映画 『わが町』

映画『わが町』を見直したら観ていたのである。この映画を観た時、大阪の路地長屋の明治から昭和の終戦までの、ある男の一代記。親子三代の人情話。明治から昭和にかけて変らない大坂の庶民生活の活写。この主人公の生きる糧としている信条がよくわからない。さすが、川島監督、大坂天王寺の裏長屋を舞台にそこに住む人々の心情を<ターやん>を軸に丁寧に描いている。こんなところであった。辰巳柳太郎さん演じる<ターやん>がよくわからなかった。その押しつけが。

『マニラ瑞穂記』の舞台を観、フィリピンの<ベンゲット道路工事>の事を知って見直して観ると、<ターやん>が、<ベンゲットの他あやん>であることがやっと印象づけられた。映画の始めに 「比律賓ベンゲット道路開整工事絵図」 と書いたアルバムのようなものが大写しとなり、解説が入る。アメリカはマニラとバギオを結ぶ道路を造る。その途中のベンゲット山腹が難関で、フィリピン、中国、アメリカ等の1200名が1日一人は亡くなるという惨状でみんな逃げ出してしまう。そこで、明治36年秋、1200名の日本人労働者がカリフォルニアを開拓した不屈の精神力がかわれて海を渡るのである。その中に、佐渡島他吉がいたのである。ところが、労働条件は約束と違い次々と事故と病で亡くなる。途中帰るにも旅費がない。仕方なく、ここで挫けては亡くなった者にすまないの一念に団結し、仕事を成し遂げるのである。

開通してみると、1500名の労働者のうち、700名近くが亡くなっていた。開通すると、失業者である。成し遂げたという高揚感と失望から佐渡島他吉は、マニラで<ベンゲットの他あやん>として顔を売るが、厄介者として、日本に送り帰されるのである。帰って来てもお金はなし、神戸で車引きをしてお金をため、住んで居た河童(がたろ)路地の長屋に帰って来るのである。

ナレーションで説明されるが、そういうこともあったのかと実態がよくつかめないうちに、観ている者も河童長屋の住民に迎えられるようなものである。<ベンゲットの他あやん>は、日露戦争も勝利し、もう一回マニラに渡り日本人の心意気を見せなければ気が治まらないと、心はマニラである。この気持ちに回りの者は振り回され続ける。

女房のお鶴(南田洋子)は過労で亡くなり、男手で一つで育て上げた娘婿(大坂志郎)に、マニラ行きを進め、婿はマニラでコレラにかかり亡くなり、悲観して娘も子供を残し亡くなってしまう。日本は外地を求め太平洋戦争に突入。敗戦となる。それでも、他あやんは、育てた孫娘(南田洋子)の婿(三橋達也)にもマニラ行きを結婚の条件とする。

他あやんは<ベンゲットの他あやん>として生きる意外に生きる糧がないのである。他あやんの描いているベンゲット道路も、アメリカ人が避暑地に行くための道路であり、ダンスを楽しみに走る車のための道なのである。それを知りながら、他あやんは、自分のなかで理想化している架空のマニラへと、人を押し出していくのである。

そして、この<わが町>も、原作者・織田作之助さんの現実ではない<わが町>である。この小説は立身伝の国策ものとしてとらえられている。ここで原作と映画の照らし合わせは避けるが、この作品は、溝口健二監督が撮ることになっていた。戦時中で、国策を讃えるものにしろとの圧力があり、溝口監督は撮らなかった。それを、温めていて撮ったのが川島雄三監督なのである。

今観ると、<ベンゲットの他あやん>は、アメリカからも、日本からも騙されている男である。それを体験しつつも、他あやんが生きて娘と孫を育ててこれたのは、自分の中にある<ベンゲットの他あやん>の虚像と、架空の<わが町>である。この織田作さんの中の<わが町>を映像化したのが、川島監督である。非論理的なむちゃくちゃな<ベンゲットの他あやん>を受け入れてくれた<わが町>に、川島監督は、織田作さんの<わが町>を造り、織田作さんが批判された作家活動の時期の織田作さんを、その町に解き放ったのである。

ウソも本当も隠し立て出来ない貧乏長屋の住人の生きる狭い<わが町>は、住人ごと織田作さんへ贈った友情の証である。隣りの住む売れない落語家(殿山泰司)。独り者の床屋の息子(小沢昭一)。その母(北林谷栄)。

早くに亡くなってしまう織田作さん。病に犯されていた川島監督は、字も読めず、体一つの「人間はからだを責めて働かな噓や」の信条で生きる<他あやん>を、プラネタリウムの憧れの南十字星の懐のなかで死なせるのである。他あやんにはひと言伝えたい。<今度生まれてくるときは、せっかくの頑強な体を大事にせな、騙されたらあかんで>と。

『わが町』  監督・川島雄三/原作・織田作之助/脚本・八住利雄/撮影・高村倉太郎

 

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