八月納涼歌舞伎(歌舞伎座) (1)

勘九郎さんの『春興鏡獅子』、勘九郎さんのものになっていた。
勘三郎さんの弥生の愛らしさが頭の中にあるので、その姿とだぶるのではと危惧していたが、全く勘九郎さんの弥生であった。体形が違うので、勘九郎さんは自分の体形で美しく見える形を追求し、その身体的美しさに惚れ惚れしてしまった。相当身体的負担を自分に課していたことと思う。扇に余り気を使い過ぎない方が良いらしいが、二枚扇も綺麗であったし安定していた。そして眼が良い。視線が無理なく体の動きに合わせて涼やかすうーっと伸びる。迷いや力みがなく、江戸城の御殿で指名されて素直に踊りの世界に入っている弥生である。その為、獅子頭が蝶と戯れて動き出す時の驚きも、踊りの世界に入っているその世界で起こったことのように、現実に戻る前にすーっと引っ張っていかれたようで最後までその身体は美しく花道を消えていった。
獅子になって出てきたときが立派で、やはり、弁慶役者に成れると思った。大きく、ジャンプ力もあり、膝を痛めたことがあるのに大丈夫なのだろうかと心配になったほどである。友人が、涙するのではないかとハンカチを用意していたが、大丈夫であったようである。彼女は、勘三郎さんを勘九郎さんを通して思い出すと思ったようである。私は、勘三郎さんを自分の回りから消し、勘九郎さんの『春興鏡獅子』にした練磨に涙した。これからさらに、どんな『春興鏡獅子』にしてくれるのであろうか。今はただ<勘九郎>その人の『春興鏡獅子』であった。これを観て、これは『棒しばり』が面白くなると、心が踊る。期待した通りであった。
三津五郎さんが、やはり上手い。手を棒に縛られていても、下半身と足さばきはさすがである。勘九郎さんも対等に自分の踊りを披露する。狂言舞踊ということで楽しい踊りであるが、腕が固定されているだけに、身体のバランスと動きがあからさまにもなる。それをやはり優雅さも加味しつつ楽しさへともっていかなければならない。程良い次郎冠者と太郎冠者の明るさと連れ舞いの息の合い具合。主人が帰ってきて<お酒を飲んだであろう><わたしは知りません>の最終やり取りも、二人が存分に飲み踊りあかし、それを楽しませて貰った観客も、<知りません>と一緒に言いたくなる可笑しさである。
勘三郎さんと三津五郎さんコンビの『棒しばり』は忘れることはない。だが、新しい組み合わせで前進する役者さんの心意気には拍手を惜しまない。

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