本郷菊坂散策  (2)

菊坂に行く前に石川啄木さんも歩いた道としての案内板があり、メモを無くしてしまったので何んと書かれていたか探さねばと本をめくっていたら出た来た。(「東京文芸散歩」坂崎重盛著) その前に本に載っている地図から池之端の仲町通りが見つかる。春日通りに平行して不忍池側の不忍通りとにはさまれた位置に仲町通りとある。この通りの角から、お蔦さんは不忍池の弁天様に手を合わせたのであろう。皮肉な結果になってしまうが。

本によると、池之端の料理店「清凌亭」で佐多稲子さんが働いていて、菊池寛さん、芥川龍之介さん、久米正雄さん等作家達の話を耳にしていたとある。

啄木さんは東京朝日新聞の校正係りとして上野広小路から切通坂を上り、本郷通りを横切り下宿先の床屋喜之床の二階に帰ったのである。春日通りの途中に啄木さんの通った道として案内板がある。<二晩おきに、夜の1時頃に切通の坂を上りしも、勤めなればかな> 喜之床は明治村に移されていて、そのあとには理容院アライがあるようであるが、そこまでいかなかった。本郷3丁目交差点手前に老舗の藤村菓子舗がある。もっと手前では、小さいお店だが菓子店があり人が何人か入るので立ち止まってしまったが、壺の形をした最中を売る壺屋総本店であった。

本郷3丁目交差点から菊坂を目指すのであるが、二回ほど来ている。一度は人まかせで、二度目は交番で道を尋ねたので、今回も交番でお世話になる。菊坂はすぐ分かったが、近くに文京ふるさと歴史館があるので、どちらから行ったらよいか尋ねると、そちらから菊坂だと分かりづらくなるでしょうから菊坂の帰りに寄ってはどうですかと言われる。菊坂の入口に案内板があり、宇野千代さんが<西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトをしていて、宇野さんを目当てに今東光さんが通った>とあった。なるほどである。

前の二回では寄れなかった「本郷菊富士ホテル」跡を目指す。道標のあり探すのは難しくなかった。とにかく凄い数の文学者や著名人が泊っていたのである。現在の環境からすると想像できないのである。

「大正から昭和にかけてのころとなると、多くの作家や芸術家達が止宿したホテルというより、いわば高等下宿であったが、もともとは、「帝国ホテル」などに次いで「東京で三つ目のホテル」として、外国人を対象にしたハイカラなホテルであったようだ。そのエキゾチックさに、作家たちはひきよせられていったのだろう。」(「東京文芸散歩」) ここは様々な物語のあった場所である。

菊坂にもどり上がっていくと、一葉さんが通った伊勢屋質店があり、そこから徳田秋声旧宅に行きつこうとしたが行きつけなかった。再び菊坂にもどる途中で旅館「大栄館」があり、玄関前に啄木さんの歌碑がある。ここに啄木さんは一時寄宿したらしい。菊坂にもどり一葉さんの旧居跡へ。菊坂から脇の階段をおりるのであるが、適当に目星をつけて下りて路地をのぞくと今も住民の方が使っている井戸の上の手押しポンプが見える。ここである。生活圏なので、その前を静かに通る。また菊坂にもどればよかったのにそのまま先の階段を上がったために迷路に入ったように、方向を見失い白山通りに出てしまった。そのまま白山に向かえば一葉さんの終焉の地に行きついたのであろうが、頭が回らずそこで『本郷菊坂散策』は中止とした。

<文京ふるさと歴史館><宮沢賢治旧居跡><坪内逍遥私塾跡><振袖火事の本妙寺跡>などがあるのだが、次の機会とする。<坪内逍遥私塾跡>は真砂町にあり、『婦系図』の主税の真砂町の先生もこのあたりに住んでいたことになる。司馬さんの「本郷界隈」によると、坪内逍遥は私塾常磐会には3年いてそばの借家に移っている。そのあとに正岡子規さんがこの常磐会の寄宿舎に入っている。この高台の下に一葉さんが住んでいた。

「子規の友人の夏目漱石も一度ならずこの崖の上の寄宿舎に同窓の子規をたずねてきているのだが、崖下に一葉という天才が陋居(ろうきょ)しているなど、知るよしもなかった。」

 

 

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