ドキュメンタリー映画二本

『シュガーマン 奇跡に愛された男』

聞いたこともない<ロドリゲス>という名の歌手のドキュメンタリー映画である。チラシによると 「70年代デトロイト、忽然と姿を消した幻のシンガー、ロドリゲス その歌が国と時代を超え 南アフリカで奇跡を起こしていく 驚くべき人生に胸が震える」

デトロイトの外れの小さなバーで歌っていた若者が見い出されアルバムを出す。全く受け入れられず忘れさられてしまう。失意のうちにコンサートの舞台で自殺したとの話が残されている。その彼の歌が誰が運んだのか海を越え南アフリカで爆発的に支持される。その歌は南アフリカの反アパルトヘイトの若者達のシンボルとなり、その後も20年に渡って広い世代に指示される。ロドリゲスは、デトロイトの町を歩きまわりそこに生活する人々の気持ちを自分の気持ちに同化させ歌にした。その生活からミュージシャンとして飛びたてなくて絶望したのであろうか。

この先は先入観無しに映画で見て欲しい。映画館を出る時その一歩が軽くそれでいて力強く地を踏みしめていることに気づく。

 

『長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ』

長嶺ヤス子さんの名を聞けばフラメンコである。彼女の踊りを実際に観た事が無いのであるが、我の強い方との印象をなぜか持っていてる。それは民族的意味合いの濃いそれもジプシーの踊りの中に日本人が入り込めるのか、そこに挑戦し続ける人というのは余程の我と欲がなければ出来ないと思ったのである。この映画での長嶺さんは猫と犬を愛しフラメンコを踊るおばさんである。そう思われても長嶺さんはその事に頓着する暇も感慨もないであろう。100匹以上の捨て犬や猫と暮らしていて可愛い可愛いではなく<命>と供に生きている。<命>の醜さも愛しさも全てを奢ることなく受け入れている。だからフラメンコに対しても美しさだけを求めてはいない。

憎しみ、嫌悪、憎悪、邪悪ら全てを吐き出している。その後に何が残るか。死を目の前にしている犬の不安ややるせなさへの寄り添う心であり<命>である。<命>に対峙していなければ長嶺さんは踊れないのかもしれない。その踊りは(映像)何かに対して抗議しているようでもある。言葉を発せられない弱気もののために。そして<命>に対してはただその存在を愛しく撫で続けるのである。

“でも、ホントのわたしじゃないかもよ” と付け加える。そこに観る者の逃げ場を造ってくれる暖かさがある。ドキュメンタリー映画の痛いところも突いている。重いことを軽く言ってのけるふんわりとした言葉が聞くものを包みニンマリさせる。孤高でありながらこんなおばさんがそばにいてくれたら<命>も曇り時々晴れになるであろう。晴れっ放しではない時々晴れでいい。

 

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