『炎の人』から『赤い風車』

舞台『炎の人』で、画家のロートレックが出て来たので、映画『赤い風車』を見直した。ロートレックの伝記映画であるが、画家たちが出てくる場面はワンシーンくらいで、誰なのかも解らない。ムーラン・ルージュの人々と、そこでの二度の彼の恋が話しの中心である。

ロートレックは、名門に生まれながら幼い頃両足を骨折し、それがもとで下半身の成長が止まってしまう。そうしたことが要因となり、彼は屋敷を離れパリのモンマルトルに住み、ムーラン・ルージュでフレンチ・カンカンを踊る踊り子や、それを楽しむ客などをスケッチしつづける。様々の画家がひしめき合い競い合い議論するなかでロートレックは彼独自の世界を描き続けるのである。しかし、他の画家との係りは出てこない。唯一彼の口から出てくる画家の名は<ゴッホ>である。

ロートレックは、街娼のマリイを警官から助け同棲するが、マリイは出て行ってしまう。落胆するロートレックの様子を見に来た母親が、屋敷でも絵は描けるのだから戻りなさいと諭す。その時、ロートッレクが云うのである。

「画家の知り合いがいます。ゴッホという奴でー 太陽に輝く麦畑を描いています。その輝きを見る者は圧倒されます。私には描けないし、彼にも私の真似はできない。私は裏路地や貧民街の画家です。」

『炎の人』でゴッホは画家たちの前で技法について語り、大切なのはその以前の問題だと語る。

「マネは光それ自体を描く、セザンヌは自然を分光器にかけて描く、ゴーガンは色を追いつめ還元して描く、スーラは分析して点で描く。どれにも真理はある。しかしだよ、考えて見ると、しようと思えば、そのどれで描くことも出来るじゃないか?そうだろ?だから、逆に言うと、どれで描いてもよいのだ。技法はどれを使ってもいいと言える。」「そうだ、画家が絵筆を取る前に、その画家の中に準備され、火をつけられて存在しているものだ。その事なんだ。つまり、その画家の生命そのものだ。」

画家たちが帰り興奮し<タンギイ像>に取り掛かるゴッホにタンギイは言う。

「あまり根をつめて描き過ぎるんじゃありませんかねえ。・・・すこし旅行でもなすったら?…アルルかニースあたりにいったらって、ロートッレクさんも、こないだ言ってらしたじゃありませんか?」

ゴッホは言う。

「ロートッレク・・・あれは良い男だ。」

『炎の人』と『赤い風車』の作家は別である。しかし、別の人が書きながらも、ロートレックとゴッホが感じているお互いの関係の認識は同じに感じてしまう。

もう一つ面白かったのが、韓国の人気俳優のイ・ビョンホンが二重人格を演じている『ひまわり』である。レンタルショップの払下げのDVDが安かったので、見たらイ・ビョンホンのファンである友人にあげようと思い購入したのであるがゴッホのひまわりの絵が出てくる。主人公の男性は、凶暴な時と優しい正常な時の二面性があり、正常な時、凶暴な自分に変るのを恐れ苦しむのであるが、凶暴になったときはどうする事も出来ないのである。これを見た後で『炎の人』を見たのであるが、この脚本家はゴッホから二重人格の主人公の設定を考えたのであろう。『ひまわり』の題名の意味が解ったのである。

『ひまわり』については、韓国映画は少し観たが、ドラマは見ないので全くの偶然の出会いであった。

小林秀雄の『ゴッホ』を段ボールから出して開いて見たら途中まで赤線が引いてある。かつて読もうと思って挫折したらしい。意外と今なら読めそうである。『炎の人』のお蔭である。ゴッホの全体像が見えてきたので、それがクッションとなり細部にも入っていけるということである。

今年は、もう少し本を読む時間を取ろうと思う。

年明けそうそう、『RDGーレッドデータガール』の続き5巻がきて四苦八苦したが、面白かった。ファンタジー小説でこんなに頭を使わされるとは思わなかった。

 

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