国立劇場『通し狂言 塩原多助一代記』

『塩原多助一代記』は歌舞伎では52年ぶりの上演で、通しでは83年ぶりだそうである。どこかで「塩原多助」の噺と芝居があるという事は目にし、苦労して財を成した人までは解かっていたがそこまでであった。

8月に<本所深川の灯り(2)>で下記のように記した。

>三遊亭円朝旧居跡(この地で塩原太助一代記を書く)・山岡鉄舟旧居跡などなど歴史の足跡が沢山ある。

それが、国立劇場で購入した「三遊亭圓朝の明治」(矢野誠一著)で圓朝と鉄舟との交流関係を書かれていた。さらに「塩原多助」は初め塩原家の怪談話から取材していたが出世一代記となった事も書かれている。江戸から明治を生きた芸人の半生記が簡潔に書かれていて引き込まれる本である。

その辺の事は別にして歌舞伎としての「塩原多助一代記」に入る事にする。

解かりやすい芝居である。芝居を見ていけば多助の人間性も解かるし、多助の商売に対する姿勢も解かる。多助は子供の頃、親の出世の為に塩原家の養子なる。養父が亡くなり後妻の母に虐められ命も危うくなり江戸へ逃げ、炭屋に奉公し独立して嫁も貰い目出度し目出度しとなるのである。

役者さんたちの台詞が聴きやすくある面では、歌舞伎として演技的に物足りないとも言えるが善と悪に際立って分けると言うのではなく、多助の質実な生き方を中心に据、恨みを薄めて前に進む多助像を生かしたといえる。

多助(坂東三津五郎)の父、塩原角右衛門(市川團蔵)は沼田で偶然同姓同名の百姓と出会い50両で息子を養子にするが、その時父はあくまでも預かっていた息子を実の親に返し、今まで育てた礼として50両を手にすると自分に言い聞かせる。その為、多助が江戸で仕官した親と逢った時、父はなぜ実家を見捨てたのかとなじり多助とは逢おうとはしない。このあたりは母親(中村東蔵)の想いとは違う父親像で、多助は恨みつつも沼田の実家の再興を心に決めるのである。

多助は養父(坂東秀調)の後妻のお亀(上村吉弥)の連れ子のお栄(片岡孝太郎)を嫁にしているが、お亀親子は侍の原丹治(中村錦之助)丹三郎(坂東巳之助)親子と不義をし邪魔な多助を離縁して追い出したいのだが多助は分家の太左衛門(河原崎権十郎)の助けもあり養父に背くことになると承知しない。そこでお亀・原親子は多助殺害を企てる。

ここで多助と愛馬青との別れの場面となる。仕事の帰り青はなぜか前に進まない。何かを察知している。そこへ友人の百姓円次郎(中村橋之助)が多助の代わりに青を引いてくれる。円次郎が気の良い性格で多助の身代わりとなった時、なかなか多助が円次郎を残して逃げれない気持ちがわかる。それを押しての青との別れが胸に響く。多助の情、青の鼻息、尻尾の振り方、袖の引っ張り合いなどいい場面である。この場面が後に、落ちぶれた姿で幼子を連れたお亀と逢って青の消息を聞くとき観客はこの場の青を思い出し、青の活躍に溜飲を下げ青の無念さを思うのである。そして多助が幼子とお亀を引き取るのも、青の人間よりも一途な思いにかられてと納得できるのである。この間にお亀と原丹治がだまされる場面と悪党道連れ小平次(坂東三津五郎)のゆすりの場があるが芝居としては薄味である。それゆえに、多助の生き方に目がいくのであるが。

そんな多助に縁談があるが相手が大店の娘お花(片岡考太郎)であるため身分違いと断る。多助の仕事仲間の久八(中村萬次郎)の養女となったお花は、長い振袖を鉈で断ち切り、共稼ぎの炭の粉で暮らす覚悟をみせ目出度し目出度しとなる。嫁については、前のお栄の事もあり貧乏に負けない相手を多助は望んでいたのであろう。

ただ多助は倹約だけに務めてる訳ではない。入って来たお金にもっと働いて来いとだしてやり、もう十分働いて動けなくなったら収めるのだという。また、お金のない人達には炭の計り売りをしお客の便宜を考えた商売をする。多助の堅実さが商売にも生かされるのである。

「三遊亭圓朝の明治」(矢野誠一著)の本には、圓朝の<不肖の倅>の事が書かれている。もしかすると圓朝が『塩原多助一代記』を一番語って聞かせたかったのはその<不肖の倅>になのかもしれない。

 

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