無名塾 『炎の人』(2)

ゴッホは宗教にも深く惹きつけられ、キリスト教の説教師として炭坑に赴く。しかし抗夫達の厳しい労働の現実を前に宗教にも疑問を抱き、画家としての道を歩むのである。

ゴッホは、貧しさに負けることなく弟・テオの援助のもとで絵を描き続けるが、貧しさからくる不幸な人々への想いも抱え込む形となる。農民画家ミレーへの傾倒。オランダの田舎での独学に等しいゴッホは、パリに出て、ゴーガン、ロートレック、エミール・ベルナール、ベルト・モリソウ、シニャック等と出会う。ゴッホにとっては見る絵、見る絵が驚きでありその一つ一つに自分を飛び込ませていく。そして自論を主張していく。真似や影響というよりも、自分の絵を描く力をそれぞれの手法にぶつけて挑むといった感じである。有名な絵<タンギイ親父>のタンギイの絵具屋の店でのそれぞれの画家たちの登場は当時の画家たちの様子を彷彿とさせる。

ここでの仲代ゴッホは、あらゆる矛盾を、絵を描くことによって解決されると信じているような攻撃性で画家たちにぶつかっていく。新しさを受け入れつつも、デッサンの大事さ、服の下の肉体の動きの重要性など。それでいて、パレットの中の色は、以前とは全部違ってしまうという波動の中にいる。ゴッホはゴーガンにはどういうわけか複雑な位置に立っている。

ゴッホはパリからアルルに移る。ここではゴーガンに対するゴッホの精神的葛藤と神経症のことが大きな山場となる。小林秀雄さんの「ゴッホの病気」によると、ゴッホの神経症は突然意識を無くしてしまう発作から始まるようである。絵を描きに郊外にいたゴッホが倒れているのを、これまた有名な<郵便配達夫ルーラン>の絵のルーランが助けてくれる。そして開かれた扉の向こうの森に向かって歩き始めるのである。その森を抜け出したところに明るい光があるのであろうか。それとも、静かに憩わせてくれる森の息吹があるのであろうか。 残念ながら、ゴッホには生きている限り憩える場所はなかった。

三好十郎さんはそんなゴッホに対し、エピローグでゴッホをで認めなかった人々に怒りをぶつけ、日本に来たかったゴッホに対し日本の舞台で賛辞を贈る方法を試みたのである。

仲代さんは、ゴッホの弱さ、強さ、謙虚さ、攻撃性、病的な部分など細かに分析され演じられていた。それを取り巻く無名塾の役者さんたちも、苛立ち、優しさ、怒り、絶望、諦め、皮肉など人間の感情を濃く表現しゴッホを照らし出した。 ゴッホが画家として歩みはじめたのが27歳のときで、自らの命を絶ったのが37歳の時である。小林秀雄さんが、約650通のテオ宛の手紙から読み解いたところ、ゴッホは自分の病気さえもしっかり見つめていたそうである。

ゴッホは書いている。「愚痴を言わず、苦しむ事を学び、病苦を厭わず、これを直視する事を学ぶのは、眼もくらむばかりの危険を冒すのと全く同じである。」

ゴッホは正気に戻ると絵を描き、狂気の時はそれを受け入れ、そこから回復する正気までの妄想の時間をジット絶えたようである。しかし、その気力にも限界がきてしまったのである。何事も見て見て見抜き通したゴッホであった。

無名塾は3月には『おれたちは天使じゃない』を公演する。この映画は好きな映画なので楽しみである。

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