが1837年(天保8年)です。

この時、高野長英が「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」で、人民を助けてとどけてくれたのに打ち払うとはなんという国かと世界の人々から人民を大切にしない国としてさげすまられるであろう。」と夢物語として書いたのです。そのことが幕府を批判しているとして捕らえられた原因の一つでした。

福沢諭吉は、後に意見を言い合うことが大切であると新聞を発行したりして討論の重要せいをうったえます。

万次郎たちを助けた捕鯨船の船長ウィリアム・ホイットフィールドはそういう日本の現状を知っていて、このまま航海を続けハワイのホノルルに上陸させて日本へ帰る時期を検討しようと考えました。

この捕鯨船と船長に出会ったことは万次郎たちにとって幸運でした。特に若い漁師見習いの万次郎は、捕鯨船の大きさ、その漁の方法に目を輝かせました。若さもあり新しいことを学ぶ元気がありました。漁師どおし友好的な交流が生まれ、万次郎は、ジョン・万とよばれ言葉も覚えていきます。

ホノルルに着いた万次郎たちは不便の無い生活が保障されましたが、日本の漂流民の無事帰国したという情報はありませんでした。万次郎だけホイットフィールド船長に誘われ、再び捕鯨船に乗ります。

その時、世界地図を見せられ、実際に航海を通じて世界の広さを実感します。長い航海で万次郎派はクジラ捕りの技術を身に着け、アルファベットの文字もつづれるようになります。寺子屋に行ったことがない万次郎はイロハよりもABC26文字のほうが覚えやすく学ぶということが楽しかったのでしょう。

航海のあと船はアメリカに到着し、船長の故郷のマサチューセッツ州フェアヘブンで桶屋にお世話になり、桶の作り方を学びつつ学校に通います。船長には子供が二人あり奥さんは亡くなっていましたが、再婚してスコンティカット・ネックで農園を開いたので、万次郎も農園に合流します。ホイットフィールド船長が捕鯨船に乗っても家族の生活の保障としての農園でした。

この時期、農園の仕事の合間に数学者から数学、測量を習います。万次郎は周囲の人に恵まれました。差別で教会に受け入れてもらえないと、受け入れる教会を探してもくれました。

19歳の時、捕鯨船で一緒だった船員が船長となりそのデービス船長の捕鯨船に乗ります。この航海は多種多様の人種がいるということをしりました。というものの航海中も日本の好いうわさは聞きません。日本にそって北上し日本の漁船と話しますが話が上手く通じませんでした。日本人は外国船にはかかわりたくないのです。

ホノルルに着きました。7年ぶりで寅右衛門と会います。重助は亡くなっていました。伝蔵と五右衛門は日本に送ってもらいましたがやはり無理でもどってきました。

アメリカはゴールド・ラッシュでわいていました。万次郎は22歳。皆で日本へ帰る旅費を作るためサンフランシスコに向かいます。そして蒸気船にも乗りさらに山奥に入り砂金集めをしてお金を得てホノルルへもどりました。こういう独立独歩で突き進むところもありました。

1850年12月17日、寅右衛門はホノルルの生活に慣れ残ることにし、万次郎、伝蔵、五右衛門はホノルル港を立ちました。次の年の1月末には琉球の近くまでやってきました。

琉球政府のある那覇で鹿児島藩の役人の調べを受け鹿児島に送られました。鹿児島藩は幕府の鎖国政策に反対でしたので、万次郎はじきじきに藩主・島津斉彬にお目通りとなりました。斉彬は万次郎を手元に置きたかったのですが、幕府に報告し万次郎たちは長崎奉行所に送られました。そして初めて牢屋となりました。今までが運がよかったと言えるのかもしれません。やっと日本に着いた漂流民はひどい取り調べで自殺する者もいたのです。

今度は幕府から土佐藩で身元調べをするようにとお達しがあり、やっと故郷に近づきました。琉球に着いてから一年半がたっていました。

土佐は進歩的な考えの藩で、藩主・山内容堂で大目付には吉田東洋がいました。吉田東洋は万次郎の話を熱心に聞いてくれました。そこには少年の後藤象二郎がいました。23歳という若い藩主・容堂も耳を傾けました。ついに万次郎は恋しい母にやっと会うことができました。11年がたっていました。

中ノ浜にいたのは数日でした。藩から教授館の教師を命じられたのです。侍となり名前も中浜万次郎となりました。世界を見てきた万次郎は身分制度はわずらわしいものでした。万次郎は賢い人でしたので人と争うことはしませんでした。アメリカでも日本人として差別されました。しかしそれをおかしいと思ってくれる人もいたのです。かえってねたむ人の多いことも知っていたのでしょう。

教授館には後藤象二郎、岩崎弥太郎も通いました。坂本龍馬は郷士(山内一豊前の領主の長曾我部家関係の侍)の身分なので藩の学校には入れませんでした。しかし、友人を通して知識は得ていました。

浦賀にアメリカのペリーがあらわれ、万次郎は幕府に江戸によばれます。老中筆頭は阿部正弘でした。

万次郎は幕府の高官・江川太郎左衛門のもとで働き伊豆韮山(にらやま)で西洋式の帆船や蒸気船づくりに励みました。幕府直参の侍となっています。幕府のために色々な仕事をしますが、幕府も本当に万次郎のことを信用しているわけではなく表舞台に名前が出ることはありませんでした。ある面ではそれが幸いしたかもしれません。表に出ていれば尊皇攘夷派にねらわれたかもしれません。

その後、築地の海軍学校・軍艦教授所の教官となり、新島襄もここで学んでいます。新島は後に函館港からこっそり渡米します。吉田松陰の失敗を考えて函館港を選びました。10年後帰国し、同志社英学校を創立します。

さらに函館奉行の手伝いも命ぜられ、捕鯨事業を計画しますが失敗し、違う足跡を残します。ジャガイモです。やっとジャガイモも収穫にふさわしい土地と巡り合ったようです。

大老・井伊直弼によって「日米修好通商条約」が結ばれます。これは朝廷の許可をもらわなかったので尊皇攘夷派が激怒するのです。さてその批准書の交換ということが必要です。そのための使節団が送り出されたのです。アメリカの軍艦の他に日本の軍艦・咸臨丸が初めて太平洋を横断したのです。咸臨丸に勝海舟と福沢諭吉と中浜万次郎が同船したのです。1860年、33歳のときです。

ところが、勝海舟も福沢諭吉も万次郎のことは記していないのです。咸臨丸には日本近海で難破して保護された艦長・ブルック中尉と水夫たちもアメリカに帰されるために同船していました。そのブルック中尉の日誌にはジョン・万次郎の活躍が記されていました。

どうも身分制度の弊害があったようで、海の上でまでそのつまらぬプライドが見え隠れしていたようです。海は荒れ狂っているのに。ブルック中尉は万次郎を助けることにし、乗組員の采配をし万次郎がそれを伝える役目をしました。そして秩序と規律を調えていったのです。

艦長の勝海舟は船酔いでほとんど船室に引きこもっていました。万次郎はもめごとのないように相当の神経を使っていたとおもいます。海の上での役割分担をはっきりさせるブルック中尉がいてくれたことは幸運でした。しかし、万次郎がこのことを口にすることはありませんでした。ブルック船長の日誌が公開されたのが1961年です。

この時、ウェブスターの辞書を福沢諭吉と万次郎が一冊ずつ購入して帰ります。英語辞書が日本に移入された最初です。

幕府が倒れ万次郎は土佐藩士に召し抱えられます。そして本所砂村にある土佐藩下屋敷を与えられるのです。41歳の時で11年間ほどここに住んだようです。やっと地図の屋敷跡に到達できました。まだ藩は残っていました。その後、廃藩置県を実行したのは西郷隆盛です。福沢諭吉は身分制度や門閥制に反対でしたので藩のなくなることを喜び、西郷隆盛を高く評価しています。

万次郎は新政府の命令で、開成学校(後の東京帝国大学)の教授となります。フランスとロシアの戦争の視察を命じられヨーロッパにも行きますが病気のためロンドンに滞在し、帰りにアメリカに立ち寄りホイットフィールド船長とも会っています。1870年、43歳。

そして万次郎はその後静かな余生を送り1898年、71歳で亡くなります。彼の功績は日本の外からの光で照らされて初めて知らされるのでした。

幕府や新政府は万次郎の語学力や知識を認めていましたが、そのことで外国に日本の内情が漏れるのを警戒していていたのでしょうか。そんな微妙な自分の立場と漁師だったという身分を万次郎はいやというほど感じていたと思います。そのあたりを「板子一枚下は地獄」の漁師魂の胆力があって上手く抑えられたのかもしれません。

身分に頼っている人よりも彼の生き延びてきた道は、自分の力と周囲の人々の力添えだったことをよくわかっていたのでしょう。そういう点でも賢い人でした。彼の夢は捕鯨船で遠洋に乗り出しクジラを追いかけることでしたがかないませんでした。

ながくなってしまいましたが、主に『秘められた歴史の人 ジョン・万次郎』(福林正之・著)を参考にさせてもらいました。さらに1938年に直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』(井伏鱒二・著)を読むことができました。

その他『福沢諭吉 子どものための偉人伝』(北康利・著)、『べらんめえ大将 勝海舟』(桜井正信・著)、『アーネスト・サトウ 女王陛下の外交官』(古川薫・著)

追記: 人間は核兵器を持つべきではない。人間は間違いを犯す存在でもあるから。やはりそう思います。

追記2: ロシアの侵攻で戦争は原発があるだけで危ういということに現実感を持ちました。

幕末の先人たち(3)

佐久間象山を暗殺した刺客の一人に河上彦斎(かわかみげんさい)がいます。「人斬り彦斎」の異名があり、漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚』の緋村剣心のモチーフといわれています。映画『るろうに剣心』を観ていますが、河上彦斎とつながると知ってもフィクションとしての想いが強いです。

るろうに剣心』(第1作)、『るろうに剣心 京都大火編』(第2作)、『るろうに剣心 伝説の最期編』(第3作)と観ていますが今回は『るろうに剣心 最終章 The Final 』第4作)、『るろうに剣心 最終章 The Beginning』(第5作)を鑑賞することにしました。第5作の『るろうに剣心 最終章 The Beginning』を先に観てそれから第4作の『るろうに剣心 最終章 The Final 』をという逆の見方をしました。

るろうに剣心 最終章 The Beginning』は剣心の頬の十字の傷のいわれと鳥羽伏見の戦いで新しい時代が来たと剣心が刀を捨てるまでが描かれています。そして『るろうに剣心 最終章 The Final 』では、剣心が暗殺した相手の婚約者までも斬ってしまいその弟が姉の復讐のため剣心の前に現れるということで第5作目を先に観ていたので謎もなくすーっと入っていけました。

剣心は高杉晋作の奇兵隊に参加し腕をかわれて桂小五郎のために「人斬り抜刀斎」として役目を全うし、新しい時代と共に刀を逆刃刀として人斬りをやめたわけです。ところが10年後新時代となっても「人斬り抜刀斎」の名は消えることがなく何かと争いに巻き込まれて闘うことになるのです。

そこからまた第1作から第3作までを見直しました。時間がたつと忘れているものです。一応流れがはっきりしました。

『銀のさじ ーシーボルトのむすめの物語』(武田道子・著)の中で村田蔵六(後の大村益次郎)という人物が出てきてシーボルトの娘・楠本いねと交流しています。大村益次郎は大河ドラマ『花神』の主人公ということで、総集編をDVDで観ました。

村田蔵六は山口県山口市鋳銭司(すぜんじ)に村医者の息子として生まれます。大阪の緒方洪庵の「適塾」で学び塾頭となります。長崎にもいっています。

「適塾」の様子が大河ドラマ『花神』では一応着物に袴姿で、テレビドラマ『幕末青春グラフィティ 福沢諭吉』では塾生は上は襦袢の短い下着のような物を着て下はふんどしといういでたちで若さを誇張しているのかなと思いましたら後者の方が本当のようです。さらに食事も立って汁をかけて食していましたが、これは福沢諭吉が「慶應義塾」でも実践していたようです。

「慶應義塾」というとオシャレなように感じますが、福沢諭吉さんはめったに洋服を着ず着流しの着物ですごしたようです。朝早く散歩に出るときは着物を尻はしおりにしていて下駄。庶民そのものだったそうで、塾生が自然に集まってきて、そんな塾生にはせんべいを配り、塾生はせんべいをかじりつつ話をしました。「おなかがすいたまま運動するのはからだによくない。」ということらしですが、もう一つ時間を惜しめということもあるんじゃないでしょうかね。

花神』の話にもどりますと、大村益次郎は父に戻れと言われ優秀なので惜しまれつつ鋳銭司に帰ります。ところが世の中は外国船によって混乱をきたしはじめ、蘭学者知識が各藩で必要だという考えがでてきます。

蔵六は宇和島藩に蘭学者として仕えることになります。蔵六は兵学にも新しい知識をもっていました。ここでシーボルトの弟子・二宮敬作と親交を深めます。二宮敬作は楠本いねの産科医としての勉学の後押しをしており蔵六はいねを紹介され蘭学の医学の講義などもします。

洋式軍艦の試作などもし、軍艦が動いたと藩主たちを喜ばせます。その後江戸で塾も開きますが、今度は長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)に請われて長州藩につかえます。これからが長州藩の倒幕までの激動の時代をともにするわけです。

長州藩の中も佐幕派と討幕派が綱引き状態で行ったり来たりと目まぐるしいです。血もたくさん流されます。ドラマを観ているうちはなるほどと思うのですが観終わってしばらくすると時間の流れの前後があやふやになってしまっています。劇団で鍛えた役者さんも多数出演していてその役どころにも目がいきます。

村田蔵六は大村益次郎と名前を変え、錦の旗を手にした長州藩から今度は明治新政府の軍事改革者となっていきます。実際の戦いの実践はないのですが頭の中には戦さの勝利への青写真はできています。多くの戦さの勝敗の資料が頭の中にあってそれをフル回転して新たな様式の戦術を加え考え出していくのです。

さらに軍隊の中心は日本の中心の大阪におくべきだと主張しそれを実行に移すべきと自分も西にむかいます。京都方面はまだ危ないから行かない方がよいにと注意されますが、いややはり自分の目で確かめなくてはと京都に宿をとります。この西の固めはその後の西郷隆盛が挙兵した西南戦争を押さえることになります。

京都の京都三条木屋町の宿で刺客に襲われ重傷です。命はとりとめましたが傷口からバイ菌が入り左足を切断する手術を受けます。その助手をしたのが楠本いねさんでした。いねは大村益次郎が亡くなるまで看護しました。

そういう人であったかと大村益次郎さんの一生をみたわけです。

河上彦斎はこの大村益次郎暗殺者の一人をかくまったとされ、そのほかの新政府への暗殺の嫌疑をかけられ斬首されてしまいます。河上彦斎は名の知れた人の暗殺は佐久間象山だけで、それを自慢にしていたとか、後悔してその後は人斬りをしなかったとかいろいろ憶測があります。『るろうに剣心』の緋村剣心のような明るい時代は訪れなかったようです。

佐久間象山の子が河上彦斎を敵として仇討ちのため新選組に入ったのは事実のようです。勝海舟が新選組によろしくということでしょうか、お金を送ったようです。

様々なことが交差していました。

ここまででお世話になった本  「銭屋五兵衛著」(小暮正夫・著)、「渡辺崋山」(土方定一・著)、「福沢諭吉 「自由」を創る」(石橋洋司・著)、「佐久間象山 誇り高きサムライ・テクノクラート」(古川薫・著)、「大塩平八郎 構造改革に玉破した男」(長尾剛・著)

追記: 西郷輝彦さんの舞台は新派120周年記念『鹿鳴館』、藤山直美さんとの『冬のひまわり』、三越劇場での『初蕾』などで鑑賞させてもらいました。角の無い、芝居の中に自然に溶け込まれて調和され光を当てるという役者さんでした。(合掌)

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: image.html

新しいことに挑戦・平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵(4)

シーボルトは、滞在期間の5年がきて帰国をすることになりました。そして荷物を船に積み込みました。ところが大きな台風がきたため、船は港の外に押し出され、再び湾内に押し戻され浜に乗り上げてしまいます。船を海に浮かべる復旧工事のため船内の荷物は陸地に移動。

空き地に保管された荷物を長崎奉行所が調べはじめたのです。今までなかったことでした。荷の中から持ち出し禁止の品々がでてきたのです。もちろん日本地図は禁止です。景保は捕えられてしまいます。

その以前に林蔵のところに景保からシーボルトからの林蔵へ渡してほしいという荷物が届きました。その時林蔵は勝手に開けないで奉行所へ届けてそこで開けました。怪しい物はなく手紙には林蔵の偉業をたたえることが書かれていました。

当時異国人との手紙のやり取りもおおやけには禁止されていました。奉行所は景保とシーボルトの親しい関係に疑いをもったのです。そして船の荷物から出てきた地図です。他にも捕えられた人々が多くいました。これが「シーボルト事件」です。

景保は牢死してしまいます。その遺体は塩漬けにされ判決が出て死罪と決まり遺体の首をはねられました。

このむごたらしい処置などもあり人々の同情が景保に集まり、林蔵は密告者とされ裏切者よばわりされてしまいます。林蔵は蝦夷探検でロシア人との戦さも体験していて外国人が嫌いでした。信用していなかったのです。

世間というものに林蔵は鬱屈した気持ちにさせられたからでしょうか。その後、隠密の仕事につき幕府にたてつく者、法にふれる者を探し出しました。隠密を辞めた後は深川でひっそりと暮らしたようです。

ヨーロッパでは産業革命により商品を売る先をアジアに求めていたのです。通商で門戸を開き新しい知識を得る時期に来ていたのです。

シーボルトは故国に戻ってから『日本』という本をあらわし、その中に間宮林蔵の樺太探検のことも書き間宮海峡の発見者として紹介しました。間宮林蔵の名は世界中に知れ渡ったのです。なんとも皮肉なことでした。シーボルトは万有学者としての立場に立ってのことだったのでしょう。業績は業績として認めたのです。

新しい知識を得た若者たちがその後も幕府の弾圧に会います。明治までの道のりには血なまぐさいこともたくさんありました。

シーボルトは日本の動物誌や植物誌も発表しています。日本を追放されたシーボルトは30年後追放令を解かれ再び日本にきます。そして、日本で最初の女性産科医となる娘のいねと再会するのでした。その頃日本は尊皇と佐幕で混乱していました。

1853年アメリカのペリーによって開国となりますが、ペリーはシーボルトの著書を読み日本についての知識をおさえていたといわれます。

楠本いねに関しては四国の宇和島で出会っていました。さらなる出会いの機会が訪れ嬉しいです。宇和町・大洲町散策  四国旅(5) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

ここまでくると、観た舞台や映画などが思い浮かび再度見かえしたものもあります。

大黒屋光太夫では、映画『おろしや国酔夢譚』があります。歌舞伎『月光露針路日本 風雲児たち』があり、シネマ歌舞伎にもなりました。シネマ歌舞伎では8月にまた劇場で上映されるようです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 91VurRvInmL._AC_SL1500_.jpg

三谷かぶき 月光露針路日本 風雲児たち

映画『天地明察』。主人公・安井算哲が、後に渋川春海となり初代・天文方となったとラストに字幕があり、今回は天文方に即反応しました。役職として前回より身近になりました。

天地明察 [DVD]

明治時代はとにかく西洋を手本に新しさが正しいこととして進みます。暦も太陽暦に変わります。明治5年12月3日が新暦で明治6年1月1日になるのです。師走が2日しかありません。そんなときの庶民の動向を描いた舞台が前進座創立80周年記念公演『明治おばけ暦』です。今までのものは旧弊とされ、新しさをきちんと説明もなくどんどんどんどん進んでいくのです。

時代の流れは、新しいものを求めればダメだといい、今度は古いものに安住しているとダメだという。とかくこの世は生きにくい。そこをしたたかに生きましょうか。もう一度観劇したい作品です。

明治おばけ暦

児童書の旅は知らないことがザクザクでてきました。何かあったらまた児童書にお助けを要請することにします。

楠本いねさん、上手く髪を結えないため、父のシーボルトが残してくれた薬を測るさじを巻き上げた髪の髪留めにします。これは事実かどうかはわかりません。創作かも。アニメの『本好きの下剋上』のマインを思い出しました。この髪留めが評判になりマインは髪飾りを作り、新しいつながりを持つことになるのです。どこに出会いが待っているのかわかりません。

『天と地を測った男 伊能忠敬』(岡崎ひでたか・著) 『星の旅人 伊能忠敬と伝説の怪魚』(小前亮・著) 『間宮林蔵』(筑波常治・著) 『シーボルト』(浜田泰三・著) 『銀のさじ ーシーボルトのむすめの物語』(武田道子・著) 

追記: 一月に国立劇場で公演された歌舞伎『南総里見八犬伝』が、明日2月6日(日)23:20~1:54、NHKBS プレミアム「プレミアムステージ」で放送予定です。『八犬伝』を始めて舞台で観たのは1994年新橋演舞場での『スーパー歌舞伎 八犬伝』でした。2015年(平成27年)にはやはり国立劇場で菊五郎劇団の『南総里見八犬伝』を観ていて上演台本も購入しましたので、今回はどう変えられたのかも注目したいと思います。曲亭馬琴さん、地図の中でおとなしくはしていませんでした。

追記2: 今回の『南総里見八犬伝』は伏姫の場面をなくし、そのほかも短縮して八犬士の出会いをはっきりさせ、躍動的な部分を強く印象づけていました。左近さんが下半身が安定していてシャープな動きが美しかったです。12月歌舞伎座『信濃路紅葉鬼揃』で先輩たちに混じって頑張っていましたからね。

新しいことに挑戦・平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵(3)

間宮林蔵は、茨城県筑波の貧しい農家の子として誕生しました。読み、書き、計算は得意で、道の幅や川の深さなどを竹ざおで測ったりして調べるのが好きでした。彼もまた出世を夢見る子供でした。

ラクスマンが漂流民・大黒屋光太夫たちを連れて根室に来航したのは、1792年10月です。漂流民を帰す事と通商を求めることが目的でした。松前藩は通商ついては長崎に行ってくれといいます。ラクスマンは黒太夫たちを降ろしロシアへ帰っていきます。

日本にもどった漂流民は光太夫の後にもいましたが有名にならなかったのは体験を表現する力が弱かったからとされています。

こうした状況もありよくわかっていない蝦夷地を幕府も知りたいと思っていました。そのため忠敬の蝦夷地測量の願いも許されたわけです。

そのころ世界の探検家が行っていないのは北極と南極と樺太(からふと)を中心とした一帯でした。

林蔵は測量術にたけた幕府の役人・村上島之丞の従者になります。林蔵は島之丞に従って蝦夷に行き函館で忠敬に会うのです。忠敬は身分は農民で役所はそれに浪人と加えました。農民では許すわけにいかないからです。林蔵は蝦夷地御用雇(えぞちごようやとい)という低い地位でした。二人は意気投合し、林蔵は忠敬を師とし、忠敬は林蔵を「親せきのごとき者」とし測量をおしえました。

そして林蔵は樺太が島であるか陸続きの半島であるかを自分で確かめたいと思うようになります。

択捉(えとろふ)と国後(くなしり)は忠敬の測量でわかりましたが樺太がわかっていないのです。一回目の探検は、先輩の松田伝十郎と二人でした。一応島としましたが実際に船で通ってはいないのです。林蔵は一人で二回目の樺太探検に出かけます。そして間宮海峡発見者となるのです。さらにシベリアまで渡り江戸へもどり『東韃地方紀行(とうたつちほうきこう)』を表します。

伊能忠敬も同じですが、林蔵の探検は簡単には言い表せられない苦労にみちていました。それだけに有名になった林蔵は体験談をことあるごとに話、絶頂期でした。しかしねたみもありました。そんな中、忠敬はもっと難しい測量術をおしえます。林蔵は忠敬が途中までしかできなかった蝦夷の測量をし終え無事忠敬に届けます。

しかし、「大日本沿海與地全図」の完成を待たずに忠敬は亡くなり、完成させたのは至時の息子の天文方・景保で忠敬の作成した地図として1821年に幕府に提出したのです。

長崎の出島では、オランダ、中国、朝鮮の船の入港を許していました。西洋でどうしてオランダだけかといいますと、オランダはキリシタンの宣教師を連れてこず、貿易だけをしたからです。

シーボルトがドイツ人でありながらオランダ陸軍軍医少佐として出島のオランダ商館医師として入港したのが1823年です。シーボルト家はドイツでも知られた名門でシーボルトは日本のことを知りたくてオランダ国王に願い出て許可をもらってオランダ人としてやってきたのです。

シーボルトは医学だけではなく万有学者でもありました。歴史学、地理学、動物学、植物学、物理学、化学と分けられていなくてそれら全てを万有学者は勉強し研究していたのです。

シーボルトは、自分の医術や学問を新しい知識を求める日本の若者に教えました。その中心が出島の外にある鳴門塾でした。貧しいものや各地の大名のおかかえ医師たちも派遣されて学びに来ていました。

オランダ商館の人々は5年に一度江戸にいる将軍お目見えのための江戸参府がありました。もちろんシーボルトも参加します。自由に行動できないシーボルトは長崎から出て日本を見れるのです。

医学の勉強をしつつ弟子たちは万有学の助手としても協力していました。江戸までの道すがら弟子たちが珍しい植物や動物や鉱物などをもってきてくれました。その中にオオサンショウウオがありました。場所は鈴鹿峠を越えた坂下宿でした。

私がこの情報を得たのは東海道を歩いていた時の鈴鹿馬子唄会館だったとおもいます。

シーボルトはサンショウウオを初めて見ます。それもオオサンショウウオです。偶然出会わしたのかと疑問に思っていましたが、やっとナゾが解けました。オランダの博物館でオオサンショウウオは名物になりました。30センチくらいのものが十年ほどで80センチ以上になったそうなんです。

シーボルトは沢山の物をオランダに送っています。帰ってから色々調べ本にしようとおもっていたのです。外国から日本に入ってくるときは厳しかったのですが出ていくときは調べがなく、船で送る荷物も調べなかったようです。

シーボルトの医術の素晴らしさや博識なことは有名になっていますから、江戸滞在中訪問する人が多数いました。訪問者の望む資料や器具などを与えつつ、シーボルトの欲しい物も要求しました。

高橋景保もシーボルトと会いました。そして世界情勢から「世界一周記」(クルーゼンシュテルン著)の書物や地図を譲ってもらいたと伝えました。シーボルトは、伊能忠敬の日本地図のことは知っていましたから、条件として日本地図を要求しました。

日本の地図を持ち出すことは禁止されていました。「伊能地図」も幕府が管理し公表してはいないのです。景保は、日本にとって世界の新しい情報は必要だと考えシ-ボルトの条件を受け入れ日本の地図を渡しました。

追記: 映画監督の恩地日出夫さんが亡くなられました。恩地監督の講演を聞いたことがありますのでその時の様子が目に浮かびます。講演のあと『「砧」撮影所とぼくの青春』も読ませてもらい、映画『四万十川』も観ました。四万十川の暴力的な氾濫の描写と人のいとなみのけなげさが見事でした。(合掌)

水木洋子展講演会(恩地日出夫・星埜恵子) (1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

新しいことに挑戦・平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵(2)

忠敬は深川黒門町から暦局(浅草天文台)へ通います。

の天文屋敷が暦局の跡地です。いつか深川黒門町の伊能忠敬住居跡から歩いてみたい経路です

すでに地球が球形であることはわかっておりました。至時は地球の大きさがわかるには、北極から南極を結び一周する線が子午線で、この子午線の長さを知るためには緯度一度分の子午線の長さがわかれば計算できるといいます。

忠敬はこの緯度一度の距離を知りたいとおもったのです。そこで深川から浅草まで歩測で測量図をつくりました。至時は、やりかたは間違っていないが、深川から仙台とか青森とかもっと遠いところでの緯度と距離をはからなければダメですといいます。

至時は幕府から蝦夷地(北海道)の測量の許可をとってくれたのです。これが日本地図の測量へとつながったのです。役所は船で蝦夷地へ運ぶ予定ですがそれでは<緯度一度分の子午線の長さ>が出せません。陸路を測量しつつ進むために正確な絵地図を作りますと至時は説得しました。

許可は下りましたが天体観測もあるので費用は忠敬が自費を出さなければできないことでした。それは覚悟のうえでした。百姓の身分である忠敬には許可の下りないことであり、師・至時のおかげでした。至時はさらにいいます。「測量では、<誤差>をいかに小さくするかが勝負です。」この<誤差>に対し忠敬は肝に銘じました。

蝦夷地の測量は途中で切り上げますが、奥州街道の地図の精密さに幕府は次の二回目の測量をそく許可します。忠敬は<誤差>をなくすため歩測にさらに測量道具を考えだしていきます。

第四次の測量では「御用」の旗をかかげれるようになりました。幕府の命令による公式の調査ということです。この「御用」の旗で藩のあつかいがちがっていました。ただこの旗が忠敬を慢心させることになり、糸魚川での小さなトラブルが幕府まで届いてしまいます。至時からいましめの手紙が届きます。目指す仕事は大きいのですよということでした。忠敬は深く感じ入り師に感謝します。

そして江戸にもどると至時は知らせてくれます。忠敬が計算した緯度一度分が28里2分(約110.8㎞→現在111.1㎞)であることを確信したと。至時は、西洋の天文学の本『ラランデ暦書』を幕府に購入してもらい、日本の単位に計算し直してくれ忠敬のと一致したと教えてくれたのです。

幕府との面倒な交渉をしてくれ、忠敬の進む道を開いてくれ、忠敬の実績を証明してくれた師・至時はそれからまもなく亡くなってしまいます。師のそばで眠りたいという忠敬の想いもよくわかります。(源空寺墓地)

忠敬は幕臣となり測量は国家事業として続けられます。測量隊に役人も参加し、それはそれで内部の身分差がでてきたり心の休まることはありまんでしたが、第十次測量と間宮林蔵の蝦夷測量を加て「大日本沿海與地全図」は最後の仕上げにかかります。

第九次測量のあと、地図の作成には深川の家では狭いため、亀島町の屋敷(東京都中央区茅場町)に引っ越しています。ここで最期をむかえたようです。(「地図御用所」案内板・東京メトロ日比谷線<茅場町駅>1番出口付近)

大日本沿海與地全図」は「伊能図」ともいい、小、中、大と三種類ありました。小は1里(約4㎞)を3分(約1㎝)とし全3枚、中は1里を6分(約2㎝)とし全8枚、大は1里を3寸6分(約11㎝)として全214枚からなりたっています。

将軍家斉に見せたときは日本東半分の地図でしたが、300畳の大広間いっぱいになったそうですから大きいのを並べたのでしょう。インパクトがあります。

人に対しては身内でもきびしいところがり、娘婿、息子、弟子などと縁を切ったりしています。後に許したりもしていますがコツコツ積み上げてきただけに<誤差>に対しては厳格だったのかもしれません。天才肌というよりも地道に踏みしめて成果を残していくというタイプと言えそうです。

赤丸の上野にある源空寺には、伊能忠敬、高橋至時、高橋景保、そして谷文晁、幡随院長兵衛と妻・きんの墓があります。上の地図の16の幡随院は幡随院長兵衛が身を寄せた寺といわれ小金井に移転しています。

志の輔さんが新作落語「大河への道」伊能忠敬物語 を作られ語られれているのを知りました。どんな感じなのか興味ひかれます。映画にもなるそうで楽しみです。

立川志の輔独演会 大河への道 伊能忠敬物語:香取市ウェブサイト:香取市観光サイト (katori.lg.jp)

大河への道 (shochiku.co.jp)

追記: 30日夜の『古典芸能への招待 ー中村吉右衛門の至芸ー 』(NHK Eテレ)は一つ一つの役が脳裏によみがえり焼き付きました。幡随院長兵衛は押し出しも立派でセリフ回しもお見事、任侠の心意気が力強さの中に繊細さを垣間見せるという二代目ならではでした。二代目といえば吉右衛門さんです。

新しいことに挑戦・平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵(1)

上の案内図から平賀源内さんを少し追ってみましたが、その下の「伊能忠敬住居跡」と「間宮林蔵の墓」から、お二人の様子も知りたくなりました。「滝沢馬琴誕生の地」もあります。馬琴さんは同時代、新しい町人文化の担い手でしたが、今回は静かにしていてもらいます。

伊能忠敬さんが実測して日本地図を作ったころは蘭学が盛んなころでした。今回は伊能忠敬さんと間宮林蔵さんとのつながりです。入口は児童図書です。

伊能忠敬さんと同時代には、日本では蘭学をはじめ新しいことを学びたいという動きがありました。

青木昆陽(1698年~1769年) サツマイモの栽培を広める。前野良沢にオランダ語を教える。

前野良沢(1723年~1803年)、杉田玄白(1733年~1817年) 「解体新書」を翻訳する。 小野田直武(1749年~1780年) 平賀源内に洋画の技法を習い、源内の紹介で「解体新書」の絵図を描く。

平賀源内(1728年~1780年) 2022年1月3日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

伊能忠敬(1745年~1818年) 実測で日本地図を作る。

大黒屋光太夫(1751年~1828年) 乗っていた船が嵐で流されロシアまで行き帰国する。

滝沢馬琴(1767年~1848年) 『南総里見八犬伝』等を書く。

間宮林蔵( 1780年~1844年) 伊能忠敬が実測できなかった蝦夷の残りを実測する。間宮海峡(タタール海峡)を発見する。 

シーボルト(1796年~1866年) 長崎で蘭学を教える。帰国に際し日本の地図を持ち出したことからシーボルト事件となる。

忠敬は千葉の九十九里で生まれました。忠敬の父は婿で、妻が亡くなり婿先の家を出て実家に帰りました。忠敬は小さかったため亡き母の家に残されてしまいます。やっと父がむかえきてくれましたが、実家は父の兄が継いでおり父は貧し暮らしをしていました。

当時長男でない者は、商人、学者、僧侶などほかの道をみつけなければなりません。忠敬は算法が得意で算法で身を立て出世したいと思いました。忠敬17歳のとき、佐原村の伊能家の娘と結婚し養子となります。伊能家は大地主で、小作を使ってのコメ作り、醸造、運送、金融などをしていました。

忠敬はさらに収入を上げ伊能家を盛り立て時間を作っては好きな読書をしました。さらに薪問屋を江戸の新川に出しその店に行ったとき読書にはげもうとしましたが、近所の火事で店は焼けてしまいます。24歳のときです。それからは早く隠居することを目標に家業に精を出します。

忠敬は名主となり自然災害の時は貯めていたお金を佐原村のために使いました。天明の大飢饉のときには佐原村民は飢え死にせずにすみました。

忠敬は天文暦学に興味を持ち始めます。自分で使えるお金もありますので、書物、望遠鏡、磁石などを買い込み天体観察もはじめました。そしていよいよ息子に家業をゆずり深川黒江町に住居をかまえ隠居します。50歳の時です。新たな人生が始まりました。

児童図書は子供が読むことを前提にしていますから、伝記なども子供時代を丁寧に描き興味がわく様に工夫されています。さらに小説となっている場合は、史実をもとにした創作でこの登場人物は架空のひとですと書かれており、絵や地図、解説なども載せてくれていたりし、大人が読んでもわかりやすくてお得です。

佐原には伊能忠敬旧宅も残っていて街並みもしっとりして風情があります。かつて行った時よりも見どころが増えていそうです。佐原の町並み:香取市ウェブサイト:香取市観光サイト (katori.lg.jp)

深川黒門町に移り住んだ忠敬は、天文歴学者の高橋至時(よしとき)の弟子となります。幕府は新しい暦を作り変えようとしていて蔵前片町(台東区浅草橋三丁目)に「暦局」という役所を作り、そこで高橋至時は、「天文方(てんもんかた)」という責任ある役についていました。師・至時32歳、弟子・忠敬51歳でした。

至時がその後の忠敬の測量の道を開いてくれた人で、41歳で亡くなってしまいます。忠敬は師への恩を忘れず、死んだら師のお墓の隣にと言い残し、希望どおり至時のそばに眠っています。

忠敬は、全国地図を未完成で亡くなってしまいます。それを伏せて「大日本沿海與地全図」として完成させ伊能忠敬の業績としたのが、高橋至時の子の天文方・高橋景保でした。その後で忠敬の死を公表しました。

ところが後に、間宮林蔵と高橋景保は思いもよらない関係となってしまうのです。それがシーボルト事件です。

初春は平賀源内から

迎春

上の図の紫色で囲んである「平賀源内電気実験の地」とありますが、さて平賀源内さんはきちんとは知らないのです。多才の人で、歌舞伎『神霊矢口之渡(しんれいやぐちのわたし)』の作者でもあるのです。

というわけで図書館にあった児童書(小学校高学年~中学生)『大江戸アイデアマン 平賀源内の一生』(中井信彦著)を読んでみました。早く読めて面白かったです。一つの目指すことに失敗しても次の時に役立ったりします。誰も考えないような発想からはじまり、日本の知識ではだめで、西洋の知識も必要なことに挑戦するわけですから遠回りをしたりしますが目指していることはよくわかります。

香川県大川郡志渡町に百姓の子として生まれますが、父は殿様のお米蔵の番人だったので低いながらさむらいの身分でした。小さいころから色々なアイデアが浮かびます。

陶器づくりを見ればろくろに興味を持ち、後に外国と陶器に対抗するには土が重要と考えます。

高松藩主の作った薬園(栗林公園)で朝鮮人参を育てたり、薬草、薬品の良しあしを知るための展覧会を思いつきそこから植物、動物、鉱物を含めた物産会に発展させるのです。それを図鑑として残します。長崎にも行き、江戸に来ました。そして、藩に縛られていては自分の好きなことができないと浪人になります。

そうなると収入なしですので、アルバイトとして、物語や芝居の本を書きます。世界を旅する奇想天外な物語『風流志道軒伝』も誕生します。

田沼意次の耳にも入り秩父の金山の発掘もします。鉱山の調査などにより、石綿(アスベスト)をみつけます。

心霊矢口渡』が初演されたのが明和6年(1770年)源内43歳の時でした。

緬羊(めんよう)の毛から毛織物をつくりだすことも考えだし国倫織(くにともおり)と名づけます。国倫は本名でした。

色々なアイデアを実行に移しますが、それは日本のことを考えてのことでした。

外国との輸出と輸入のアンバランス。日本から流出した金、銀、銅はたいへんな量にのぼっていました。外国から入ってくるものといえば生糸、絹織物、毛織物、そして薬種。そのほかめずらしい鳥けだものや道具類などです。薬は必要ですが、あとはぜいたく品ばかりです。これでは日本が貧乏になってしまうのは当然です。

そういうこともあって源内さんは自国で生産し、海外に輸出しようという大きな考えでした。大量生産を考えるので失敗も多いのです。

そして手にした発電機からその復元製作に成功しエレキテルと名づけます。それを成し遂げたのは神田大和町でした。そのうわさで実際に見たいという大名や高官が多数なのでエレキテル公開のため、狭い住まいから広い深川住吉町の別荘を借りてくれる医者がいたのです。それが地図の場所です。老中・田沼意次も見に来たのです。

そして、源内さんは初めて自分の家を持つことにします。馬喰町でした。死刑になった検校の家で亡霊が出るというわさでしたがそれゆえに安かったのです。源内さんは幽霊など気にしませんでした。

源内さんは仕事が失敗するとそれにたずさわってくれた人々のことを考えます。金山で失敗したときも人々のために炭焼きで生計がなりたつようにしました。ただそれを売るとき問屋の手を借りなくてはならずそこで搾取する商売人の根性が好きではありませんでした。

そういう経験から、勘定奉行の用心と米問屋秋田屋の息子が自宅に訪ねてきたときは快く思わなかったようです。北海道のアイヌのために米を送る計画を聞きつけ、米買い集めを秋田屋に任せてほしいといってきたのです。

源内さんはアイヌの手による産業をおこし、アイヌが直接それらの品物でロシアとの貿易をして利益を得て生活することを考えていました。そのためにはまずアイヌの生活困窮のために米を大量に送ることを考えたのです。それを文章にしようと考えていました。

考えの違いからかは明らかではないのですが、源内さんは二人を切りつけてしまいます。源内さんは伝馬町の獄舎で破傷風のため亡くなってしまいます。

著者は歴史家で小説家のように想像では書かないが、この二人の来客の部分はなぞでいちおう著者が推理して書いたと「あとがき」で書かれています。

源内さんは自分のアイデアで多くの人々のために役立つことを考えていました。長崎では外国の知識もえて、物事を理として考えることに努めています。何事も実験に実験を重ねて新しいものを取り入れていきました。そして利益は私的なことではなく多くの人々のためと考えていました。何があったのか残念な最期でした。

平賀源内さんは多才でゆえに定まらなかったという印象でしたが、源内さんの考えはもっと大きかったようです。

上の切絵図 7⃣ 清住町 「江戸中期の奇才・平賀源内がエレキテルの実験を行った所。」。(現・江東区清澄1-2、3) 4⃣ 伊東 「北辰一刀流の剣客・伊東甲子太郎の道場。新選組参謀となるが、新選組と相容れず新選組に恨まれ暗殺される。」(現・江東区佐賀1-17) 3⃣ 真田信濃守 「松江藩真田家の下屋敷。藩士・佐久間象山がここに藩塾を開く。塾生に勝海舟、吉田松陰、橋本佐内など。」(現・江東区永代1-14)

源内さんが亡くなってから80年後には、源内さんと同じように藩ではなくもっと広い視野で物事を考えるような人々や様々な考えを持つ人々が出現し、その出入りの足跡が深川にもあったわけです。

児童書との出会いは、知りたいという先のスピード感をもたらしてくれました。もっともっと源内さんの人間関係は多数で詳しく書かれていますので誤解のありませんように。

追記: 2015年(平成27)に国立劇場で吉右衛門さんが通し狂言『神霊矢口渡』を上演されていました。筋書に初演(1770年)は江戸での人形浄瑠璃とありました。歌舞伎初演は1794年(寛政6)江戸桐座です。源内さんが亡くなった(1779年)15年あとでした。

追記2: 「この作品が書かれたのは矢口の新田神社から、祭神である新田義興(にったよしおき)の霊験を広めてほしいとの依頼があったからだと伝えられます。」とあります。

追記3: 国立劇場歌舞伎『神霊矢口渡』について記してありましたので興味があればどうぞ。

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(4) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記4: 井上ひさしさんの戯曲『表裏源内蛙合戦(おもてうらげんないかえるがっせん)』を読みました。人を殺めるのをどうするのか。表と裏の源内が登場していまして、表の源内が裏の源内に切りつけます。しかし弟子の久五郎を殺していたのです。源内は狂ってしまったとしています。表裏の源内を登場させた意味もつながります。

神霊矢口渡』は、「江戸言葉を始めて浄瑠璃に使った人気狂言者」というのも興味深いですし、渡守頓兵衛の台詞のすごさにも気づかせてくれました。「釈迦如来が元服して、あやまり証文書かうといふても、いつかないつかなひるがへさぬ」。江戸の物売りの売り声で一年間を表現するという場面にはなるほどと感じいりました。

『星落ちて、なお』(澤田瞳子著)から歌舞伎へ

今年の年始めの読書は、テレビドラマの『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』から澤田瞳子さんの著書『若冲』でしたので、師走は澤田瞳子さんの『星落ちて、なお』で締めることと致します。

川鍋暁斎の娘・とよ(暁翠)が父の死後、父との関係を思いめぐらします。とよは、5歳の時に父から絵の手本を渡され絵師の道を歩みます。兄・周三郎(暁雲)は、実母が亡くなり、後妻として入ったとよの母がきたため他家へ養子に出ますが、十七歳で実家にもどり、そこから絵師の修行に入ります。

周三郎は、父の葬儀のことなども皆とよにまかせてしまいます。とよは、弟子の鹿島清兵衛と真野八十吉に助けられながら葬儀を終わらせます。そして父と自分は親子というよりも父が自分を弟子としてしか接しなかったことを回顧します。

周三郎は、父はとよを葛飾北斎の娘・応為のようにそばにおいて手伝わせるために絵を習わせたといいます。周三郎は、とよに絵ではお前なんぞという態度をとりとよを傷つけますが、それは自分ととよしか川鍋暁斎の絵を継ぐ者はいないのだという想いからでもあったのです。

とよは自分の母によって養子にだされたことを周三郎が恨んでいるのかともおもったのですが、後々、自分も兄と同じ想いであることに気がつきます。

暁斎は次第に古い画家として隅っこにやられ、200人いた弟子たちもいつしか離れていってしまいます。時代はあの狩野派に私淑したことを忘れて新しい絵の流れへと進んでいました。

とよはいいます。「そりゃ確かに、親父どのはどんな流派の絵でも描きました。でも、その根っこにあったのはやはり狩野の絵なんだと、あたしは思いますよ。」

とよは結婚し娘をさずかりますが、娘にはあえて絵を教えませんでした。自分と同じ道は歩ませたくないとの想いでした。挿絵などを描いていたとよはしっかり父の絵に対峙し自分の絵を描かねばと離婚し、父を見送った根岸金杉村の家にもどります。改めて絵の道へと進むのです。

明治維新から四十年余りたち、画壇を席巻していたのは橋本雅邦、横山大観といった画人でした。基は狩野派で学んでいましたがその名を表にだすことはありませんでした。真野八十吉の息子・八十五郎も絵師となりましたがやはりとよの想いとは違う画風でした。

周三郎は父の絵から離れず、かといって父を越えられないことを承知の上での道を進みます。そして周三郎は暁斎そっくりの絵を描きながら父を愛しみ憎しみもがきながら亡くなっていきます。その生き方がとよにやっとわかるのです。父の絵の基本までにも到達できない自分と兄は川鍋家の中で同じ闘いをしていたのです。

それでもとよは兄と同じ道をあゆみます。兄の死後、川鍋暁斎を継ぐのは自分しかいないのだと、その孤独感に戦慄しつつ心にきめるのです。

とよは、薄暗い画室をながめ、かつて確かにここに輝いていた星の残映であったことをおもうのでした。

川鍋家の絵の継承を基本軸に、とよと大きくかかわった鹿島清兵衛と真野八十吉の家族の確執なども描かれています。

興味ひかれたのは鹿島清兵衛でした。新川の下り酒屋百軒余りを束ねる大店・鹿島屋の養子となり、八代目鹿島清兵衛をついだ人物です。生まれは、大阪・天満の鹿島屋の分家でした。清兵衛は暁斎の弟子として二年ほど絵を習い、その後パトロンでもありました。暁斎が亡くなり独り身のとよは暁斎の申し出により、深川佐賀町にある加島家の先々代の隠居所へ引っ越します。

新川は幸田文さんが新川のお酒問屋の息子と結婚していたのでかなり前から新川とお酒はつながっていましたが場所はしりませんでした。行徳河岸のそばでした。さらに深川の佐賀町を調べました。

下記の地図は、「江戸東京再発見コンソーシアム」主催の舟めぐり「神田川コース」のときにいただいた地図です。古地図の上に現在の地図がかぶさって古地図と比較できます。

三ツ股も書かれています。朱色の線が小名木川で黄色が行徳河岸で、新川には酒問屋が並んでいたのでしょう。緑の丸あたりが佐賀町です。

現在は埋め立てられていますが、小網町、新川、佐賀などの町名は残っています。

残念ですが「江戸東京再発見コンソーシアム」での舟めぐりは再開しておりません。そのため、小名木川は「下町探検クルーズ・ガレオン」を利用しました。スカイツリーや日本橋から【東京のクルーズ】を楽しむならガレオン (galleon.jp)

さて鹿島清兵衛ですが、商売の腕もありましたが様々な趣味もあり、その中でも写真にのめり込み木挽町5丁目には写真館『玄鹿館』も開き写真大尽ともいわれました。写真の発展には相当寄与しています。しかし放蕩が高じ新橋の芸者・ぽん太を落籍し、ついには養子先の鹿島家から放逐されてしまいます。とよの前に時々現れその時々の様子が描かれています。最後は能の笛方となり、ぽん太は最後まで添い遂げました。

森鴎外の『百物語』の中にもでてきます。主人公は知人に勧められ百物語の会に出席します。その会の主宰者が今紀文(いまきぶん)と評判の飾磨屋でした。この飾磨屋のモデルが鹿島清兵衛です。その隣に芸者が座っています。主人公は清兵衛と芸者を観察し「病人と看護婦のようだ」と思います。さらに女性がこれから捧げる犠牲の大きくなるのを察知します。

主人公は自分を生まれながらの傍観者としています。飾磨屋は途中から傍観者になった人だと感じます。主人公は途中で先に帰りその後の飾磨屋の様子を聞き結論づけます。「傍観者と云うものは、矢張多少人を馬鹿にしているに極まっていはしないかと僕は思った。」

そうした新しいものへの時代の流れのなかで、とよは暁斎は狩野派であると主張します。狩野派での厳しい修行時代があり基礎ができているからこそどんな絵を描こうとゆるぎないのだということでしょう。

ジョナサン・コンドル著『川鍋暁斎』によると、最初の師である歌川国芳は戦さの絵があれば実際のけんかを観て描けとおしえます。狩野派ではひたすら狩野派の巨匠の絵を模写することでした。ここで自分の個性を消して目と手で頭に蓄積していったのでしょう。

コンドルは書いています。「西洋画の写生はただ一編の詩を読んでそれを後で引用することができるという程度、それに対し日本画の写生は詩集全体を記憶してそのすべてをそらんじることができる。」

ここまでのことで、歌舞伎の身体表現について思い当たったのです。歌舞伎座12月の三部『信濃路紅葉鬼揃(しなのじもみじのおにぞろい)』がどうとらえていいのかわからなかったのです。入り込めないし何か拒否反応が起こるのです。鬼女たち(橋之助、福之助、歌之助、左近、吉太朗)の身体表現が魅了させるほどの出来上がりでなかったのではと思い当たったのです。玉三郎さんとの差がありすぎるのと、玉三郎さんにただついていっているだけで若さのオーラも感じられなかったのです。

筋書で見ましたら2007年の歌舞伎座での鬼女が門之助さん、吉弥さん、笑也さん、笑三郎さん、春猿さんでした。登場したとき赤く染まった紅葉だと思えたのです。

そして納得しました。まだ歌舞伎の身体能力が途中なのだと。山神の松緑さんで沈んだ気持ちが挽回するかなと期待しました。高まりまでにはいたりませんが平常にはもどりました。鬼女たちの毛振りの中で動く七之助さんの美しさが際立っていたのが救いでした。これって維茂が主役なのかなと思ってしまい七之助さんいいとこ取りをしていました。

その前の『吉野山』では今まで観た吉野山とは違っていてお雛様の形もなく、静御前の踊りの見せ場が多く、静御前も積極的で、静御前を守る家臣忠信よりも狐忠信を感じさせました。最後も花道ではなく本舞台での狐の振りがなおそう思わせたのかもしれません。松緑さんと七之助さんの踊りをたっぷり堪能し期待しただけにその期待との落差の淵にはまってしまった感じでした。

観劇した日が早かったからかもしれません。歌舞伎の身体表現はやはり時間がかかるということを改めて感じさせられたのです。

周三郎ととよの闘いも同じですし、暁斎の模写して模写して自分の手のうちにし発信するという行為は歌舞伎の身体表現も同じと思えました。

一か月の舞台経験が身体に蓄積され、詩集の素敵な部分を自由に出し入れできる日がくることでしょう。

玉三郎さん、カルガモのお母さんのようで神経も使われて大変なのではなどと余計なことまで考えてしまいました。

最後まで勝手なことを言いまして面目次第もございません。

穏やかな年越しでありますように。そしてささやかでも希望の持てる新しい年でありますようにと願うばかりです。他力本願に思いを込めて祈ることもつけくわえておきます。