高野山

12月の文楽は「刈萱桑門筑紫いえづと(かるかやどうしんつくのいえづと)」と「傾城恋飛脚」である。この「刈萱桑門筑紫いえづと」は高野山に残る<石童丸伝説>から作られている。

<石童丸伝説>は、加藤左衛門尉繁氏(かとうさえもんのじょうしげうじ)は筑前国(福岡県)の領主であったが、妻桂子(かつらこ)と側室千里との間の嫉妬の苦しみを見抜き、世の無常を悟って出家し刈萱道心となる。その直後生まれた石童丸は母千里と父を訪ねて高野山へ行く。病の母を宿に残し一人高野山へ登り偶然、刈萱道心と出会うが父は名乗らない。母を病で亡くした石童丸は再び高野山に戻り、刈萱道心(円空)の弟子となり親子の名乗りを上げないまま、ともに厳しい修行に励んで生涯を送った。

この物語は諸国を回る高野聖たちが高野山信仰を唱導しつつ話して聞かせた。

「平家物語」にもでてくる<横笛>は建礼門院に仕える雑仕横笛との身分違いの恋が叶わず出家した斉藤時頼(滝口入道)を追い横笛も尼となり天野(かつらぎ町)で再会出来ぬまま19歳で病死する。(「平家物語」では歌を交わし、横笛は奈良の往生寺で世を去ったとある)

また、西行法師も高野山に庵室をかまえた。妻と娘はやはり天野の里に住まい西行は時々高野山からそこを訪ねたとも伝わる。

明治の初めまで女人禁制で、有吉佐和子の「紀ノ川」にも慈尊院までは上がれてこの寺を女人高野と云うとある。この慈尊院の場は空海が高野山麓の庶務を司る政所をおいたところで空海の母もここに留まっている。この政所に藤原道長・白河上皇・鳥羽上皇等も宿所としている。

戦国時代には秀吉に疎まれた秀次も高野山に追放され自刃している。真田昌幸・幸村親子も高野山に追放され、昌幸は病死するが、幸村は高野山を抜け出し徳川と戦い討ち死にしている。

宿坊に泊まりたくて友人と三人で高野山の宿坊に泊まったことがある。般若湯(はんにゃとう・お酒)も頼むことが出来た。

友人のまとめてくれた記録によると<本場精進料理ごま豆腐は絶品>、<闇夜に聳え立つ木立の上にほんのり霞む月>、<帰宅したら日々修行(掃除)をしようと決意?>とある。宿坊は何処もかしこも磨かれていて、三人掃除の大切さに目覚めたのだが?

朝の勤行の後、もう一人の友人は次から次へと質問をし、深きお話も聞け、持つべきものは友人であると悟ったが、お二人覚えているであろうか。忘れた者にお助けを。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です