創造の情念の色・岩佐又兵衛

【傾城反魂香】(けいせいはんごんこう)の又平のモデルは、江戸初期の絵師・岩佐又兵衛とも言われている。かなり数奇な人生を歩まれた人である。昨年、熱海のMOA美術館で展覧会があったが、私が行った時には終わっていた。

岩佐又兵衛さんとは縁が有るような無いような関係で、彼の絵巻物の作品に、裸に近い女性が胸から血を出している絵がある。彼の絵の中でも異質でどうしてこのような絵を描いたのか。気にはなったが深く知りたいとは思わなかったのでそのままにして置いた。熱海で出会っていれば違っていたかもしれない。今回少し近づいて見る事にした。古本屋で<岩佐又兵衛>の名を目にしたので天井近くにあったのを取り出してもらったが、彼の三十六歌仙の絵の特集であった。後日図書館で画集を借りた。その絵は「山中常盤物語絵巻」であった。

絵巻のあらすじは <牛若丸が鞍馬から奥州平泉へ行き着き母・常盤に手紙を書く。常盤は牛若丸会いたさに侍従を一人伴い京から平泉に旅立つ。途中美濃の国・山中宿で旅の疲れもあり病気になってしまう。常盤の豪華な着物に目を付けた盗賊の一団が常盤と侍従の着ているものを身包み剥いでしまう。常盤は「こんな恥ずかしいことはない、肌を隠すものを返さないなら命を奪えと」叫び、盗賊はその言葉どうり常盤を刺し殺すのである。牛若丸は母が夢枕に現れるので気になり京に向かい偶然中山宿で泊まり、事の次第が解かり母の仇を討つのである。>

牛若丸と常盤御前の母と子の物語であった。この絵巻は、近世の古浄瑠璃の詞書(テキスト)とともに描かれていて、当時人気のあった古浄瑠璃の出し物である。(古浄瑠璃→慶長から元和・寛永のころにかけて上演された操浄瑠璃) 絵巻は十二巻ある。絵巻はこの頃は貴族から庶民の中にも入ってきたわけである。その事が解かりやすいリアルな絵になったのかもしれないが、もう一つ想像できる理由がある。それは、岩佐又兵衛のおいたちである。

岩佐又兵衛は織田信長に信任の厚い城摂津伊丹城主・荒木村重の末子として生まれる。父は突然信長に反旗を翻し、城が落ちる前に脱出、怒った信長は荒木一族600人あまりを処刑。当時二歳の又兵衛は乳母の手で京都の本願寺教団にかくまわれて育ったと云われている。成人してから信長の子信雄に仕え、名を母方の岩佐に改名したが武人としてではなく村重の遺児として詩歌や書画の才能を生かす渡世を選ぶのである。その後、越前北之庄・福井の城主・松平忠直(菊池寛著「忠直卿行状記」のモデルでもある)の下で暮らす。晩年の十数年間は江戸で暮らし江戸で亡くなっている。

父の村重は逃げ延び、剃髪して道薫と号する茶人として秀吉に仕え摂津にわずかな所領をもらい堺で没している。又兵衛が父と会ったかどうかは不明である。「山中常盤物語絵巻」の常盤の最後の場面は、又兵衛の母の最期と重なっているように思う。こうした血なまぐさい情景を凝視しつつ、母と子の物語を描いた又兵衛の中には、自分が仇をとったような高揚感があったかもしれないし、それを見る庶民も常盤の悲惨さが盗賊退治により一層喝采したのであろうか。そう思って見ると、又兵衛もここで母に対する想いが突き抜けたようにも感じる。

<浮世又兵衛><憂世又兵衛>とも云われた絵師を、近松門左衛門は<浮世又平>のモデルとして選び作品として仕上げた想像力と創造力の合体に何かしら細い糸が共鳴しあっているように思われてくる。近松も武士を捨てている。<又兵衛>と<又平>と<近松>。この情念の色はきっと同じ色である。

 

 

 

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