浅草散策と映画(2)

  • 浅草伝法院の庭園公開がありやっと訪れられた。浅草公会堂での歌舞伎観劇の時、二階ロビーからみえる伝法院の門と木々を眺めつつ今度の公開日にはといつも思っていたのだが、公開日をキャッチするのが遅く気が付いたときには終わっていた。今回は3月16日~5月7日であったが、行けたのが5月に入ってからである。この庭園は小堀遠州の作庭である。大絵馬寺宝展もみることができる。この大絵馬の数が多い。浅草寺は250点ほどの大絵馬を所蔵していて今回は60点ほどである。大絵馬寺宝展を出ると、赤い垂木の列と五重塔とスカイツリーが見え、現代の錦絵である。池の水の出入り口を掃除しているかたに尋ねると池の水は地下水を循環させているとのこと。

 

  • 大絵馬の中で一つだけふれるとすれば、歌川国芳の『浅茅ヶ原の鬼婆』。浅草の花川戸あたりを昔、浅茅ヶ原と呼ばれていたとあり、伝説がある。浅茅ヶ原に老婆と若い娘の一軒の宿があり、他に宿は無く旅人はここへ泊るのであるが、老婆は鬼婆で泊った旅人を殺してしまうのである。ある日美しい稚児が泊り鬼婆はいつものように殺してしまうが、それは自分の娘であった。娘は稚児の身代わりとなり、旅人の稚児は観音菩薩であった。鬼婆は自分の行いを悔い、娘の亡骸を抱え龍となって池に消えた。上田秋成の『雨月物語』の「浅茅が宿」は、武蔵の国ではなかったし話も違うなと調べたら、『雨月物語』のほうは、下総の国葛飾郡真間の郷であった。あっ!南北さんの引き戻しだ。引き戻しは真間から柳島の妙見さま・法性寺へである。

 

  • 雨月物語』の「浅茅が宿」は、勝四郎という男が葛飾郡真間の郷に美しい妻を残し、足利絹を売るために京に出る。戦さなどもあり勝四郎は7年たってやっと真間に帰って来た。妻は待っていてくれた。しかし夜が明けてみると家は朽ち果て妻の姿はなかった。昔から住んでいた老人に尋ねると妻はすでに亡くなったいた。その老人はもっと大昔、この真間の里に手児奈という美しい娘が、多くの求婚を受けたが一人の身で多くの人の心は報いることはできないと浦曲(うらわ)の波に身を投げた話をしてくれる。妻のことと重ねて詠んだのが 「いにしへの真間の手児奈をかくばかり 恋てしあらん真間のてこなを」 である。弘法寺(ぐほうじ)に手児奈堂があり、境内の枝垂れ桜が伏姫桜の名がありたずねたことがあるが、「浅茅が宿」とつながるとは。これも何かのご利益か。

 

  • 四世鶴屋南北の墓所のある春慶寺から、中村仲蔵が新しい斧定九郎の工夫のために日参した柳島の妙見さま・法性寺へむかった。北十間川に沿って歩き十間橋へ。この橋から逆さスカイツリーがみえるらしいが確かめなかった。北十間川と横十間川のぶつかるところに法性寺がある。葛飾北斎も信仰していたので、その案内板が大きく掲げられている。ここも浮世絵にも紹介されていて広く信仰されていたことがわかる。妙見堂(開運北辰妙見大菩薩)を参拝してから、北斎の浮世絵などがあるギャラリーへ寺務所からあがらせていただき見させてもらう。そこに、このお寺を建立したのが、真間山弘法寺の日遄(にっせん)上人とありました。光る松があるということできてみたところ北極星から光が放ちご本尊が現れた(記憶怪しいです)というようなことでした。浅草から引き戻されるとは思わなかった。法性寺には、近松門左衛門の供養碑があり、これも破損していたのが見つけられ再建されている。初代歌川豊国筆塚(断片)もあり、碑文は豊国の基本資料となっているとある。歌川国芳は豊国の一門である。

 

  • 法性寺から横十間川に沿って亀戸天神に向かったが、途中で龍眼寺があり別名・萩寺とある。眼病に効くようで、七福神の一つでもあり、亀戸の七福神は一時間半ほどで回れそうで、友人に教えてあげよう。進んでいると横路地から鳥居が見え香取神社でありせっかくなので遠回りをしてしまったが寄り、途中に二代目豊国のお墓のある光明寺があった。そこから亀戸天神へ。藤まつりなのに藤は終わっており、一箇所の藤棚だけ咲き残っていてくれたのが幸いである。猿まわしの大道芸があり、愛嬌のあるお猿さんで、階段になった台の上をボールに乗って一段一段登ってさらに降りていた。凄い。猿真似なんて簡単にできるものではないということを知った。これで、もう引き戻されることはないでしょうが、北・横十間川の散策も静かで、船もよさそうである。さて浅草へ戻らねば。

 

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