伊能忠敬の歩いた道(4)

一之橋は、『鬼平犯科帳』では一ツ目之橋として登場するそうですが、まだ映像も本でも認識する物に触れていません。気にしていなかったので、どこで出会えるのか楽しみが増えました。

二之橋もありまして、鬼平ゆかりの軍鶏なべ屋「五鉄」はこの側という設定です。

この堅川には歌舞伎や落語にある塩原多助の炭屋があったのでその名にちなんだ塩原橋もあります。三津五郎さんの『塩原多助一代記』も好かったなあと思い出します。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3446-1024x576.jpg

赤穂事件に関しては、隅田観光協会でだしている下記の小冊子が大変参考になります。

中から少しお借りしますと下図では歌舞伎にもある『土屋主悦』の屋敷が吉良邸の隣に位置します。歌舞伎『松浦の太鼓』の松浦邸はどこだったのでしょうか。

引き上げルートも書かれています。かつて(2015年12月14日)夜に両国駅を出発し次の日早朝泉岳寺に着くという討ち入りルートを歩くイベントに参加しましたが、今はちょっと一気に歩けるかどうか自信ありません。休憩はファミレスでの軽食でした。

夜の江島杉山神社の前も歩いていました。思い出しました。境内に小さな岩屋があり入ったのです。周囲は暗くちょっとミステリアスで昼間来てみたいと思ったのですが忘れていました。昼と夜ではイメージが変わるものですね。

隅田川の近くに戻りますと三つ案内板がありました。

旧両国橋・広小路跡」。両国橋は明暦の大火の大災害から防災上の理由で幕府が架けた橋で、武蔵と下総の国を結ぶので両国橋と呼ばれ、この辺りに架かっていました。橋のたもとは火除け地として広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛け茶屋が並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねていました。

赤穂浪士休息の地」。赤穂浪士は討ち入り後、広小路で休息しました。一説には、応援に駆けつける上杉家の家臣を迎え撃つためとも言われています。休息後、大名の途上路である旧両国橋は渡らず、一之橋を渡り永代橋を経由して泉岳寺へと引き上げました。

石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)」。石尊とは神奈川県伊勢原市の大山のことで、大山詣り前に、水垢離場で体を清めました。旧両国橋の南際にあり、その賑わいは真夏の海水浴場のようだったとされています。

両国橋

夜の両国橋

下の写真は別の日の両国橋の写真です。奥に柳橋がみえます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0495-1024x576.jpg

下図も隅田観光協会で出されているものです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3461-2-729x1024.jpg

柳橋

ライトアップの夜の柳橋。河面が緑色になっています。

JR総武線の鉄道橋。

隅田川テラスの壁には様々な絵などが並んでいます。隅田川テラスギャラリーです。両国橋の初渡りの様子。国芳画。

百本杭。強い水勢を弱める護岸の役割として沢山の杭。特に両国橋より川上の左岸側に打たれた杭を「百本杭」と呼びました。芥川龍之介の作品『本所深川』、幸田露伴の随筆『水の東京』に百本杭の様子がでてくるようです。

道路下に何か案内があるので降りて観ましたら北斎さんの富岳三十六景の紹介でした。川浪の描き方がこれまた独特です。

蔵前橋を渡ります。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3464-2-1024x576.jpg

浅草御蔵跡。江戸幕府直轄地の全国から集められた年貢米や買い上げ米を収納していて、この米は、旗本、御家人の給米用に供され勘定奉行の支配下におかれていました。

楫取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)。江戸幕府が米倉造営用の石を船で運搬中に遭難しないようにと浅草御蔵内に稲荷社を創建したといいます。

ついに目的地、天文台跡です。「忠敬は全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。」

伊能忠敬さんは、ひたすら歩幅で距離を測って歩いたわけです。色々な人物や事件や物語があった道なのですが、忠敬さんにはそちらはあまり興味がなかったことでしょう。

伊能忠敬深川旧居跡から浅草天文台跡までのプチ旅はおしまいです。

追記: 山本周五郎さんの『柳橋物語』を読みました。赤穂浪士事件の時代で、地震、火災、水害が次々と襲い、そんな中で、主人公のおせんの過酷な人生。心も病み、これでもかという展開ですが、ラストは清々しい。柳橋は庶民の要望で架かった橋でした。市井の人々の生活が風景も含めてつぶさに描かれています。千住の野菜市場もでてきました。遅まきながら山本周五郎ワールドにはまりそうです。

追記2: 幸田露伴『水の東京』より 「百本杭は渡船場の下にて本所側の岸の川中に張り出てたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして百本杭の辺はまた特に深し。ここに鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。」

追記3: 芥川龍之介『本所両国』より 「僕は昔の両国橋に ー 狭い木造の両国橋にいまだに愛情を感じている。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかゝっていた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めたりした。」

追記4: 十八代目勘三郎さんの『勘九郎ぶらり旅』では、両国橋を渡っています。『三人吉三』で三人が出会うのが百本杭のある場所で、お嬢吉三は杭に片足かけてセリフをいうのを紹介しています。すべて舞台からのインスピレーションで場所を見つけ出していくのです。百本杭につかまって助かったのが『十六夜清心』の清心。柳橋では、『瞼の母』の番場の忠太郎の母・お熊の料理屋が柳橋。柳橋芸者といえば『お祭佐七』の主人公お糸という具合でセリフも出てくるのです。

伊能忠敬の歩いた道(3)

萬年橋を渡り隅田川テラスにおります。次の新大橋

その前に芭蕉庵史跡展望庭園へ上がっていきます。開園時間があって以前に来たときは閉まっていたのです。

芭蕉さんの座像は、午後5時前は川上をみていて、5時過ぎると清州橋の方向をみるという回転式なのだそうです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3425-2-1024x576.jpg

間隔をあけて描かれている北斎さんの「深川万年橋下」。富士山が小さく姿をあらわしています。

下におりますと観光高札がありました。「赤穂浪士ゆかりの道」。赤穂浪士が本所の吉良邸を引き上げ泉岳寺に向かうのと反対に私は進んでいますのであしからず。

説明を簡略化しますと、本所吉良邸から堅川の一之橋を渡り隅田川沿いの道を南下し、小名木川の萬年橋、佐賀町あたりの上之橋中之橋下之橋を渡って永代橋のふもとでひと息入れたと伝えられています。この道は、時代が武断政治から文治に移りかわろうとした元禄時代の出来事がしのばれる道です。

一之橋は後で出てきます。このあたりの隅田川沿いの道は赤穂浪士引き上げの道でもあるわけです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3424-1024x576.jpg

その隣に正木稲荷があります。由来の石碑から興味あるところを抜き書きします。

かつては征木稲荷であったが正木稲荷に改められた。江戸時代の古くからあり為永春水の「梅暦」の挿絵にも描かれている。江戸名所図会では、真先稲荷大明神となっている。昔征木の大木がありそれを社名とした。征木の葉が腫物にも効いたといわれ、蕎麦断ちをして祈願し、全快すると蕎麦を献じるという信仰があった。

隣には船番所があった。近くには芭蕉庵があって大正時代に東京府の「芭蕉翁古池の跡」として旧跡に指定されたが昭和56年に旧跡は芭蕉記念館に移転された。

おできの神様とは、庶民の日常生活に根ざした信仰心です。

小説『橋ものがたり』の「約束」にでてきたのがこの稲荷神社とおもいます。五年後幸助はお蝶に会うため約束の萬年橋に向かい待つ間、稲荷社の境内に入ります。征木の大木のことは書かれてません。幸助のその時の幸福な期待感が好くあらわれています。

「幸助は境内の端まで歩き、大川の川水がきらきらと日を弾いているのを眺め、その上を滑るように動いて行く、舟の影を見送った。そこに石があったので腰をおろした。石は日に暖まっていて、腰をおろすと尻が暖かくなった。」

さてむかいに芭蕉稲荷神社があります。芭蕉庵史跡芭蕉稲荷神社とあります。

深川芭蕉庵旧地の由来。芭蕉さんは、門弟の杉山杉風に草庵を提供されここから全国の旅にでかけ「奥の細道」などの紀行文を残しました。芭蕉さんが亡くなった後は武家屋敷となりそれも焼失。大正6年津波のあとに芭蕉さんが愛好していた石造の蛙がみつかり、地元の人々が芭蕉稲荷を祀りました。さらに戦災のため荒廃していたのを地元の人々が再び尽力し復旧されたのです。しかし狭いため芭蕉記念館を建設しました。石の蛙もそちらのあります。

芭蕉庵跡の石碑の右手に蛙がいます。

芭蕉記念館の前の道は通らず、隅田川テラスを新大橋に向かって進みます。

隅田川テラスには大川端芭蕉句碑がならんでいます。

新大橋の下から反対側の隅田川テラスが見え、あちらはあちらで、壁に何か描かれています。

途中から金網があり通れなくなりましたので隅田川テラスから道を変えました。歩いているとむかい側に神社が。

江島杉山神社

将軍綱吉が鍼術の腕を認めた杉山和一総検校という人がいて、この地を拝領されその西隣に弁財天の一社を建立したのが江島杉山神社の始まりです。和一さん、幼いころ失明し鍼術を学び、江の島の弁財天の岩屋にこもり管鍼術を授かったため祀ったのでしょう。学びに学び鍼術の神様といわれたようです。

竪川にかかる一之橋に出会いました。そうです。赤穂浪士が吉良邸から引き上げる時に最初に渡った橋です。

堅川

隅田川側には堅川水門があります。上を首都高が走り、風景としては味わいがありませんが、治水は大切なことです。

一之橋までといたします。

伊能忠敬の歩いた道(2)

油堀跡の観光高札がありました。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3402-2-1-1024x884.jpg

高札を読みますと、隅田川から富岡八幡のうらを通って木場へ通じていた堀で、油堀に架かるのが下之橋とあります。油堀を進んでいくと富岡橋があり、この橋は歌舞伎の『髪結新三』でよく知られている焔魔堂橋です。油堀は下記の図と思うのですが、架かっているのが中之橋なのです。

朱丸が中之橋、水色丸が油堀、黄色丸が富岡橋、ピンク丸が『東海道四谷怪談』の三角屋敷、赤丸がえんま堂の法乗院です。伊能忠敬さんが亡くなった後、この辺りは歌舞伎作品の舞台となったわけです。鶴屋南北さんの関連本を読むと『東海道四谷怪談』の三角屋敷の場はとても重要な場であることがわかってきます。青丸は材木商冬木屋のあった冬木町。

次に遭遇したのが中之橋の観光高札でした。

中之橋は隅田川と現在の大島川西支河とを結んでいて中之堀に架かっていた橋とあります。渡った福島橋の下が大島西支川でした。江戸時代から流れているのですね。下之橋はどうしたのでしょう。中之橋の位置も違います。

そして現れた上之橋跡でした。

観光高札があったのかどうか見逃しました。江戸時代から昭和59年(1984年)に清澄排水機場の建設に伴い撤去され、それまで残っていたのです。

清澄排水機場。

下の図では中ノハシと上ノハシの間の橋に中がみえます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_5324-8-1024x582.jpg

そこで次のように推理しました。

朱丸の仙台堀に架かる橋を上之橋、黄色丸の中堀に架かる橋を中之橋、水色丸の油堀に架かる橋を下之橋。私的解釈で一件落着とします。

三つの橋は隅田川からながめるとなかなか味な情景だったようです。

目指すは7の清住町の平賀源内さんがエレキテルの実験をした場所ですが、階段がありましたので隅田川テラス側をのぞいてみます。清州橋とスカイツリーがみえます。

もどって進むとむかい側に石柱らしきものが見えます。

平賀源内電気実験の地跡

次の目的地は清州橋

清州橋

小名木川に架かる萬年橋

萬年橋から見た小名木川水門

萬年橋から見た隅田川と小名木川入口。左手に清州橋。萬年橋を渡り右手の隅田川テラスを進むと芭蕉さんの像にお会いできるわけです。

萬年橋の説明パネル。

萬年橋の解説。かつては小名木川を通る船の積み荷などをを調べる番所がありました。後に番所は中川口へ移ってしまいます。小名木川に架かる橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。歌川広重は「名所江戸百景」の中で「深川万年橋」として、葛飾北斎は「富嶽三十六景」の一つに「深川万年橋下」として富士山も描いています。

広重さんの萬年橋につるされた亀はインパクトがあります。手元に「名所江戸百景」と「富嶽三十六景」がほしいところです。

萬年橋は江戸時代の塩の道の隅田川からの入り口でもあるわけです。紫の線が塩の道です。

黄色丸が萬年橋で小名木川から中川に出る場所に番所が移ったわけです。少し江戸時代より位置がづれていますが現在この場所に中川船番所資料館があります。小さいのですが内容は充実していました。

塩の道につながってくれました。忠敬さんのおかげです。大河にならなくても重要な河を指し示してくれました。

追記: 今月の歌舞伎座第一部の『車引』の桜丸は上方の型でやるそうで、歌舞伎オンデマンドの『車引』を観ました。一つ一つの圧倒的な動きが目に飛び込みます。これも6月14日までの配信でした。間に合ってよかった。隈取の無い桜丸と衣装の色の違いなど、桜丸、梅王丸、松王丸の印象が舞台上では違う感覚を呼び起こしてくれるのでしょうね。

追記2: 『乾山晩愁』に光琳さんが材木商冬木屋の奥方のために描いた「冬木小袖」のことがでてきました。もしかして東京国立博物館で修復を進めていたあれではと思い出しました。やはりそうでした。今年中には修復したものが公開されるようです。深川との嬉しいつながりです。

追記3: 藤沢周平さんの作品に『橋ものがたり』があります。橋での出会いや別れなどの人間模様の機微が10篇にえがかれています。その最初の『約束』の橋が「萬年橋」です。同じ町に住んでいた幼馴染のお蝶が深川の冬木町に引っ越すと知り、幸助は五年後に小名木川の萬年橋の上で会おうと約束するのです。ふたりは会えるでしょうか。永代橋の出てくる作品もあります。橋は様々な人と想いを渡らせています。

伊能忠敬の歩いた道(1)

日本地図を描かれるために歩いた道ではありません。深川の黒江町の伊能忠敬宅跡より天文屋敷(天文台)までの道です。忠敬さん、家業を譲り引退して改めて勉学のために高橋至時先生に弟子入りします。そして自宅から天文屋敷まで通ったのです。ここを歩いてみたいと思っていて実行しました。

写真を撮りつつ道に迷いつつですので、忠敬さんがどのくらいの時間で歩いたのかはわかりません。さらに忠敬さんは歩幅をかぞえながら歩いてもいましたのでどんな感じだったのか。映画『大河への道』の感じですと、忠敬さんの歩く姿を実際に見た人はかなり奇異に感じたことでしょう。映画で香取市職員の池本さんが大河ドラマの「続武田信玄」のポスターを見て大河ドラマ誘致の発言したのも笑えました。大河の<続>はまだないですね。

隅田川でいうと、永代橋から蔵前橋を渡ったところへの道と言えます。

東京メトロ門前仲町駅から先ず伊能忠敬旧居跡を見つけるのが大変です。方向音痴系でいながら何となくこちらで歩いてしまうのですから。番地をみつつ行きましたがわからず、最後は深川東京モダン館頼みと訪ね、すぐですよと伊能忠敬旧居跡の石碑まで案内していただきました。感謝!感謝!

伊能忠敬旧居跡の石碑。出発です。

渋沢栄一宅跡

福島橋

大島川西支川。先に見えるのが御船橋(みふね)と緑橋。

佐久間象山砲術塾跡

永代通りを渡った向かい側近くに初代段四郎さんのお墓のある正源寺があるのですが、時間の関係上残念ながらあきらめてまずは永代橋に到着。ここまでくれば、後は隅田川沿いで進みます。隅田川テラスを歩けば楽なのですが、探す史跡もあるのでその一本内側の佐賀町河岸通りをたどります。

2が正源寺。3が佐久間象山砲術塾。6が伊能忠敬旧居のあった黒江町。永代橋は1807年(文化4年)に、富岡八幡宮の祭礼に訪れた人々の重さに耐えかねて崩落事故がありました。亡くなった方の数は定かではありませんが1500人ともいわれています。いかに多くの人々が押し掛けたかが想像できます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3441-3.jpg

隅田川テラス。

地図上だけでの確認だったのが実際にわかるわけですから見つけるぞと気合が入ります。

早速、赤穂義士休息の地の碑。大高源吾がちくま味噌の初代竹口作兵衛と其角門下で、一同を招き入れ甘酒粥をふるまったとあります。碑を建立したのはちくま味噌16代目さんです。今の若い人は「忠臣蔵」といっても知らないようです。

向い側に古い建物が。

次は非常に頭を悩ませられた下の橋、中の橋、上の橋にいきます。

追記: 歌舞伎オンデマンドの2012年(平成24年)新橋演舞場での『仮名手本忠臣蔵 5段目6段目』が6月14日で配信終了ですので観ておいて欲しいです。特に6段目の上方型を観れるのは貴重です。この時の若手の通し狂言観ていました。思い出しました。10年前でまだまだと思って斜交いに鑑賞していました。特に6段目の勘平は18代目勘三郎さんのが好きでしたので、上方型とは気にかけずに何か地味だことと感じたと思います。今になって東京型(音羽屋型)との比較が出来、配信に感謝です。

追記2: 勘三郎さんの録画なく、同じ2012年の勘九郎さん襲名披露南座顔見世公演で、仁左衛門さんが東京型でされていた録画がありじっくり観させてもらいました。さらに文楽の録画もあり比較の楽しみ三昧です。今月大阪の国立文楽劇場で上演されていますのでそちらも是非観ていただきたいです。ついに17代目勘三郎さんの勘平のDVDも購入してしまいました(音羽屋型)。それぞれに発見があり多種多様の観方ができ、かつての名優の役者さんたちの芸も味わうことができ、どんどん末広がりとなり嬉しきかなでした。

追記3: 2012年に花形歌舞伎通し狂言『仮名手本忠臣蔵』をやっていたからこそ、2020年新型コロナの中、図夢歌舞伎『忠臣蔵』が誕生したのかもしれません。

追記4: 葉室麟さんの『乾山晩愁』を読んでいたら、尾形光琳が赤穂浪士に加担し、討ち入り装束が光琳さんの好みというナゾがからんできておどろきでした。江戸での光琳さんに援助していたのが深川の材木商の冬木屋だそうで、この話はここで止めておきます。先に進まなければなりませんので。それにしても面白し。 

日光街道千住宿から回向院へ・そして浄閑寺へ(5)

やはり浄閑寺まで到達しなければすっきりしません。というわけで南千住へ行ってきました。

かつては道があったのでしょうがいまは貨物車の線路が集中してまして、歩道橋下に延命寺・小塚原刑場跡がありました。

延命寺の地蔵菩薩は1741年(寛保元年)に造立され、明治29年に隅田川線が敷設するに伴って移設されたとあります。明治30年代から昭和30年代まで毎月5、14、27日は地蔵の縁日には大変なにぎわいだったそうですが、今ではちょっと想像できません。

お顔がよくわかりませんが優しい穏やかなお顔のお地蔵菩薩様です。

歩道橋のうえから、貨物線の沢山の線路が集まっているのがわかります。右の白い建物の黄色丸のところにJR隅田川駅とあります。貨物駅でも隅田川が駅名に残っているのはうれしいですね。かつては隅田川が引き込まれていて船でここまで運んで貨物列車でと荒荷を運んでいたようです。常磐炭鉱の石炭もここに集められていたのです。

南千住まちあるきマップによりますともっと南千住駅近くの南千住駅前歩道橋がビューポイントのようです。その歩道橋からですと隅田川駅での車両の入れ換え作業がみれるようです。

JR常磐線にそって西に向かいますと浄閑寺があります。1855年(安政2年)の大地震で犠牲となった多くの新吉原の遊女たちの遺体を葬ったとされるお寺です。のちに新吉原総霊塔が建立されました。

永井荷風さんが愛したお寺でもあり、娼妓のそばに自分の墓を望みましたが、お墓はなく谷崎潤一郎などによって文学碑とゆかりの品を納めた荷風碑がたてられました。そのほかおやっと思う方のお墓もあります。

本庄兄弟首洗井戸並首塚がありまして説明がありました。「父の本庄助太夫の仇である平井権八を討ち果たそうとした助七と助八の兄弟でしたが、兄・助七は吉原田圃で権八に返り討ちにあってしまう。弟の権八はこの井戸で兄の首を洗っているとことを無残にも権八に襲われて討ち果たされた。兄弟の霊を慰めんと墓(首塚)が建てられた。」

歌舞伎では白井権八となり、幡随長兵衛との出会う『鈴ケ森』は前髪の美しい若者と侠客の中のヒーローと決め場面は心躍らせます。歌舞伎は現実味を帳消しにして華にしてしまうところがあります。そこが面白さであち、芸の見せどころでもあります。

花又花酔の句壁。「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と「新吉原総霊塔」。

永井荷風文学碑荷風碑

浄閑寺を出ると音無川と日本堤の案内板と広重さんの『名所江戸百景』に描かれた新吉原へ通う客でにぎわう日本堤(吉原土手)がありました。

日本堤は三ノ輪から聖天町まで続く土手です(パステルグリーンの丸)。黄色丸の8が浄閑寺。6が新吉原。11が浅草寺。12が三社祭りの三社権現。14が天保の改革で芝居小屋が一ケ所にあつめられた猿若町。朱丸が待乳山聖天。不夜城の新吉原の周囲は田地です。

前進座の『杜若艶色紫』の最後の「日本堤の場」の舞台背景が気に入りましたが、この地図を見て絵画化してくれたようにぴたりとはまりました。

ただ安政の大地震の犠牲となった遊女の遺体は、音無川を船で運ばれたり、田地の間の道を運ばれて浄閑寺にたどり着いたのかなとも地図を見つつ想像してしまいました。遊女たちを偲んだ文豪永井荷風さんがそばにいますよ。

さてそのあとは、都電荒川線の始発・終点の三ノ輪橋駅から乗車。何年ぶりの都電でしょうか。チンチンの音もわすれていましたし、こんなに静かに移動していたんだと新鮮でした。さて適当なところで途中下車することにして日光街道千住宿の旅もここでお開きです。

日光街道千住宿

日光街道千住宿から回向院へ(1)

日光街道千住宿から回向院へ(2)

日光街道千住宿から回向院へ(3)

日光街道千住宿から回向院へ(4)

追記: 歌舞伎『鈴ケ森』は、鶴屋南北さんの作品『浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくのいなづま)』の一場面です。皆川博子さんの『鶴屋南北冥府巡』を読み終わりました。表と裏。南北さんと初代尾上松助さんをモデルとして、南北さんが松助さんのために『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』を書き上げるまでの話です。裏の世界を表現するのを得意とする南北さんが松助さんのために立作者となるまでを裏から描いていて、皆川博子さんの独特の視点でした。

追記2: 『鶴屋南北冥府巡』の付記に書かれていることをお借りして記入させてもらいます。

文化3年、桜田治助、没。文化5年、並木五瓶、没。伊之助は、立作者の地位を確立する。文化8年、伊之助は、四代目鶴屋南北を名乗る。文化12年、南北と組んで、文化年間、けれんの妖花を咲かせつづけた尾上松助、72歳にて、没。文政12年、鶴屋南北、没。75歳。翌年、年号は天保と変わる。「文化元年より、文政最後の年まで、江戸爛熟の25年間、南北の描く悪と闇と血と笑いは人々を鷲掴みにした。鼻高幸四郎、三代目菊五郎、目千両の半四郎など、すぐれた役者にも恵まれた。」1804年から1830年の間です。その次の時代、天保の改革によって歌舞伎の芝居小屋は浅草に集められるのです。南北さん関連本を数冊読む予定なので参考になります。ありがたし。

追記3: 永井荷風さんは、21歳のとき歌舞伎にかかわりたくて福地桜痴に弟子入りしています。下働きをし、柝を打つ練習もしています。しかし十カ月終わります。桜痴さんが歌舞伎座を去り日出國新聞社(やまと)の主筆となるので行動をともにします。近藤富枝さんは『荷風と左團次』中で、荷風さんは役者になりたかったと推察しています。その後、荷風さんと二代目左團次さんは出会います。二人の友情を<交情蜜のごとし>としてその様子を書かれています。歯切れのよい文章で読みやすく興味深いです。

追記4: 南北さんの時代は、芝居に対して細かい規制のお触れがあって、地名や料理屋などの名前も限定されていました。新吉原を背景にした狂言は、大音寺前、日本堤、隅田川、向島などの固有名詞は使用してもよいとされていました。高価な衣装はダメで、血のりもダメで赤く染めた血綿ならよいなど、子供だましでない大人の芝居としてどうリアルにみせるか工夫に工夫を重ねたことでしょう。

追記5: 鎌倉の建長寺の場所はもとは刑場で地獄谷よ呼ばれそのためご本尊は地蔵菩薩坐像であるということを『五木寛之の百寺巡礼』で知りました。

国立劇場周辺の寄り道

東京メトロ半蔵門線半蔵門駅から国立劇場の行き帰りの寄り道を紹介します。半蔵門駅の1番出口か6番出口を出ますと道向かいのマンションの間にに小さな稲荷神社があります。千代田区麹町にあるので麹町太田姫稲荷神社と呼ばれているようです。

神田にある太田姫稲荷神社の分社で、伝説によると太田道灌の娘が天然痘にかかり、さる稲荷神社に祈願したところ治り、江戸城内に勧請し祀られたました。そのあといろいろな変遷があり麹町の有志によって、地域の守護神、病気平癒、商売繁盛の神としてまつられたようです。

「バン・ドウーシュ」というオシャレな名前の銭湯もあったのですが今回見ましたら名前がなく廃業したようです。皇居周辺をマラソンするかたも利用していたようですが憩いの場がまた一つ消えていました。

1番出口、6番出口を右に坂を下っていきますと平河天満宮があります。これもまた太田道灌が江戸の守護神として江戸城にお祀りしたようです。二代将軍秀忠によってこの地にうつされ、平河天満宮の名にちなんで平河町と名づけられました。御祭神が菅原道真公ですから学問の神様で合格祈願のお参りも多いようです。

鳥居が銅で作られています。左右の台座の部分に小さな四体の獅子がいます。初めてみました。銅の鳥居は何代も続く名ある鋳物師(八代目・西村和泉藤原政時)によって作られ、江戸時代の鳥居の特色の一つとのことです。鋳物だからこそできる意匠です。

稲荷神社の横には、百度石があり、力石、筆塚などもあります。そのほか、石牛、狛犬なども奉納されています。

半蔵門駅の改札を出てすぐの右手に『半蔵門ミュージアム』のポスターがありいつも気になっていたのです。仏教に関係があるらしく無料なのです。駅すぐそばなのです。いつも使う出口ではなく4番出口すぐそばでした。

運慶作と推定される大日如来座像だけでも必見の価値があります。そのほかガンダーラ関係のものもあり、今回初めて入館しましたが、静かで入場者も少なくゆったり鑑賞できました。シアターも二つ観ました。「曼荼羅」は解説を読んでも難解ですが、映像によりほんの少し近づけました。「大日如来坐像と運慶」も心が揺さぶられました。次回は「ガンダーラ仏教美術」も観たいとおもいます。

そして今回は写真家・井津健郎(いづけんろう)さんの「アジアの聖地」の特集展示がありました。お名前も作品も初めての出会いです。プラチナ・プリントなのだそうでが白黒写真とは違う不可思議な感覚が呼び覚まされます。静寂、恐れ、邂逅、祈り、命の尊厳、悠久の時間空間、一瞬、などなど言葉を越えた世界です。

大日如来様に会えるだけでも嬉しい場所となりそうです。ただ展示替えの休館日などもありますのでお確かめください。

半蔵門ミュージアム (hanzomonmuseum.jp)

追記: 『猿之助×壱太郎「二人を観る会」』。予定していなかったのですが出先から電話すると当日券ありなので寄り道しました。頭から足の土踏まずの丸みまで全身見えての素踊り鑑賞。歌舞伎舞踊の身体表現の深さ。壱太郎さんの進行が絶妙で途絶えることのないトークの楽しさ。芸の話がさらっと何気なく出て超納得。愉快な思い出話など爆笑多し。最後は打ち上げ花火のような『お祭り』。まさしく「二人を観る会」でした。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3406-2-603x1024.jpg

追記2: 『猿之助×壱太郎「二人を観る会」』が開催された日本教育会館の1階ロビーに御神輿が飾られていました。休憩時間にゆっくり眺めさせてもらいましたが、清元『お祭り』にぴったりの偶然の出会いでした。御神輿のように歌舞伎座などとは異なるピカピカのおふたりでした。この雰囲気は他では観れないかもです。(笑)

映画『湖の琴』からよみがえる旅(2)

京都から湖西線で近江塩津まで行き、北陸本線に乗り換えて、米原で東海道線に乗り換えるという旅を計画したことがあります。当然、高月が入ります。途中、近江今津と余呉に寄ることにしました。

近江今津の観光案内で観光スポットを地図に書き込んで教えてもらいました。水色丸が琵琶湖周航の歌記念碑。青丸が琵琶湖周航の資料館。黄色丸はヴォーリズ通りと称して、アメリカ人のヴォーリズが近江八幡へ英語教師として来日し、その後キリスト教布教と社会福祉事業のために建設設計事務所を開き、洋館を設計します。今津ヴォーリズ資料館日本基督教団今津教会旧今津郵便局と並んでいます。赤丸は江若(こうじゃく)鉄道駅跡

琵琶湖周航の歌碑の形は今津の地形をかたどっています。赤御影石の歌碑には歌詞1番から6番まで刻まれています。琵琶湖には歌碑が、今津、竹生島、長浜、彦根、近江八幡、大津、近江舞子にもあります。

ヴォーリズ通り今津ヴォーリズ資料館日本基督教団今津教会旧今津郵便局

ヴォーリズ建築は近江八幡に行ったとき知りましたが、やはり近江八幡が一番多いです。当時、アメリカで開発されたメンソレータム(今のメンターム)の輸入販売も開始し、設計の収入とで売り上げ収益もよかったようですが、全て社会事業などに使われました。近江の人はヴォーリズを「近江の百万損者(そんじゃ)」とあだ名しました。

日本人女性と結婚し日本国籍を取得しましたが、太平洋戦争では苦難の時期だったようです。

江若鉄道近江今津駅跡。浜大津駅から近江今津駅まで走っていた鉄道でその後、湖西線に変わります。この三角屋根で親しまれた駅舎跡の建物も惜しまれつつ昨年解体されました。

次は余呉駅で途中下車。余呉湖に行ったときには気にもとめませんでしたが、左側の黄色丸が西山大音です。ピンク丸が天女の衣掛柳。現在地に余呉湖観光館。案内板も賤ヶ岳周辺での秀吉と勝家のそれぞれの陣地を示す案内でした。

余呉湖に伝わるいくつかの「天女羽衣伝説」の内の一つ。天から舞い降りた天女と村人との間に生まれた男の子が、後の菅原道真公で幼少期の道真公が預けられたと伝わる菅山寺があります。

小説『湖の琴』では、『湖北風土記』から紹介しています。余呉湖の畔に桐畑太夫という長者がいて柳に掛かる天女の衣を見つけてこれを隠します。桐畑太夫は天女を連れて帰り、天女は泣く泣く嫁となり二人の子ができました。ある時、天女は子守女の唄から隠されていた衣を見つけ天に帰ってしまいます。母の居なくなった子供たちは、夜な夜な湖畔の石の上にたたずみ泣きました。菅山寺の老僧が二人を寺に連れ帰り一人はなくなってしまいますが、もう一人は後に学者となりました。それが菅原道真公です。

子供たちが立って泣いた石は、「夜泣き石」として残っています。映画でも喜太夫が自分の解釈でさくに説明しています。

余呉湖の役目の説明板がありました。

人がいなくて本当にひっそりとした余呉湖でした。余呉湖観光館の食堂がお休みで空腹のためなおさら寂しさを感じる風景でした。

いよいよ十一面観音の高月へ。

文学碑。「慈眼 秋風 湖北の寺 井上靖書」。この十一面観音のことは井上靖さんの小説『星と祭』に出てくるのです。

星と祭』読もうとおもい図書館から借りましたが、知床での船の事故と重なるようでつらい話となります。

映画『湖の琴』に誘われてのかつての旅の反芻はこの辺でお開きとします。まだまだ途中下車して楽しめる場所がありそうです。近江の白髭神社もよさそうです。

追記: 国立劇場大劇場で前進座『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)ーお六と願哲ー』鑑賞。鶴屋南北さんのまぜこぜはやはり面白し。八ツ橋花魁に佐野次郎左衛門とくれば、『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』となりますが、この芝居ではお六と破戒坊主の願哲が主導権をにぎり、佐野次郎左衛門は浪人中の侍の設定です。名刀の「籠釣瓶」も登場し、さらにもう一刀「濡れ衣」が登場。複雑そうですが、國太郎さんの早変わりを楽しみながら、わかりやすいお芝居となっていました。

画像

白髭橋から千住大橋へ

千住大橋を中心に千住宿の北から南に進みましたが、今回は隅田川テラスを歩いた時の荒川区に接する白髭橋(しらひげばし)から千住大橋までです。荒川区南千住まちあるきマップをながめていてここを歩いたのだと思い出しました(2019年)。歩いているときはこんな風に町が隣接していたとはしりませんでした。ひたすら隅田川とそこにかかる橋とその近辺の案内板をながめていたのです。

水色の点線が隅田川。黄色が白髭橋。緑が水神大橋。茶色が千住汐入大橋。黒がJR常磐線の鉄道橋。赤が千住大橋。ピンク丸がJR常磐線の南千住駅で矢印の方向へ進むと都電荒川線の始発・終点の三ノ輪橋停留場があります。バラの咲く時期はこの沿線は美しく様変わりします。荒川区の北が足立区。南が台東区。東が墨田区。

先に見えるのが墨田区からみた白髭橋です。覆いがかかり東京オリパラ前のお化粧直しでしょうか。

よく覚えていないのですが、工事中でも人は渡ることはできたようで台東区の「対鷗荘跡」の案内板があります。そして荒川区の「対鷗荘跡」の案内板も。白髭橋が墨田区、台東区、荒川区の境界線のようです。

この辺りはかつては風光明媚で対鷗荘は明治時代の政治家・三条実美の別邸でした。橋場の渡しがあったところで、白髭の渡しとも呼ばれ、さらに古くは隅田川の渡しと呼ばれ『伊勢物語』の在原業平も渡ったとされています。大正3年に白髭木橋がかかりました。

荒川区側から振り返って見た白髭橋。先には何やら神社が見えます。

石浜神社。聖武天皇の命によって創建された神社で、源頼朝が奥州征伐に際して祈願し大勝したことから社殿を寄進したそうです。

道なりに瑞光橋がありました。素盞雄神社で瑞光石のことを知りましたのでそれにちなんでの橋名でしょうか。歩いていた時には仰々しい名前だなあとおもいました。

ブルーのアーチの水神大橋

千住汐入大橋

足立区側に渡りました。前にJR常磐線の鉄道橋。鉄道橋の下を通ることができまして、その間から見えるのが千住大橋

千住大橋際上り場。徳川家や日光門主など高貴な方の船着き場。

下の図は、小金原でおこなわれた鹿狩りに向かう将軍が千住に到着した様子で、将軍の船には葵紋が付いた吹き流しがたなびいています。(12代将軍・徳川家慶)

千住小橋。ここを渡ると、あの壁屏風が現れるわけです。

三年ぶりで同じ場所に行きついたことになります。

隅田川テラスを歩くのも対岸には違う案内板もあったりして、なかなか根気のいることですが、その時の気分で目線を変えて風まかせで歩く散策もいいですね。

追記: 『孤独のグルメ』。荒川区が気になります。シーズン3・エピソード10・第10話。都電がでてきて荒川遊園地が。今月、リニュアールオープンした模様。古き荒川遊園地の貴重な映像になるかも。そして宮ノ前駅でも井之頭五郎さん下車。二つのメニューは無理なので迷います。それにしてもゴックン。シーズン7・エピソード5・第5話の三河島駅の麻婆豆腐と杏仁豆腐もひかれます。落語に口にしたくない『酢豆腐』がありましたね。

追記2: 芭蕉さんは遺言で木曽義仲のそばで眠りたいと望んだのですよね。義仲寺(滋賀県大津市)を訪れ初めて知りました。希望通りになりました。翁堂には芭蕉さんの像があり、天井には若冲さんの絵の複製が再現されていました。境内はそれほど広くありませんが、植物も多種類あり見どころが多いです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Image075-768x1024.jpg

追記3: 義仲寺で手に入れた小冊子です。旅の時はこうした小冊子が荷物にならず電車の中でも気軽に読めるので助かります。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3289-2-1024x636.jpg

其角さんは歌舞伎『松浦の太鼓』などにも登場しますが、実際は芭蕉さんとは違うタイプのかただったようで、それを芭蕉さんは認めていたようです。其角さんは井原西鶴さんと会っていますから面白い方だなと思っていましたので納得できます。

日光街道千住宿から回向院へ(4)

今度は広重の「江戸名所百景 千住乃大はし」の案内版です。少し汚れていました。

階段を上り橋詰めテラスからの隅田川。桜が咲いています。(3月28日)

橋詰めテラスを反対側に降りますと壁を屏風に見立てて、与謝野蕪村筆の奥の細道図屏風としています。

千住大橋の下にかかっている千住小橋。

千住小橋は渡らずもどって千住大橋を渡ると千住河岸の案内板がありまして、秩父から運ばれた材木などを扱う材木問屋が並んでいたようです。やっちゃ場に材木問屋と商人の町ともいえます。ただこちらは現在は荒川区となっています。碑を撮るのを忘れました。

素盞雄神社。江戸名所図会では「飛鳥杜 小塚原天王宮」とあり、素盞雄神社となったのは明治の神仏分離によるものです。古いものを守りつつの盛りだくさんな境内でした。あちらこちらにおひな様が飾られていまして、桃の鉢植が並べられていました。『新・三国志』の桃の花びらが飛んで追いかけてきたみたいです。

桃の願い札。これは初めてみる光景です。

「奥の細道」にちなんだつくられた千住大橋。杖と傘が置いてありまして、もしよかったらかぶってみてくださいとあります。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3219-2-1024x700.jpg

大きな銀杏の木には子育ての絵馬が奉納されています。この銀杏の木の皮を煎じて飲むとお乳がよくでるという言い伝えがあり今につながっているのです。

小塚原富士塚です。「瑞光石」についての説明がありました。素盞雄神社の祭神が翁の姿にかえて降臨した奇岩で、この塚を「古塚」と呼んだことから小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もあるとしています。

飛鳥の森 御神水」。

社務所に人がいませんでしたので、浅子神輿店の御神輿のことは聞くことができませんでした。いろいろ工夫されていて親しみやすい神社でした。

今回の散策の締めの小塚原回向院へ。1667年(寛文7年)に住職・弟誉義観(ていよぎかん)が行路病死者や刑死者の供養のために開いたお寺で、当時は常行堂と称していました。そして、蘭学者・杉田玄白、中川淳庵、前野良沢が腑分けをみたことによって「解体新書」が出来上がったことを讃える観臓記念碑があります。

観臓記念碑。1922年(大正11年)に建立されましたが戦災をうけたので、解体新書の絵のとびらをかたどった浮彫青銅板だけここへ移し、あらたに建て直しました。

小塚原の刑場は日光道中に面していましたが、周囲は草ぼうぼうで浅草山谷町と千住宿の街並みが途切れた場所に設置していました。明治初期に刑場の機能は廃止され回向院は顕彰記念地となりました。橋本左内や吉田松陰のお墓があります。

荒川区南千住まちあるきマップ。ありがとうさんです。

(5)→     2022年5月27日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記: そういえば歌舞伎『桜姫東文章』の桜姫がつとめにでたのが小塚原の女郎屋でした。「風鈴お姫」と人気となります。お姫様がばくれんのような独特の話し方になるのが見どころ聴きどころです。詳しくは上映中のシネマ歌舞伎でどうぞ。(5月4日現在)

日光街道千住宿から回向院へ(3)

山梨は富士山が美しい姿を見せてくれることで有名ですが、北千住からもかつてははるか彼方に見えたようです。

北斎の富嶽三十六景のうち「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」の碑があります。

武州千住 冨嶽三十六景と千住|足立区 (city.adachi.tokyo.jp)

隅田川関屋の里 冨嶽三十六景|足立区 (city.adachi.tokyo.jp)

さらに富士塚のある神社が三つあります。大川町氷川神社千住神社は登ることができます。柳原稲荷神社の富士塚は通常非公開です。

特に見学したかった「千住宿歴史プチテラス」はお休みでした。地漉紙問屋・横山家の内蔵(土蔵)を移築して歴史展示館となっています。

土日に開館していることが多いようですが、あくまでも参考です。

千住のやっちゃ場だけに投師(なげし)と呼ばれる店を持たない商人がいました。仲買人の店先を借りてセリに参加して、大八車で東京市内の全市場へ駆けつけて売りさばきます。昭和初期には150人くらいいたそうですが、一人一台とは限らず、四、五百台の大八車が朝明けないうちからガラガラ音を立て、手ブラ提灯の光とともに天の川のようだったそうです。

昭和20年4月の空襲で焼け幕を閉じますが、その子孫が築地や北足立などの市場で仲買商として脈々とつながっているということです。

凄い光景だったでしょうね。映像とかで残っていないのでしょうかね。

さらに千住には日本に一つしかない長ネギ専門の卸売市場があるそうです。「千寿ねぎ」は薬味にするとぴりっと辛く香りよしで、煮ると甘いとのことです。

千住宿奥の細道プチテラス」。

矢立初めの芭蕉像」。矢立て初の句「行く春や鳥啼き魚にの目に泪」を書きとめているのでしょう。芭蕉さんの足元の敷石はやっちゃ場に敷かれていた御影石とのことです。

千住大橋が見えてきました。

千住公園にある「奥の細道矢立て初めの地碑」。

ここで北斎さんの「従千住花街眺望ノ不二」の碑にお目にかかれました。

この近くに「石洞美術館」がありました。二回ほど行っていますが、美術館に行ってもどるという行動でしたので、千住大橋に近かったのだとはいやはや驚きです。大千住マップ、ありがとう。

ではこの辺りで小休憩です。距離的に短いのによく休憩があります。

北千住駅前のマルイ10階には千住宿の模型があるそうで、灯台下暗しでした。北千住は飲食店も多いのにそちらには全然貢献していません。古い建物の板倉家は人が中にいまして和食やさんとなったようです。そうした古い建物の利用も盛んのようで、次の機会には入ったつもりではなく、味わいましたとなりたいものです。