『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』<十種香> 武田と上杉の戦の時代に、中国の二十四人の孝行な人を集めた故事を重ねた話らしいが、その辺はおいておいて、そのうちの<十種香>は、二人の女性の亡き人を弔うためのお香をさしている。
一人は長尾謙信の息女・八重垣姫で許婚の武田勝頼が切腹したと聞き勝頼の絵姿の前で回向している。もう一人は、花作り箕作と共に長尾家に召し抱えられた濡衣(ぬれぎぬ)である。濡衣が回向しているのは、勝頼の身代わりとなって死んだ夫のためである。勝頼は生きていた。箕作となって、武田家の家宝の兜を取り返そうと、謙信の館に潜入していたのである。
箕作のを中央に、下手の部屋で先ず濡衣が正面を向いて回向し、それが終わると、上手の部屋での八重垣姫の絵姿をみての後ろ姿の回向の場面となる。ここからが八重垣姫の見せ所であるが、七之助さんの八重垣姫は清楚な感じで色香は薄い。
この八重垣姫が、箕作の松也さんを見て絵姿の勝頼にそっくりなため一瞬にして生身の人を恋する姫に変身してしまうのである。ただ深窓の姫君であるから口説きも袂を使っての愛らしい色香とならなければならない。七之助さんはあくまでも清楚な愛らしさで一途さを貫いた。濡衣の児太郎さんに仲を取り持ってくれと頼む。
濡衣の児太郎さんは、芝翫さんを思い出させるしっかりさである。八重垣姫の様子から、兜を盗み出してその想いの証明とするならと持ち掛ける。それを聴いた八重垣姫は、やはり勝頼様だと確信する。ところが箕作は違うと否定する。それを聴いた八重垣姫、違う人に懸想してしまったと生きてはは居られぬと自害しようとする。濡衣、そこまでするならと勝頼であることを明かす。あらうれしや。
そこへ、謙信の市川右近さんがあらわれ勝頼を使いに出す。箕作が勝頼であることを見抜いていた。もどるときに勝頼を殺すため、六郎の亀寿さんと、小文治の亀三郎さんを送り出す。驚く八重垣姫と濡衣を謙信は押さえこむ。
黒の濡衣、紫の勝頼、赤の八重垣姫と衣装が艶やかで、襖絵には菊の花が広がっている。襖の前には、寄り添う一対の小鳥が雪の枝にとまる墨絵の描かれた衝立が置かれていて、それも八重垣姫の口説きの時に赤い袂が振りかかるという道具立てになっている。
長い振袖の袂を自在に優雅に扱うことによって生身の相手を目の前にして初めて恋に目覚めた、お姫様の想いを表現するのである。その動きが年齢に関係ない役を描き出せる魔法の力なのである。
今の若い力の素直な見せ所となった<十種香>である。香りの高さが増すのはこれからである。
話しに出てくる<兜>は、武田家の<諏訪訪性の兜>で、謙信が借りたのに返さないというのが、両家の不和の原因とされている。この兜が今回は上演されない<奥庭>の次の美しい場面の小道具の一つになるのである。衣裳から小道具まで全て芝居のために考えられ構築されていくのである。
武田信玄と上杉謙信のことを少し調べたところ、信玄の五女の菊姫が上杉景勝に嫁いでいる。信玄と謙信の次の世代、武田勝頼と上杉景勝の時代、甲越同盟が結ばれる。その時、菊姫は上杉に嫁いでいる。
謙信の甥の景勝は、幼少から謙信に可愛がられ、謙信は景勝のために「伊呂波尽手本」(国宝)を書いている。謙信30代なかばの戦さに忙しい時期に、一字の漢字の横に幾つかの読み方も書き加えている。その甥が川中島で戦った信玄の娘と結婚するのであるから時代の流れというのはわからないものである。
政治戦略として、嫁がなければならない深窓のお姫様が、この人と思ったら思い込むエネルギーの凄さを歌舞伎のお姫様は度々見せてくれる。或る面では、自分の意思を貫く道の一つを表しているともいえる。