東慶寺の水月観音菩薩

桜もおしまいなのに、梅の時期の話である。東慶寺から城ケ島へ (1) で、東慶寺の<水月観音菩薩半跏像>正式名は国立歴史博物館のほうが正しいのかもしれないが、遊戯は観音様としては軽すぎるということであろうか。岩にもたれかかり、水面に映る月を眺められているのである。個人的には観音様も全ての慈悲を放出され、ふっと水に映る月に心をうつしほっとされているようで心温まり好きなのである。今回は松岡宝蔵での公開であった。水月観音菩薩の背後に背を合わせて、同じようにくつろがれている<観音菩薩半跏像>があった。この二つの形は、中国では観音は補陀落(ふだらく)に住むといわれ、それと仙人が結びついていると考えられているそうで、<人>の風が吹いているのであろうか。鎌倉周辺にしか見られない形で、京都では菩薩として相応しくないとして受け入れられなかったのではとある。なるほどそいうこともあるかもしれない。仏様のお姿も、同じ仏様であっても、同じ人間が拝見しても、その心持によってその時々で変るものであり、そこがまた違う感覚を呼び覚まされるから拝見しに行くのである。

<聖観音菩薩立像>(木像)の土紋の装飾も記憶からは初めてである。衣の部分に<粘土を型に入れて作った花形をはりつけ、表面に彩色したもので<鎌倉地方独特>とある。鎌倉には鎌倉独特の仏の捉え方があったのであろう。

縁切り寺として、その資料も展示されている。さらに第二十世住持天秀尼は、豊臣秀頼の側室の子で、秀頼には別の側室にもう一人国松という男の子がいた。大阪城落城により二人の子は捕らえられ、国松は殺されてしまうが女の子は秀頼の息女として家康の許しのもと、天秀尼として東慶寺に入寺している。この天秀尼の遺品なども展示されている。今回は『天秀尼』・永井路子著(東慶寺文庫)を購入できた。

夏目漱石の和辻哲郎へ、マツタケをもらったお礼の書簡もあった。東慶寺に<漱石参禅百年記念碑>がある。長い文が刻まれているので、眺めるだけで詳しくは読まなかったのであるが、「資料紹介 漱石と縁切寺東慶寺」(高木侃著)の「続」と二冊(小冊子)あったので買わせてもらった。それによると、漱石さんは明治27年に円覚寺塔頭帰源院にて、釈宗演管長と宗活のもとで参禅し、大正元年に東慶寺を訪れ宗演師と再会されている。

円覚寺での参禅については、小説『門』に書かれている 。「宗助は一封の紹介状を懐にして山門をはいった。」で始まり「 「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも樂だけれども。惜しいことで」 宗助は老師のこの挨拶に対して、丁寧に礼を述べて、また十日前に潜った山門を出た。甍を圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼の後ろに聳えた。」で終わっている。碑のほうは、宗演老師の書簡と漱石さんの二十年振りに老師に会ったときの「初秋の一日」の文章の一部が刻まれていた。

宗演師も漱石さんも知らない事であるが、漱石さんの父親が名主をしていたところ住居していた女性が東慶寺に駆け込んでいたのである。小冊子にはそのことを詳しく書かれてある。

漱石さんは大正5年50歳で亡くなられている。漱石さんの希望で、葬儀の導師は宗演師であった。

少しかたい話になってしまったが、東慶寺のお花は梅とその根元に可愛らしく可憐に咲く黄色の福寿草であった。梅と福寿草。なかなか相性の合う組み合わせであった。

 

 

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