歌舞伎座6月『菅原伝授手習鑑 車引』『猪八戒』

歌舞伎座の一部です。

菅原伝授手習鑑 車引』がなぜか荒事になっていて、度々単独で上演されますが、今回もそうです。

ただ今回は、桜丸が上方の型で隈取がなく上の衣装を脱ぐと襦袢がトキ色となります。江戸型ですと、桜丸はむきみ隈で梅王丸と同じ赤の襦袢なのです。襦袢と言っても刺繡のある豪華なもので普通の襦袢のイメージとは違います。

三つ子の三兄弟がけんかをするのです。江戸型だと桜丸と梅王丸が赤の襦袢で、松王丸が白の襦袢なので、二対一という構図がはっきりするのですが今回は違う見方ができました。梅王丸は赤の筋隈で松王丸は二本隈で、東京型では桜丸はむきみ隈です。その隈取がないため桜丸と梅王丸が笠を取り顔を見せたとき、桜丸の悲劇性がぱっとこちらに見えました。隈取の無いことで、桜丸の窮地が透けて見えるといった感じでした。

桜丸は菅丞相の流罪の原因を作ってしまっていたのです。そのことは知らなくても、襦袢がトキ色ということで、二対一の対立というより三つ子でありながら一人一人の生き方があり、それぞれの背負っている人生はちがっているのだといことが明確になりました。

ただ荒事の様式美でみていたとしても、かえって、『菅原伝授手習鑑』のこの三人の前後の芝居を観たとき、えっ、そういうことだったのと謎解きができて引き込まれていくと思います。

綿入れの入った衣装に刀三本を差し竹本に合わせて声を張り上げリズミカルに動くのですから驚きです。壱太郎さんは上方型でやらせてもらえるということで、和事風の愁いさもよく伝わりその責任は果たされていました。巳之助さんは、荒事の舞台でとにかく声を張ることにつとめられていたので、今回はそのセリフ回しに味わいが加わってきていましたし赤の筋隈に負けない動きでした。松緑さんは、黒の筋隈をしているような雰囲気で大きさの中に稚気さもあり、面白い三兄弟でした。猿之助さんの時平も桜丸と梅王丸をすくませる力があり、あくどい権力者として異様さも十分でした。

三つ子はそれぞれ別の主人に仕えたことが運命の分かれ道でした。権力闘争の渦に巻き込まれて相対する立場になってしまうわけです。汚い手を使って権力を握った藤原時平の前では、桜丸も梅王丸も憎っくき時平に挑もうとしますが、にらまれるとすくんでしまうのです。時平に仕える松王丸はおれのご主人様に何やってんだお前たちは、おれが相手だと兄弟げんかとなるわけですが、ここは実際に三つ子が生まれたという世間の事件を違う形で舞台上で登場させ見せてもいるわけです。珍しい事があればすぐに舞台上で見せるという手際の良さです。

ただ物語性はしっかりしています。歌舞伎はこの後、「賀の祝(佐太村)」となります。佐太村に住む三兄弟の父・白太夫の七十歳の祝いがあるのです。

文楽では『菅原伝授手習鑑』の三段目として「車曳の段」「佐太村茶筅酒の段」「佐太村喧嘩の段」「佐太村訴訟の段」「佐太村桜丸切腹の段」と分かれていますので、桜丸が切腹するということが解るわけで物語の先の想像がつくわけです。

2014年4月に大阪・国立文楽劇場で引退公演をされた七世・竹本住太夫さんの狂言が『菅原伝授手習鑑』の「佐太村桜丸切腹の段」で、テレビの「古典芸能への招待」で放送され録画していました。「車曳の段」はなくて、その後の「佐太村茶筅酒の段」「佐太村喧嘩の段」「佐太村訴訟の段」「佐太村桜丸切腹の段」でした。三兄弟のその後をじっくり観ることができ、この作品はある意味それぞれの人生の成長していく過程でもあるのだとおもえました。

そして途中で命を絶った桜丸を「寺子屋」での松王丸は涙を流すのです。そこで松王丸の本当の心の内がわかり、松王丸のそれまでの孤独さも見えてくるのです。

それらの事をフィルターにかけて荒事として「車引」だけを役者によってみせるという試みは歌舞伎ならではの見せ方とも言えます。荒事がそこからどう人の心の機微を見せてくれるのか、出発点として若い役者さんとそれをけん引する役者さんの組み合わせでみれるというのも楽しいことでした。男寅さんも復帰できよかったです。その時期、時期で出会える貴重な役ですから。

録画するだけして見過ごしているものがあり、この時期それらのえりすぐりの舞台映像と出会えるのが目下の至福のときでもあります。

菅原伝授手習鑑』はまだまだ名場面がありますからそのとき今回の「車引」とどうつながるのか楽しみなきっかけになるでしょう。

猪八戒』は、澤瀉屋十種の一つで歌舞伎座初演が1926年で今回は96年ぶりの歌舞伎座公演なのだそうです。今回鑑賞して、これはやる演者の年齢的なことが関係すると思いました。一時間近くずーっと踊り続けさらに立ち廻りがあるのです。

振り付けは二世藤間勘祖さんと藤間勘十郎さんで、演者も演者なら、振付師も振付師と思いつつしっかり観ているつもりでしたが、過ぎてみれば、あれよあれよのラストに向かっていきました。

西遊記』の内容はきちんと把握していないのです。テレビドラマも見ていません。二十一世紀歌舞伎組の『西遊記』の舞台は観ていますがもう記憶のかなた。テレビで放送され録画していたのですが、ダビングに失敗したようで最初のほうで止まってしまいました。無念。

孫悟空がでてきて三蔵法師に頭に輪っかをかぶせられインドまで三蔵法師のおともをするというその程度しかわかりません。その仲間として猪八戒と沙悟浄がいるということなのでしょう。アニメくらいは見ようとおもっていますが。今回は猪八戒が主人公での舞踏劇ということで、三蔵法師は出てきません。

猿之助×壱太郎「二人を観る会」』の座談会のとき、猿之助さんが今回の『お祭り』は清元ですと言われ、清元は語りですから長唄とは踊り方が違いますといわれたのですが、始まったら忘れていてあれよあれよで終わってしまいました。

今回は竹本ですので足のつま先から手のさきまでの全身の動きを竹本を耳にしつつじっとみつめていました。納得できたような気になっていましたが終わってみるとこれまた消えています。もともとよく動く方ですが、今回はさらによく次から次へと動くものだと感心と驚きです。どういう体の構造なのでしょうか。

猿之助×壱太郎「二人を観る会」』の素踊りの時、段四郎さんに似てこられたと思いましたが『猪破戒』の足の動きは段四郎さん系のように思えます。

猿之助さんの口が動いていて猪八戒の浄瑠璃の台詞の部分を言われていたようなんですが、そのほうが体にリズムがなじむのかなと思っていましたら、セリフもすべて浄瑠璃で語られるので耳の不自由な方にもわかるようにということのようです。

この時期思わぬところで不自由な方がさらに負担を負うということなんですよね。

笑也さんと笑三郎さんの衣装と二刀流が素敵でした。一人、童女になりすました猪八戒にいいように遊ばれていた猿弥さんの霊感大王も援軍を得るわけです。が、元気で陽気な右近さんの孫悟空とやるぞ感の青虎さんの沙悟浄が参戦し、アクロバット軍団も登場し敵味方わからなくなるくらいの混戦状態のスピード感です。バックの背景が藍色の波から山水画の岩山にかわり皆さんの動きを静かに見つめていました。空間が広がりました。

村の長老が寿猿さんで村人に澤瀉屋の役者さんが顔を揃えていました。澤瀉屋一門とその仲間たちにひと時楽しませてもらい煙にまかれたうつつのようなうつつでないような時間でした。配信があったら観なおしたいです。

追記: 坂東竹三郎さんがお亡くなりになられた(合掌)。 『仮名手本忠臣蔵 六段目』の映像で仁左衛門さんと猿之助さんのそれぞれの勘平の義母・おかやをつとめられていて、江戸も上方も両方その雰囲気をかもし出されるのに見入っていたので貴重な役者さんがまたおひとり芸を持って行ってしまわれたと残念です。ただこれから歌舞伎の中心となるであろう役者さんや若手の役者さんたちが上方の型が無くなることを危惧され東京も上方も両方に垣根を作らず学ばれているのが心強いですし繋がることでしょう。

追記2: 歌舞伎名作撰の『菅原伝授手習鑑 車引・賀の祝』のDVDを持っていました。松王丸(吉右衛門)、梅王丸(團十郎)、桜丸(梅玉)、時平(芦燕)、白太夫(左團次)、松王女房・千代(玉三郎)、梅王女房(当代雀右衛門)、桜丸女房(福助)。(平成14年歌舞伎座)

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写真の上の松王、梅王は「車引」の隈取で、下の桜丸は「賀の祝」で隈取がありません。松王も梅王も「賀の祝」では違う隈取となります。上方型では桜丸は「車引」から隈取の無い姿で「賀の祝」につながっていくわけです。「賀の祝」自体が謎解きの部分があり、さらに「寺子屋」への暗示がよくわかりました。

追記3: 平成22年(2010年)の初春公演でも「車引」が上演されました。松王丸(当代白鸚)、梅王丸(吉右衛門)、桜丸(前芝翫)、時平(富十郎)。今月の猿之助さんの隈取は富十郎さんに似ていました。藍色の隈取はしていませんでした。令和3年(2021年)には高麗屋三代「車引」。松王丸(白鸚)、梅王丸(幸四郎)、桜丸(染五郎)、時平(彌十郎)。白鸚さんの隈取は平成22年とは違って細い赤でした。時平の袖のクルクルも片袖だけの方もおられ色々なのだということがわかりました。こんなに「車引」に注目したのは初めてです。

追記4: 松竹の社長・会長をつとめられた永山武臣さんの『私の履歴書 歌舞伎五十年』を愉しんで読了。ロック・ミュージカル『ヘアー』を手掛けられたのは知りませんでした。そうそうたる役者さん達の知られざる様子も新鮮でした。六代目菊五郎さんが『吉田屋』の伊左衛門を自分流にしていいならとやっと引き受けられたそうですがどんな感じか観てみたいです。手探りのアメリカ・ソ連・中国公演などいつの時代も文化交流はあってほしいものです。

伊能忠敬の歩いた道(1)

日本地図を描かれるために歩いた道ではありません。深川の黒江町の伊能忠敬宅跡より天文屋敷(天文台)までの道です。忠敬さん、家業を譲り引退して改めて勉学のために高橋至時先生に弟子入りします。そして自宅から天文屋敷まで通ったのです。ここを歩いてみたいと思っていて実行しました。

写真を撮りつつ道に迷いつつですので、忠敬さんがどのくらいの時間で歩いたのかはわかりません。さらに忠敬さんは歩幅をかぞえながら歩いてもいましたのでどんな感じだったのか。映画『大河への道』の感じですと、忠敬さんの歩く姿を実際に見た人はかなり奇異に感じたことでしょう。映画で香取市職員の池本さんが大河ドラマの「続武田信玄」のポスターを見て大河ドラマ誘致の発言したのも笑えました。大河の<続>はまだないですね。

隅田川でいうと、永代橋から蔵前橋を渡ったところへの道と言えます。

東京メトロ門前仲町駅から先ず伊能忠敬旧居跡を見つけるのが大変です。方向音痴系でいながら何となくこちらで歩いてしまうのですから。番地をみつつ行きましたがわからず、最後は深川東京モダン館頼みと訪ね、すぐですよと伊能忠敬旧居跡の石碑まで案内していただきました。感謝!感謝!

伊能忠敬旧居跡の石碑。出発です。

渋沢栄一宅跡

福島橋

大島川西支川。先に見えるのが御船橋(みふね)と緑橋。

佐久間象山砲術塾跡

永代通りを渡った向かい側近くに初代段四郎さんのお墓のある正源寺があるのですが、時間の関係上残念ながらあきらめてまずは永代橋に到着。ここまでくれば、後は隅田川沿いで進みます。隅田川テラスを歩けば楽なのですが、探す史跡もあるのでその一本内側の佐賀町河岸通りをたどります。

2が正源寺。3が佐久間象山砲術塾。6が伊能忠敬旧居のあった黒江町。永代橋は1807年(文化4年)に、富岡八幡宮の祭礼に訪れた人々の重さに耐えかねて崩落事故がありました。亡くなった方の数は定かではありませんが1500人ともいわれています。いかに多くの人々が押し掛けたかが想像できます。

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隅田川テラス。

地図上だけでの確認だったのが実際にわかるわけですから見つけるぞと気合が入ります。

早速、赤穂義士休息の地の碑。大高源吾がちくま味噌の初代竹口作兵衛と其角門下で、一同を招き入れ甘酒粥をふるまったとあります。碑を建立したのはちくま味噌16代目さんです。今の若い人は「忠臣蔵」といっても知らないようです。

向い側に古い建物が。

次は非常に頭を悩ませられた下の橋、中の橋、上の橋にいきます。

追記: 歌舞伎オンデマンドの2012年(平成24年)新橋演舞場での『仮名手本忠臣蔵 5段目6段目』が6月14日で配信終了ですので観ておいて欲しいです。特に6段目の上方型を観れるのは貴重です。この時の若手の通し狂言観ていました。思い出しました。10年前でまだまだと思って斜交いに鑑賞していました。特に6段目の勘平は18代目勘三郎さんのが好きでしたので、上方型とは気にかけずに何か地味だことと感じたと思います。今になって東京型(音羽屋型)との比較が出来、配信に感謝です。

追記2: 勘三郎さんの録画なく、同じ2012年の勘九郎さん襲名披露南座顔見世公演で、仁左衛門さんが東京型でされていた録画がありじっくり観させてもらいました。さらに文楽の録画もあり比較の楽しみ三昧です。今月大阪の国立文楽劇場で上演されていますのでそちらも是非観ていただきたいです。ついに17代目勘三郎さんの勘平のDVDも購入してしまいました(音羽屋型)。それぞれに発見があり多種多様の観方ができ、かつての名優の役者さんたちの芸も味わうことができ、どんどん末広がりとなり嬉しきかなでした。

追記3: 2012年に花形歌舞伎通し狂言『仮名手本忠臣蔵』をやっていたからこそ、2020年新型コロナの中、図夢歌舞伎『忠臣蔵』が誕生したのかもしれません。

追記4: 葉室麟さんの『乾山晩愁』を読んでいたら、尾形光琳が赤穂浪士に加担し、討ち入り装束が光琳さんの好みというナゾがからんできておどろきでした。江戸での光琳さんに援助していたのが深川の材木商の冬木屋だそうで、この話はここで止めておきます。先に進まなければなりませんので。それにしても面白し。 

日光街道千住宿から回向院へ・そして浄閑寺へ(5)

やはり浄閑寺まで到達しなければすっきりしません。というわけで南千住へ行ってきました。

かつては道があったのでしょうがいまは貨物車の線路が集中してまして、歩道橋下に延命寺・小塚原刑場跡がありました。

延命寺の地蔵菩薩は1741年(寛保元年)に造立され、明治29年に隅田川線が敷設するに伴って移設されたとあります。明治30年代から昭和30年代まで毎月5、14、27日は地蔵の縁日には大変なにぎわいだったそうですが、今ではちょっと想像できません。

お顔がよくわかりませんが優しい穏やかなお顔のお地蔵菩薩様です。

歩道橋のうえから、貨物線の沢山の線路が集まっているのがわかります。右の白い建物の黄色丸のところにJR隅田川駅とあります。貨物駅でも隅田川が駅名に残っているのはうれしいですね。かつては隅田川が引き込まれていて船でここまで運んで貨物列車でと荒荷を運んでいたようです。常磐炭鉱の石炭もここに集められていたのです。

南千住まちあるきマップによりますともっと南千住駅近くの南千住駅前歩道橋がビューポイントのようです。その歩道橋からですと隅田川駅での車両の入れ換え作業がみれるようです。

JR常磐線にそって西に向かいますと浄閑寺があります。1855年(安政2年)の大地震で犠牲となった多くの新吉原の遊女たちの遺体を葬ったとされるお寺です。のちに新吉原総霊塔が建立されました。

永井荷風さんが愛したお寺でもあり、娼妓のそばに自分の墓を望みましたが、お墓はなく谷崎潤一郎などによって文学碑とゆかりの品を納めた荷風碑がたてられました。そのほかおやっと思う方のお墓もあります。

本庄兄弟首洗井戸並首塚がありまして説明がありました。「父の本庄助太夫の仇である平井権八を討ち果たそうとした助七と助八の兄弟でしたが、兄・助七は吉原田圃で権八に返り討ちにあってしまう。弟の権八はこの井戸で兄の首を洗っているとことを無残にも権八に襲われて討ち果たされた。兄弟の霊を慰めんと墓(首塚)が建てられた。」

歌舞伎では白井権八となり、幡随長兵衛との出会う『鈴ケ森』は前髪の美しい若者と侠客の中のヒーローと決め場面は心躍らせます。歌舞伎は現実味を帳消しにして華にしてしまうところがあります。そこが面白さであち、芸の見せどころでもあります。

花又花酔の句壁。「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と「新吉原総霊塔」。

永井荷風文学碑荷風碑

浄閑寺を出ると音無川と日本堤の案内板と広重さんの『名所江戸百景』に描かれた新吉原へ通う客でにぎわう日本堤(吉原土手)がありました。

日本堤は三ノ輪から聖天町まで続く土手です(パステルグリーンの丸)。黄色丸の8が浄閑寺。6が新吉原。11が浅草寺。12が三社祭りの三社権現。14が天保の改革で芝居小屋が一ケ所にあつめられた猿若町。朱丸が待乳山聖天。不夜城の新吉原の周囲は田地です。

前進座の『杜若艶色紫』の最後の「日本堤の場」の舞台背景が気に入りましたが、この地図を見て絵画化してくれたようにぴたりとはまりました。

ただ安政の大地震の犠牲となった遊女の遺体は、音無川を船で運ばれたり、田地の間の道を運ばれて浄閑寺にたどり着いたのかなとも地図を見つつ想像してしまいました。遊女たちを偲んだ文豪永井荷風さんがそばにいますよ。

さてそのあとは、都電荒川線の始発・終点の三ノ輪橋駅から乗車。何年ぶりの都電でしょうか。チンチンの音もわすれていましたし、こんなに静かに移動していたんだと新鮮でした。さて適当なところで途中下車することにして日光街道千住宿の旅もここでお開きです。

日光街道千住宿

日光街道千住宿から回向院へ(1)

日光街道千住宿から回向院へ(2)

日光街道千住宿から回向院へ(3)

日光街道千住宿から回向院へ(4)

追記: 歌舞伎『鈴ケ森』は、鶴屋南北さんの作品『浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくのいなづま)』の一場面です。皆川博子さんの『鶴屋南北冥府巡』を読み終わりました。表と裏。南北さんと初代尾上松助さんをモデルとして、南北さんが松助さんのために『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』を書き上げるまでの話です。裏の世界を表現するのを得意とする南北さんが松助さんのために立作者となるまでを裏から描いていて、皆川博子さんの独特の視点でした。

追記2: 『鶴屋南北冥府巡』の付記に書かれていることをお借りして記入させてもらいます。

文化3年、桜田治助、没。文化5年、並木五瓶、没。伊之助は、立作者の地位を確立する。文化8年、伊之助は、四代目鶴屋南北を名乗る。文化12年、南北と組んで、文化年間、けれんの妖花を咲かせつづけた尾上松助、72歳にて、没。文政12年、鶴屋南北、没。75歳。翌年、年号は天保と変わる。「文化元年より、文政最後の年まで、江戸爛熟の25年間、南北の描く悪と闇と血と笑いは人々を鷲掴みにした。鼻高幸四郎、三代目菊五郎、目千両の半四郎など、すぐれた役者にも恵まれた。」1804年から1830年の間です。その次の時代、天保の改革によって歌舞伎の芝居小屋は浅草に集められるのです。南北さん関連本を数冊読む予定なので参考になります。ありがたし。

追記3: 永井荷風さんは、21歳のとき歌舞伎にかかわりたくて福地桜痴に弟子入りしています。下働きをし、柝を打つ練習もしています。しかし十カ月終わります。桜痴さんが歌舞伎座を去り日出國新聞社(やまと)の主筆となるので行動をともにします。近藤富枝さんは『荷風と左團次』中で、荷風さんは役者になりたかったと推察しています。その後、荷風さんと二代目左團次さんは出会います。二人の友情を<交情蜜のごとし>としてその様子を書かれています。歯切れのよい文章で読みやすく興味深いです。

追記4: 南北さんの時代は、芝居に対して細かい規制のお触れがあって、地名や料理屋などの名前も限定されていました。新吉原を背景にした狂言は、大音寺前、日本堤、隅田川、向島などの固有名詞は使用してもよいとされていました。高価な衣装はダメで、血のりもダメで赤く染めた血綿ならよいなど、子供だましでない大人の芝居としてどうリアルにみせるか工夫に工夫を重ねたことでしょう。

追記5: 鎌倉の建長寺の場所はもとは刑場で地獄谷よ呼ばれそのためご本尊は地蔵菩薩坐像であるということを『五木寛之の百寺巡礼』で知りました。

国立劇場周辺の寄り道

東京メトロ半蔵門線半蔵門駅から国立劇場の行き帰りの寄り道を紹介します。半蔵門駅の1番出口か6番出口を出ますと道向かいのマンションの間にに小さな稲荷神社があります。千代田区麹町にあるので麹町太田姫稲荷神社と呼ばれているようです。

神田にある太田姫稲荷神社の分社で、伝説によると太田道灌の娘が天然痘にかかり、さる稲荷神社に祈願したところ治り、江戸城内に勧請し祀られたました。そのあといろいろな変遷があり麹町の有志によって、地域の守護神、病気平癒、商売繁盛の神としてまつられたようです。

「バン・ドウーシュ」というオシャレな名前の銭湯もあったのですが今回見ましたら名前がなく廃業したようです。皇居周辺をマラソンするかたも利用していたようですが憩いの場がまた一つ消えていました。

1番出口、6番出口を右に坂を下っていきますと平河天満宮があります。これもまた太田道灌が江戸の守護神として江戸城にお祀りしたようです。二代将軍秀忠によってこの地にうつされ、平河天満宮の名にちなんで平河町と名づけられました。御祭神が菅原道真公ですから学問の神様で合格祈願のお参りも多いようです。

鳥居が銅で作られています。左右の台座の部分に小さな四体の獅子がいます。初めてみました。銅の鳥居は何代も続く名ある鋳物師(八代目・西村和泉藤原政時)によって作られ、江戸時代の鳥居の特色の一つとのことです。鋳物だからこそできる意匠です。

稲荷神社の横には、百度石があり、力石、筆塚などもあります。そのほか、石牛、狛犬なども奉納されています。

半蔵門駅の改札を出てすぐの右手に『半蔵門ミュージアム』のポスターがありいつも気になっていたのです。仏教に関係があるらしく無料なのです。駅すぐそばなのです。いつも使う出口ではなく4番出口すぐそばでした。

運慶作と推定される大日如来座像だけでも必見の価値があります。そのほかガンダーラ関係のものもあり、今回初めて入館しましたが、静かで入場者も少なくゆったり鑑賞できました。シアターも二つ観ました。「曼荼羅」は解説を読んでも難解ですが、映像によりほんの少し近づけました。「大日如来坐像と運慶」も心が揺さぶられました。次回は「ガンダーラ仏教美術」も観たいとおもいます。

そして今回は写真家・井津健郎(いづけんろう)さんの「アジアの聖地」の特集展示がありました。お名前も作品も初めての出会いです。プラチナ・プリントなのだそうでが白黒写真とは違う不可思議な感覚が呼び覚まされます。静寂、恐れ、邂逅、祈り、命の尊厳、悠久の時間空間、一瞬、などなど言葉を越えた世界です。

大日如来様に会えるだけでも嬉しい場所となりそうです。ただ展示替えの休館日などもありますのでお確かめください。

半蔵門ミュージアム (hanzomonmuseum.jp)

追記: 『猿之助×壱太郎「二人を観る会」』。予定していなかったのですが出先から電話すると当日券ありなので寄り道しました。頭から足の土踏まずの丸みまで全身見えての素踊り鑑賞。歌舞伎舞踊の身体表現の深さ。壱太郎さんの進行が絶妙で途絶えることのないトークの楽しさ。芸の話がさらっと何気なく出て超納得。愉快な思い出話など爆笑多し。最後は打ち上げ花火のような『お祭り』。まさしく「二人を観る会」でした。

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追記2: 『猿之助×壱太郎「二人を観る会」』が開催された日本教育会館の1階ロビーに御神輿が飾られていました。休憩時間にゆっくり眺めさせてもらいましたが、清元『お祭り』にぴったりの偶然の出会いでした。御神輿のように歌舞伎座などとは異なるピカピカのおふたりでした。この雰囲気は他では観れないかもです。(笑)

化政文化の多様性

映画『HOKUSAI』(2021年・橋本一監督)を観ていると本当に化政時代の文化は庶民を歓喜させ多様さの花盛りであったとおもわされます。葛飾北斎さんを映画にすると様々な角度から描くことができ、さらに絵のその到達度と発想の変化球を追うだけでも観客はワクワクしてしまうとおもいます。

読み物、俳諧、川柳、錦絵、人形浄瑠璃、歌舞伎などそうそうたる創作者が輩出しています。そしてそこに観る側の庶民の熱気があったわけです。歌舞伎役者からファッションを取り入れたりもしました。もし当時の江戸の人が今の時代に飛び込んできたら、SMS!実際に観ないでどうするんだい、シャラクセイ!と言ったかもしれません。

映画『HOKUSAI』は、北斎さんが独自の<波>に到達し、80代半ばで弟子である高井鴻山を訪ね小布施に出かけ、祭り屋台に<波>を描くという<波>に力点を置いています。

同時代の人として、柳亭種彦を配置しました。種彦さんは武士であり、出筆に悩みますが最後まで自分の意思を通すということで悲惨な最期をとげます。実際には死因は不明のようです。

種彦さんが気になり『柳亭種彦』(伊狩章・著)を読み始めましたら、歌舞伎の中村仲蔵が斧定九郎のモデルにした人のことがでてきました。種彦さんは小普請組(こぶしんぐみ)に属していました。小普請組は泰平の世であれば、これといった仕事もなくすることがないので問題を起こす人もいたようです。

「小普請組の悪御家人、外村(とむら)大吉が、刃傷・窃盗の罪で斬罪になった話などその適例である。歌舞伎役者の中村仲蔵がこの外村のスタイルを忠臣蔵の定九郎の型にとりいれたことなど余りにも名高い。」とありました。

今月(24日まで)の文楽『義経千本桜』(伏見稲荷の段、道行初音旅、川連法眼館の段)を観て同じ演目でも歌舞伎との相違点から楽しませてもらいましたが、この定九郎も文楽と歌舞伎では全然違います。歌舞伎では「50両」だけの台詞ですが、文楽では定九郎は饒舌です。そして残忍で与一兵衛をなぶり殺しにするという憎くさが増す定九郎です。歌舞伎は役者がどう見せるかの工夫を常に意識することによって、変化してきたのでしょうが、あの文楽の早変わりの動きはいつからだったのでしょうか。

さて化政文化の中に鶴屋南北もいたわけです。この方も次から次へと当たり狂言を書いていきます。

桜姫東文章』はシネマ歌舞伎での印象が強く残りますが、南北さんの発想も奇抜です。ただ仇討ちやお家のためとなると、あの情欲におぼれているとおもわれた桜姫が、仇の血が流れる我が子を殺し、釣鐘権助(つりがねごんすけ)を殺すのですから、さらにその展開には驚きます。

葛飾のお十もお家のためとなれば喜んで桜姫の身代わりとなって女郎屋にいきます。とにかく仇討ちやお家のためならば、女性が身を売ることは美徳なわけです。当時はそうであったのでしょうが、今観ると何か南北さんの皮肉にもとれてきます。

自分から情欲におぼれていながら、最後は艱難困苦のはて目出度くお家再興を果たした桜姫というのが観ていて清き正しき桜姫の復活だと思えて可笑しかったです。桜姫は因縁を自らの手で封印してしまったのですから自立したお姫様ともいえます。

ただこれも役者で見せる演目だなあと改めておもわされます。仁左衛門さんと玉三郎さんという役者を得ての演目ともいえるのです。ただ時間が経てば新たな役者ぶりの演目となって化けることはあるでしょう。

そして仇討ちに違う見方を加えたのが明治、大正の『研辰の討たれ』で、現代によみがえらせたのが、『野田版研辰の討たれ』でしょう。

さて今上演中(23日まで)の南北さんの前進座『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)ーお六と願哲ー』のほうは、ドロドロとはしていません。亡霊もでてきません。

お六は見世物の蛇遣いの女性で悪婆ものと言われる役どころです。お六といえば、『お染七役』の土手のお六が浮かびます。蛇遣いお六は男勝りで、気の利かない亭主の義弟のためならと一肌ぬぐのです。そのことが回りまわって犠牲となった人のために自らの手で決着をつけるという、言ってみれば格好いい女性でもあるわけです。邪悪な女に見せておいて心根はそうではなかったのだと落ちがつくわけです。

この辺りは『東海道四谷怪談』のお岩さんの亡霊になって恨みを晴らすという設定とは違うところでもあります。こういうところも南北さんの多様な発想の面白いところです。

五世國太郎さんは、悪婆の國太郎と言われた役者さんで、今回は五世國太郎さんの三十三回忌追善公演でもあり、六代目國太郎さんがお六を演じられるのです。筋書によりますと、女形不要論の時期があり、五代目國太郎さんも不遇の時代があったようです。そして万難を排しての悪婆役への到達だったようです。

南北さんですから実はこういうことでしたという人間関係となりますが、途中で口上も入り、聴きやすい口跡で分かりやすく、その後の展開に参考になりました。的確な入れ方でした。

ここから物語に集中でき、國太郎さんの演技も光ってきたように思えます。お六がひるがえす裾の裏の模様が撫子で粋でした。

人間関係は次のようになります。

南北さんにしてはそれほど難解な人間関係ではありませんが釣鐘の苗字も使われています。そのほかにもあるのかもしれません。國太郎さんはお六と八ツ橋との二役で、おとしいれる側とおとしいれられる側の両方を受け持たれるわけです。

劇中では二人の次郎左衛門の名前がやはり重なるように仕組まれていて、南北さんの使う手だなとおもわせてくれます。さて佐野次郎左衛門(芳三郎)と八ツ橋(國太郎)の運命はいかに。このあたりの見どころも当然盛り込まれています。そしてお六(國太郎)と願哲(矢之輔)の関係はその後はどうなるのでしょうか。下手な口上よりも観てのお楽しみ。

南北さん、江戸庶民に親しまれていた場所を登場させます。風景は違っても今でも名前が残っている場所が多々あります。

最期の<日本堤の場>の舞台背景も、当時はこんな感じで見渡せる風景だったのであろうと思いつつ眺めていました。そしてここで立ち回りも入ります。

芝居の会話の中で三河島のお不動さんが出てきまして、今もあるのかなと思いましたら、前進座公式サイトの  劇団前進座 公式サイト (zenshinza.com)  「ふかぼり芝居高座」<ふかぼり番外 南北カンレキ>で現在の荒川区三峰神社の袈裟塚耳無不動であることを教えてくれました。三河島。南千住の隣駅です。いやはや呼ばれていますかね。

三峰神社 袈裟塚(けさづか)の耳無不動/荒川区公式サイト (city.arakawa.tokyo.jp)

山東京伝の黄色本にも書かれたようで、山東京伝さんも化政文化時代のお仲間です。

筋書に杵屋勝彦さんが中村義裕さんと対談していまして、杵屋勝彦さんは昨年「すみだリバーサイドホールギャラリー」で『2021年度第41回 伝統文化ポーラ賞受賞者記念展』での受賞者の方だと気がつきました。前進座と縁の深い方で、今回のお芝居でも邦楽での唄にお名前があります。これから観劇の方は音楽にもご注意ください。

ロビーでは「五世河原崎國太郎展」のコーナーもあります。

化政文化は庶民が参加してワイワイ楽しんで作り上げたもので興味がつきません。それにしても発信者側のそうそうたる方々の人数のなんと多いことでしょうか。

追記: 歌舞伎『ぢいさんばあさん』の原作、森鴎外さんの『ぢいさんばあさん』を読んだところ、引っ越してきた老夫婦の様子を周囲の人々が見て噂話をするような感じで書かれはじめています。甥っ子夫婦も出てきません。老夫婦は朝早くから出かけることがあり、それは亡くなった息子さんのお墓詣りに行くのです。赤坂黒鍬谷(くろくわだに)にある松泉寺です。このお寺赤坂一ツ木から渋谷に移転し今もあるようです。この老夫婦はわけあって37年ぶりに再会しますが、再会したのが文化6年でした。文化文政の化政文化時代に突入したときでした。ただそれだけのことですがインプットされました。

追記2: 志の輔さんの創作落語「 伊能忠敬 物語―大河への道―」が映画化された『大河への道』がいよいよ公開されます。伊能忠敬さんが隠居して自分の好きな道を突き進み歩き続けるのが化政文化の時代です。またお仲間がふえました。

追記3: 『名作歌舞伎全集 第二十二巻』に『杜若艶色染』が載っていまして(土手のお六)となっていました。「蛇遣いの土手のお六」ということになりますか。舞台を観ていたので読んでいてこの人はこうでとか浮かびますが、文字を立体的な動きのある舞台にするということは大変な作業だと改めて思いました。さらにどう役作りをし、それが観客にどう伝わるか。観ている側でよかった。

追記4: 映画『大河への道』(中西健二監督)期待以上でした。立体を平面にする作業。現代と江戸時代の二役のキャラの相違。笑わせて泣かせて。脚本家の加藤先生の執筆に対するこだわりが素敵です。忠敬(ちゅうけい)さんが出てこないのに忠敬さんがそこにいます。将軍に大地図を見せる場面、CGでも目にできてよかった。

映画『湖の琴』からよみがえる旅(2)

京都から湖西線で近江塩津まで行き、北陸本線に乗り換えて、米原で東海道線に乗り換えるという旅を計画したことがあります。当然、高月が入ります。途中、近江今津と余呉に寄ることにしました。

近江今津の観光案内で観光スポットを地図に書き込んで教えてもらいました。水色丸が琵琶湖周航の歌記念碑。青丸が琵琶湖周航の資料館。黄色丸はヴォーリズ通りと称して、アメリカ人のヴォーリズが近江八幡へ英語教師として来日し、その後キリスト教布教と社会福祉事業のために建設設計事務所を開き、洋館を設計します。今津ヴォーリズ資料館日本基督教団今津教会旧今津郵便局と並んでいます。赤丸は江若(こうじゃく)鉄道駅跡

琵琶湖周航の歌碑の形は今津の地形をかたどっています。赤御影石の歌碑には歌詞1番から6番まで刻まれています。琵琶湖には歌碑が、今津、竹生島、長浜、彦根、近江八幡、大津、近江舞子にもあります。

ヴォーリズ通り今津ヴォーリズ資料館日本基督教団今津教会旧今津郵便局

ヴォーリズ建築は近江八幡に行ったとき知りましたが、やはり近江八幡が一番多いです。当時、アメリカで開発されたメンソレータム(今のメンターム)の輸入販売も開始し、設計の収入とで売り上げ収益もよかったようですが、全て社会事業などに使われました。近江の人はヴォーリズを「近江の百万損者(そんじゃ)」とあだ名しました。

日本人女性と結婚し日本国籍を取得しましたが、太平洋戦争では苦難の時期だったようです。

江若鉄道近江今津駅跡。浜大津駅から近江今津駅まで走っていた鉄道でその後、湖西線に変わります。この三角屋根で親しまれた駅舎跡の建物も惜しまれつつ昨年解体されました。

次は余呉駅で途中下車。余呉湖に行ったときには気にもとめませんでしたが、左側の黄色丸が西山大音です。ピンク丸が天女の衣掛柳。現在地に余呉湖観光館。案内板も賤ヶ岳周辺での秀吉と勝家のそれぞれの陣地を示す案内でした。

余呉湖に伝わるいくつかの「天女羽衣伝説」の内の一つ。天から舞い降りた天女と村人との間に生まれた男の子が、後の菅原道真公で幼少期の道真公が預けられたと伝わる菅山寺があります。

小説『湖の琴』では、『湖北風土記』から紹介しています。余呉湖の畔に桐畑太夫という長者がいて柳に掛かる天女の衣を見つけてこれを隠します。桐畑太夫は天女を連れて帰り、天女は泣く泣く嫁となり二人の子ができました。ある時、天女は子守女の唄から隠されていた衣を見つけ天に帰ってしまいます。母の居なくなった子供たちは、夜な夜な湖畔の石の上にたたずみ泣きました。菅山寺の老僧が二人を寺に連れ帰り一人はなくなってしまいますが、もう一人は後に学者となりました。それが菅原道真公です。

子供たちが立って泣いた石は、「夜泣き石」として残っています。映画でも喜太夫が自分の解釈でさくに説明しています。

余呉湖の役目の説明板がありました。

人がいなくて本当にひっそりとした余呉湖でした。余呉湖観光館の食堂がお休みで空腹のためなおさら寂しさを感じる風景でした。

いよいよ十一面観音の高月へ。

文学碑。「慈眼 秋風 湖北の寺 井上靖書」。この十一面観音のことは井上靖さんの小説『星と祭』に出てくるのです。

星と祭』読もうとおもい図書館から借りましたが、知床での船の事故と重なるようでつらい話となります。

映画『湖の琴』に誘われてのかつての旅の反芻はこの辺でお開きとします。まだまだ途中下車して楽しめる場所がありそうです。近江の白髭神社もよさそうです。

追記: 国立劇場大劇場で前進座『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)ーお六と願哲ー』鑑賞。鶴屋南北さんのまぜこぜはやはり面白し。八ツ橋花魁に佐野次郎左衛門とくれば、『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』となりますが、この芝居ではお六と破戒坊主の願哲が主導権をにぎり、佐野次郎左衛門は浪人中の侍の設定です。名刀の「籠釣瓶」も登場し、さらにもう一刀「濡れ衣」が登場。複雑そうですが、國太郎さんの早変わりを楽しみながら、わかりやすいお芝居となっていました。

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四国こんぴら歌舞伎(2)

「こんぴら歌舞伎20回目の記念公演」について間違いがありましたので、そのことは<追記:5>で訂正しました。→ 2022年3月9日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

テレビ録画の静止画面からですのではっきりしませんが、宙乗りの雰囲気だけ感じ取っていただければ。

金丸座は江戸時代の芝居小屋ですので、江戸時代は自然光を取り入れての舞台となります。そのため暗くするときは1、2階の雨戸が閉められるわけです。そうすると小屋は真っ暗闇となり、殺された清玄が亡霊となって現れると、キャーとの悲鳴とともに笑い声が起こります。

今は照明も使っていますが、初回は照明を落としてなるべく自然光を利用して上演されました。吉右衛門さんは、江戸時代に書かれた舞台や役者さんの様子や教えがやっと納得できたと語られていました。

再桜遇清水』は<桜にまよふ破戒清玄>とありますから、破戒僧・清玄のはなしなわけです。そのため清玄が桜姫の美しさに次第にのめり込んでいく場面ではお客さんはゲラゲラ笑っていまして映像を見ていましたら楽しそうです。

実際に観劇した私は、雨戸の閉まるのが楽しみで裏方さんの仕事ぶりに注目し、真っ暗闇になるのを体験でき、舞台から客席側に飛び出している「からいど」の使用も観ることができました。これは川に落とされたり、死体が投げ込まれたりというときに使われ、井戸のように小さいのです。

口上の時には枝垂桜の襖がバックで小屋に映えました。舞台と花道に挟まれているピンクの丸の場所が「からいど」です。

再桜遇清水』では時代が鎌倉で場所も鎌倉です。録画を観ていて、桜姫が北条時政の娘となっていたのですぐ『鎌倉殿の13人』が浮かんでしまいました。鎌倉の新清水寺で頼朝の厄除けの御剣奉納があるのです。その寺の僧が清玄です。最初の場面は歌舞伎『新薄雪物語』と重なります。

初演時は吉右衛門さんが二役で活躍したようですが、再演ということで皆さんが活躍される舞台に作り変えています。桜姫と清玄(きよはる)の逢引の手はずをする浪路(東蔵)や奴の浪平(現・、又五郎)、奴の磯平(現・松江)などです。

吉右衛門さんは、金丸座という江戸時代の芝居小屋で歌舞伎ができることに対して、イベントであってはならない、江戸時代の歌舞伎を考証できる機会を生かし、伝統芸能を守るのだという想いにあふれていました。

さて「清玄桜姫もの」でもう一つ観劇していたのが、2013年(平成25年)に国立劇場で公演された通称「女清玄」の『隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)』です。若手を引っ張っての福助さんの清玄尼でした。

これがあったので、「こんぴら歌舞伎」をもう一度考え、「清玄桜姫もの」をもう少し再考したくなったのです。

隅田川花御所染~女清玄~』は四世鶴屋北南作品ですからかなり入り組んでいて場所も移動し盛りだくさんでドロドロした場面もある芝居となっています。平家再興の話ともからまっていますが、入間家の二人の姉妹の話とし、特に長女・花子が中心と考えたほうがよさそうです。

花子は許婚の吉田松若丸を慕っていますが、松若丸は行方知れずで亡くなったとのことで出家して清玄尼となります。妹の桜姫にも許婚・大友常陸之助頼国がいますが、頼国は殺され、松若丸が頼国に成り代わります。それがわかった時、清玄尼は複雑な心情となります。

局岩藤という名前がありますが、草履が浮かびます。恋路の闇に迷うという金剛草履を清玄尼にはかせるのです。その手下が惣太です。岩藤の兄が平内左衛門で平家の残党です。惣太は松若丸の梅若丸を殺していて、清玄尼にもひかれているのです。

「鏡山」や「隅田川もの」などがかぶさってきているのです。清玄尼は惣太に殺されますが、もちろん亡霊となって現れます。そして桜姫の前で松若丸となってあらわれ、二人松若丸となります。二人の野分姫が浮かびます。

最期は、荒事のいでたちの粟津六郎によって清玄尼の迷いは打ち消されてしまうのです。

舞台としては、複雑さと、鶴屋南北の作品を演じるにはまだ役者さんが若かったという印象でした。いつの日か再挑戦していただきたいものです。

登場する場面や、セリフに出てくる地名が豊富で、経路の地図などを作って散策したくなります。汐入とか橋場などは、「千住汐入大橋」や「橋場の渡し」を思い浮かべます。

「清玄桜姫もの」としては『桜姫東文章』がなんといっても人気です。シネマ歌舞伎で上映中ですので一度は目にしておくことをお勧めします。

追記: こんぴら歌舞伎の22回(2006年)の一部演目もテレビで放送されていました。この公演も小屋の機能を上手く使い芝居を面白くしていました。放送された演目は、『浮世柄比翼稲妻』(「鞘当」あり)、『色彩間苅豆ーかさねー』です。これまた鶴屋北南の作品で、長い物語の一部分が復活されて上演されるようになったものです。恨みよりも人の想いが叶わぬ大きな力のなかで儚く散っていく感じで、これも小さな小屋だからこその浮かび上がる哀惜でしょうか。

追記2: 『浮世柄比翼稲妻』。名古屋山三(三津五郎)は下女・お国(現・猿之助)と雨漏りする長屋に住んでいます。山三宅へ傾城・葛城(現・猿之助)一行が訪ねてきます。貧乏長屋と花魁の豪華さがよく映えます。お国は顔にあざがあり山三への想いをおさえながらも山三の濡れ燕の着物を質から受けだしたりとけなげです。勝手な山三だなあと思わせつつ、色男ぶりを貫く三津五郎さん。三津五郎さんと猿之助さんの共演はもっと観たかったと思わされました。

追記3: 『鞘当』では天井から桜の花びらがまかれお客様は大喜び。狭い中に二本の花道。大きな劇場では味わえない役者さんの近さ。三津五郎さんの衣装の下の身体の細やかな動きが透けて見えるようでいて見せない技。それに対する海老蔵さん(不破伴左衛門)の荒々しさ。留女が亀治郎さんで女見得。これぞ吉原仲之町。

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追記4: 『かさね』。江戸時代は花道と舞台前面に並んだであろうローソクのあかりも今は電気ですが、ローソクの炎のゆらぎをあらわすこともできます。暗さとほのかな明かりが与右衛門(海老蔵)とかさね(現・猿之助)を儚い美しさで映し出します。これまた金丸座ならではの『かさね』です。かつてはとんぼを切る方も小屋ごとに専門がいたそうで、その技は高度であったようです。

歌舞伎座4月『天一坊大岡政談』

天一坊大岡政談』は河竹黙阿弥作で、初世神田伯山の人気講談をもとにして明治8年(1875年)に新富座で初演されたといいます。歌舞伎も明治の文明開化の波は当然受けているわけで、今回の芝居では明治という時代が意識され、それと現在の新型コロナの現状とも重なって感じられるものがありました。

神仏分離による素戔嗚神社。そこに仏師が神輿屋となって初めて納められた御神輿。明治という時代があっての大きなかわりようです。芝居に対しても明治政府が推奨したのは勧善懲悪もの。黙阿弥さんはそうした中でも大衆のほうに寄り添って人気講談を取り入れるという歌舞伎戯作者としての何かがあったように思えるのです。感じるだけで説明はできませんが。

そんなこんなとおもい巡らしていますと、御神輿と『天一坊大岡政談』のことがつながってきたのです。

神輿はそれぞれの職人さんが作るパーツの組み合わせです。この組み合わせの寸法が違っていては出来上がりません。今回の『天一坊大岡政談』は御神輿に似ているなと思えたのです。通し狂言と言えども短縮しています。そしてセリフ劇で派手さはありません。登場時間の短い役者さんもいます。その短さの中で、今までの技をしっかりはめ込んでいってくれました。それがさすがでした。

寺の小坊主が、自分と同じ誕生日の子で亡くなってはいるが八代将軍吉宗のご落胤(らくいん)であるという話を聞かされます。自分とのあまりの違いにふっと虚しさからか心の中の闇を見てしまいます。その闇を思わず握ってしまうのです。その子に入れ替わろう。

偽りを偽りでなくするためには次々人を殺め、だまし、落とし入れていかなくてはなりません。歯車が回りだしたら回り続けなければなりません。その歯車を面白いと一緒に回してくれる人も現れます。

しかし、何かおかしい。これを命を投げ出しても止めねばならぬという人も現れます。正義の人です。悪が勝つか善が勝つかこれいかに。講談らしい引っ張りどころです。

悪は天一坊(猿之助)。善は大岡越前守(松緑)。天一坊側には山内伊賀亮(愛之助)という軍師がついています。この三人の組み合わせに対し、さらにどんどん役者さんたちが物語を組み立てて行ってくれるのです。その演技が確かでその場その場の雰囲気をどんどん生かしてくれるのです。

小坊主・法澤を村から送り出す人の好い村人たち。法澤の悪事など全く知りません。

かつて「客はおれをみにくるのだから、、、」といった役者さんもいたようですが、今はそういう時代ではないのかもしれないと思わされます。役者さんたちの意識も変わってきています。この芝居を面白くするためにはどうしたらよいかという一人一人の意識が組み合わさっていくのがわかるのです。

また劇中主人公である役者さんが登場する役者に「やっとましな役者がでてきてくれた」言ったとかというような話もあります。これは自分の芝居の見せどころを上手くみせていけるかどうかということなのでしょう。

たしかに観ていて雰囲気を壊してくれるなという方も時にはあります。セリフ劇なのに今回はそれがありませんでした。

自分はどこのパーツを組み立てればいいのかを心してのぞんでいるようにみえました。世話物に近い化粧なので一人一人の役者さんが誰であるかがわかりなるほどと楽しませてもらいました。

今の歌舞伎界の中堅どころと若手は一体になってこの時期を乗り越えなければならないという生き込みを感じられました。

どんどん悪にはまって面白いぐらいだまされていく周囲に快感を覚えていく天一坊。その大胆な性格に自分の話術をもってやってやろうじゃないかの山内伊賀亮。そしてその仲間たち。

いったんは伊賀亮の論法に屈するも、天一坊を将軍と会わせるわけにはいかないと天一坊の空白の時期を埋めるべき証拠固めに乗り出す大岡越前守。そしてその知らせを待つ部下たち。

左近さんには泣かされました。大岡越前の家族が死をかける場面です。左近さんは芝居の場面状況をとらえる力があるように思えます。そしてその雰囲気に自分を置くことができるのです。近頃の様子からそう感じました。

皆さん立ち居振る舞いが身にそなわっています。

そして、大岡越前守は長袴を格好よくさばき、気持ちよく善が勝つのです。ここまでだまし通してこられたことに満足ともおもえるふてぶてしい表情の天一坊。浮世絵の大首の絵のようです。江戸の世界です。山内伊賀亮がどうなるかは歌舞伎座でご確認ください。

明治11年新富座が西洋建築の劇場となり、明治政府高官を招いての開場となります。そうした流れの中で黙阿弥さんはその後、悪をも描き、庶民の好みに寄り添った立場を貫かれたと思っています。

そして歌舞伎も制限されている今だからこそ若い芽がどんどん力をつけ神輿を担ぐ人々が増え、観客がそれを心置きなく楽しめる状況になることを願うばかりです。

もちろん本物の御神輿もです。

追記: 天一坊の身元調査に出かけた人物がなかなか戻ってこず、ヤキモキする大岡の家来が柱に寄り、花道奥をのぞき込みます。え!もしかして柱に絡みつくんですか。柱巻の見得にいっちゃうんですか。その時は緊迫感が漂っているので何ともなかったのですが、今思い返すとその部分だけアップになってクスッとしてしまいます。デフォルメご苦労さまでした。思いもかけないことが起こるから面白いのです。舞台上でわね。

追記2: 歌舞伎オンデマンドを久しぶりにのぞくと、平成24年4月の新橋演舞場での『仮名手本忠臣蔵 5段目、6段目』が配信されていました。観ていない配役の組み合わせです。6段目が上方の型でした。じっくり観れて東京の型との違いがよくわかりました。映像であっても話で聞くだけより納得がいきます。

追記3: 大河『鎌倉殿の13人』(15回)の驚くべき展開に新作歌舞伎『頼朝の死』が観返したくなり昭和49年(1974年)5月歌舞伎座の録画を鑑賞。見事な深き心理を表すセリフ劇。頼朝の死の秘密と頼家(現梅玉)の苦悩。尼御台政子(六代目歌右衛門)の貫禄。大江広元(二代目鴈治郎)。畠山重忠の息子・重保(二代目吉右衛門)。小周防(現魁春)。中野五郎能成(二代目小太夫)。小笠原弥太郎(現歌六)。高い道標の一つです。

追記4: 『鎌倉殿の13人』(16回)ではついに木曽義仲も滅ぼされてしまいました。興味があれば下記の場所へどうぞ。 ↓

木曽義仲の生誕地 埼玉県嵐山町 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記5: 国立劇場(2018年)での『名高大岡越前裁(なもたかしおおおかさばき)』の台本を購入していました。このところ色々出てきてくれて再考できて楽しめます。

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感想はこちらで  →  2018年11月17日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

歌舞伎座3月『新・三国志 関羽篇』(2)

アニメ『三国志 三部作』を観て、あらすじは把握しておきました。劉備が戦いのためにほんろうされる民を苦しさから救うにはどうしたらよいかと考えます。戦さを終わらせ民が安心して住める国を作ることだと思いいたるのです。同じ志を抱く関羽と張飛に巡り合い、義兄弟となり、生まれた日は違うが、同じ年、同じ月、同じ日に共に死のうと桃の木の下で誓います。

諸葛孔明という軍師が、魏は曹操、呉は孫権、蜀を劉備が治めて均衡を保つのが好いといいます。その足がかりとなったのが荊州でした。戦いの間には関羽が曹操に捕えられます。曹操は関羽を気に入り自分のもとに置きたいし殺したくないとおもっていました。関羽は手柄をたてたら劉備のところに戻るという条件を出しました。受けいれられます。関羽は命を惜しんだのではなく、劉備と張飛との同じ時に亡くなるという約束をまもりたかったのです。

関羽は曹操の許可を得ず黙って去ります。

このことによって、後に曹操が窮地におちいり、関羽が曹操の命を奪える時、関羽は曹操を逃がすことになるのです。

ただ戦さが進んでいけばいくほど観ている方はむなしくなっていくのです。劉備も関羽も張飛も民のために戦っているはずなのに、それぞれの国のおもわくは裏切りや策略や領土を広げる暗躍が入り混じるのです。猿翁さんはおそらくこの虚しさを違う方向に持っていけないかと考えられたのではないでしょうか。戦さの無い世界への夢を劉備を女性にして託すということによって展開させられたのでしょう。そんな風におもえました。

スーパー歌舞伎の時は『三国志』の流れを知りませんで、そのスペクタクルな舞台に圧倒されてそこで止まっていました。劉備が女であるということが話題でもあったようですが、ロマンス物語にしたのかなという感覚でした。

今回は『三国志』そのままでいったら虚しさか英雄を讃えて終わりになったかもしれないと納得できました。

新・三国志』では、劉備の民の国のためにの夢をともに共有する証として関羽は荊州にとり残された民と引き換えに自分の身を投じるのです。

三国の衣装を色分けして、それぞれの国内での話の時には上手に国の名前を映し出し、わかりやすくしていました。は赤の衣装、は紫色の衣装、は青の衣装。衣装が豪華ですからその国の色に染まり、対峙するときにも鮮やかに区分けされましたので、心置きなく台詞を堪能できました。

主な登場人物は、が関羽、劉備、張飛、軍師・孔明、養子・関平(團子)、黄忠(石橋正次)。が曹操(浅野和之)、軍師・司馬懿(笑三郎)、医師・華陀(寿猿)、が孫権(福之助)、義母・呉国太(門之助)、妹・香渓(尾上右近)、軍師・陸遜(猿弥)です。

劉備は実は玉蘭という女性で、笑也さんは、女形でありさらに男性に成り代わるという難しい役どころですが、境目がなく劉備になったり玉蘭になったりされていました。劉備、関羽、張飛との「桃園の誓い」で、三人が並びよい形になるとき真ん中で短い右袖をくるくると回してきっとして坐るところは決まっていて、思わず玉蘭も垣間見えたようにおもわせられました。

張飛は特に関羽を兄貴と呼び慕っていて一本気であるが憎めないところのある人物です。その可笑しみを中車さんは呉の香渓の右近さんと一戦交えたり、呉の軍師・陸遜の猿弥さんが劉備は女ではないかと疑って張飛に探りを入れるときなど、事実を隠そうとする様子が緊張感を解きほぐして可笑しみに変えられていました。

中車さんは、最初に天下争いの時代の説明を、役者さんの動きに活弁士のように解説する役もありまして、弁舌さわやかにやられていました。役者さんのパントマイムが笑わせてくれました。

曹操は関羽の男気が気に入っていて、それを甘いと思っているのが軍師・司馬懿です。曹操の浅野和之はもうおなじみで、関羽の猿之助さんとのやりとりにもそれぞれの想いを伝えあうセリフに息があっています。そこへ水を差すのが笑三郎さんの軍師・司馬懿。悪役に近いのですが怪しさの雰囲気をもかもし出し、『ナルト』のオロチマル以来の変身ぶりでした。これを押さえるだけの貫禄が体の細い浅野さんの曹操にはありました。

曹操は病気を患っていて、医師・華陀の寿猿さんにいつまでの命かと尋ねると寿猿さんは一年と答えます。情報が漏れてはいけないと、曹操は医師を殺してしまします。寿猿さん刺されて階段を上っていきます。大丈夫かなどう倒れるのであろうかと思っていましたら、ふわっと倒れられました。その倒れ方が綺麗だったのには驚きました。それに負けじと黄忠の石橋正次さんも意気盛んな老武将でした。

呉の国の孫権の福之助さんがさっそうと威厳もある若きリーダーとして舞台を大きくしました。堂々とした義母の門之助さんの呉国太は、そんな息子のため、呉を揺るぎない国とするため、香渓を劉備のもとに嫁がせることに賛成します。ところが後に娘は思いがけずその命を絶ってしまい深い悲しみを表します。

誇りだけは捨てずに劉備に嫁いだ香渓の右近さんは気の強さを表しつつも動きは優美で、さらに劉備の夢を共有したあとの真実を隠しつつの変化もよかったです。このあたりの笑也さんと右近さんの女形としては難易度の高い部分であり、女形の魅力を大いに伝えてくれました。

関羽の養子である関平の團子さんはは凛々しい姿をみせてくれました。セリフが気に入りました。勇ましいセリフだと「何々だ」で力強くおさめればいいのでしょうが、関羽が死を覚悟である状況に対する気持ちを表すため、語尾が静かに細くなっていき、それでいながらその音がきちんと歌舞伎座に広がりました。かなり研究されたのではないでしょうか。

そして、軍師・孔明の青虎さんの「天下三分の計」に始まり、それぞれの軍師の重要な役割のポイントが押さえられていて国というものをしらしめていました。

関羽は関平や部下たちとの最後の別れに好きな女性の名前を打ち明け合います。関羽は玉蘭の名前をあげます。だれも知らない名前です。そして最後はにぎやかに笑いとなりますが、次第に関羽の猿之助さんの泣き笑いの声が響き渡ります。歌舞伎独特の笑いです。そうした古典の手法も入れつつ『新・三国志』は展開されました。

少ない立廻りの動きもよかったです。他の武将たちもセリフは少ないですが歌舞伎の言い回しが身についていますので場を押さえてくれます。

関羽篇だけあって曹操にも玉蘭にも張飛にも関平にも部下たちにも愛されるという一人勝ちの感もある魅力的な猿之助さんの関羽でした。

この後にあのスペクタクルなスーパー歌舞伎『新・三国志』を観れたなら深い意味とわくわく感が相まって魅了されるであろうと夢見る次第です。

追記: 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(13回)に大笑い。テレビドラマ『風雲児たち〜蘭学革命(れぼりゅうし)篇〜』で愛之助さんの前野良沢の真面目さに無事対応した杉田玄白の新納慎也さん、今度は阿野全成の隣に猿之助さんの得体のしれない文覚が居座りました。笑うしかないです。そして木曽義仲の息子・義高の染五郎さんが美しく登場。これからの悲劇性にはまりすぎです。悲喜劇満さいです。

歌舞伎座3月『新・三国志 関羽篇』(1)

歌舞伎『新・三国志 項羽篇』のポスターが気に入りどうしようかなと思っていましたらクリアファイルがありましたので一応手元とに置いておくことにしました。皆さん一人一人の気力みなぎる充実感と緊張感が広がり、千穐楽で解放感があるのかなとおもいましたらそんな気分のゆるみなど無い舞台でした。

『三国志』は壮大な物語ですが、条件が制限されるためセリフ劇となりましたが、それがかえって何十年後かの再演ということによって役者さんたちにとって新たな挑戦の場となったのではないでしょうか。

スーパー歌舞伎『新・三国志』は、新橋演舞場での1999年と2000年の上演の時、両方見たのかどうか記憶にないのです。中国の京劇俳優さんも参加しての立廻り、大掛かりな戦いの舞台装置、本水の使用、音楽は加藤和彦さんによる全面的洋楽の使用と、そして関羽の宙乗りと、あれよあれよの驚きと感動の舞台でした。衣装がまたすごかったですしね。今回音楽を耳にしてもこれだったという感覚がないのです。今回改めて細やかに変化にとんだ入れ方をしているなと思いました。

今回のほうが舞台装置の簡略化とかもあり目よりも耳が敏感になっていて、さらに一人一人の役どころにも冷静に目が行きました。

その中の二点だけ感想を記します。よき軍師を求めて、関羽(猿之助)と劉備(笑也)と張飛(中車)が諸葛孔明(青虎)の住まいを訪ねます。舞台の背景が竹でした。竹に虎。憎いですね。市川弘太郎さん改め二代目市川青虎さんの襲名にふさわしい舞台装置でした。家の中も竹の棚。背景の何本も伸びる太い竹を見たとき、竹の間から姿をあらわしている大きな青い虎の絵を勝手に描いていました。想像の絵ですから格好いい虎が描けました。

関羽が孔明に向かって「青い虎となって駆け巡ろう」というようなことを言うのです。この場面は忘れないでしょう。襲名の口上はどれがどれだかわからなくなりますが、これは記憶に残ります。上手くはめ込まれましたね。これを考えた人こそカブキモノの軍師かも。それにしてもおめでたいことです。

もう一つは宙乗りですが、舞台の背景がこれまた美しいのです。飛び立つ関羽の姿と舞台の桃の咲き誇る風景をかわるがわる眺めて合成して楽しませてもらいました。ただ桃の花びらが大量に舞い散りますので、実際の背景となるお客様が邪魔にはなりませんでした。白い衣装のマントを翻して消えていく関羽の猿之助さん夢をまき散らして去りました。

その他のことは続きとしておきます。

追記 1999年のフライヤー。

2000年のフライヤー。

1999年と2000年のフライヤーがありましたが2000年のほうが折れ線があり、観劇の時持ち歩いたものとおもわれます。やはり観劇したのは2000年のほうでしょう。