浅草映画『乙女ごころ三人姉妹』

乙女ごころ三人姉妹』は成瀬己喜男監督の浅草の門付け芸人を母にもつ三姉妹のそれぞれの生き方を描いた作品です。原作は川端康成さんの『浅草の姉妹』で、脚本は成瀬己喜男監督です。川端康成さんは一高生時代に浅草で暮らしており、その後も浅草に住み浅草を散策していまして、『浅草の姉妹』も浅草物作品の一つです。

川端康成さんは映画にも興味を持ち、衣笠貞之助監督の『狂つた一頁』では、脚本に参加していまして、この作品は大正モダニズムのアヴァンギャルドな映画です。見た時、これが衣笠監督の映画かと驚きました。

成瀬監督の映画のほうに舵をとりますが、<映画監督・成瀬巳喜男 初期傑作選 >特集の中から『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)『サーカス五人組』(1935年)『旅役者』(1940年)と見たのです。『乙女ごころ三人姉妹』の長女が細川ちか子さん、次女が堤真佐子さん、三女が梅園龍子さんで、堤さんと梅園さんは、『サーカス五人組』での団長の姉妹となって登場していました。

乙女ごごろ三人姉妹』 母親が三味線を抱えて民謡や俗曲などを歌って流す門付けの置屋のような商売をしていて、そんな母親に育てられた実子の三人姉妹のそれぞれの生き方をえがいています。実子のほかにも何人か女性の流しの芸人を抱えています。

この仕事はいつ頃まであったのでしょうか。三味線を抱え、浅草の繁華街の飲食店ののれんをくぐり聴いてくれるお客を探して歩きます。三人姉妹のうちこの仕事をしているのは、次女のお染だけで、なかなか厳しい仕事で、くじける妹弟子におこずかいをそっと渡したりします。酔ったお客にからまれたり、お店の女給さんなどから、あなた達に用はないわよとばかりにレコードをかけられたりします。民謡などのレコードも出てきている時代で先の無い仕事にみえます。

妹弟子たちは、母から厳しく稽古をつけられたり、勝手にお金を使ったと叱責をうけたりします。そんな生活をいやがり、長女のれんはバンドのピアノ弾き(滝沢修)と駆け落ちし、三女の千栄子はレビューの踊子になっています。

お染は性格が優しく、姉のことを心配し、妹に恋人(大川平八郎)がいることを喜びます。そんなとき姉と浅草の松屋の屋上で会います。姉はよくこの屋上が好きでそこから下を眺めていました。話しに聞く1931年(昭和6年)にできた浅草松屋の屋上のロープウェイ「航空艇」もしっかり見ることができ、これが見れる貴重な映画です。屋上とその下の生活の違いをうかがわせるように下の風景が映しだされます。れんは下の生活のみじめさをじっと眺めているようです。

れんは浅草の不良仲間では名前を知られていましたが、駆け落ちして夫もバンド仲間からはじかれてピアノの仕事が出来ず胸をわずらい、夫の故郷に行くことをお染に告げます。お染は見送りに行くことを約束しますが、妹の恋人が不良仲間に因縁をつけられているのを見てその場に飛び込み刺されてしまいます。それを隠して姉を見送りに駅に行きます。

姉は汽車賃を得るために、知らずに妹の恋人を不良仲間のところに案内する役目をしていました。お染は何も言わず、妹に恋人が出来たことを嬉しそうに姉に告げ姉夫婦を見送るのでした。

次女の堤真佐子さんと、三女の梅園龍子さんは、創立間もないPCLの売り出し中の新人で、堤真佐子さんは初主演です。見始めたときは、あまりのオーソドックな演技に、ものすごく古い映画を見ているような感じでした。細川ちか子さんのれんに、かつては粋がっていたが今は生活に押しつぶされそうな雰囲気が出ていて、三人姉妹の境遇にもそれなりの厚みが増します。

細川ちか子さんは、演技に対しては一言申しますといった気概があり、お化粧も個性的な新しさがあります。梅園龍子さんは榎本健一さん代表の「カジノ・フォーリー」の踊子さんでもあり映画でも彼女のレビュー舞台姿が映されます。川端康成さんはカジノ・フォーリーに出入りしていて、それが作品『浅草紅団』となります。大川平八郎さんは二枚目で、『音楽喜劇 ほろ酔い人生』『乙女ごころ三姉妹』『サーカス五人組』『旅役者』にも出演されていますが、スターという二枚目ではなくおとなしめです。

藤原釜足さんも出られてました。弟子が民謡を稽古するのをそばの住人が聴いてそれに合わせて仕事をする桶屋です。子供達が、流しの彼女たちを「お客さん、ご馳走して。」とはやし立て、はじかれていく一方で、その歌に調子を合わせるという生活もあったわけで、このあたりの表現の交差は成瀬監督ならではの細やかさです。

お店でレコードがかかる場面で、レコード時代が到来しているときなのであろうかと思ったのですが、タイミングよくテレビで『人々を魅了した芸者歌手』という番組がありまして時代背景がわかりました。

民謡や小唄などをすでにプロとしてお座敷で披露していた現役の芸者さんが、歌手としてレコード録音するのです。藤本二三吉さんの『祇園小唄』が1930年(昭和5年)で、その後、<鶯芸者三羽がらす>の市丸さん、小唄勝太郎さん、赤坂小梅さんが、故郷の民謡と同時に新民謡を広めるんです。

門付けの三味線を抱えての流し芸は、持ちこたえられる時代ではなくなっており、三人の姉妹はそうした変化の中で無理解な母のもとでもがいて各自の道を探すのです。そして、人々は浅草からもっとモダンな銀座へと移って行った時期でもあるのでしょう。

この映画は映画の中だけでなく、出演している俳優さんの経歴の違い、さらに演劇と映画、浅草と文学、浅草の時代性、さらに日本のその後など、様々な切り込みのできる映画でもあるといえます。この時代の浅草を映像で残してくれた貴重な映画でもあります。

話しは飛びますが、市丸さんが浅草橋で住まわれた家が改装され、今は「ルーサイトギャラリー」となっております。このギャラリーの信濃追分店は、「油や~信濃追分文化磁場~」となっていまして、堀辰雄さん、室生犀星さん、立原道造さんなどの文学者にゆかりのあるかつての油屋旅館で、一階はギャラリーで二階は宿泊できるようなったようです。

「油屋」は中山道追分宿の旧脇本陣で、一度火事にあっています。私が訪れた時は、建物はありましたが公開はしていませんでした。思いがけないところで新しい「油屋」さんを知りました。追分宿にひとつ景観がよみがえったわけです。しなの鉄道の信濃追分駅から徒歩20分位で近くには、堀辰雄さんの旧居が堀辰雄文学記念館になっています。

 

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