「あまちゃん」の原風景

人気テレビ朝ドラが今日で終了した。その日に、脚本家・水木洋子さんのラジオドラマ「北限の海女」の脚本を読むことが出来た。

市川市八幡に故人・水木洋子さんの家が修復され、決められた日時に公開されている。今回が二回目の訪れなのであるが、市川市文学ミュージアムの永井荷風展で水木さんのラジオドラマ脚本に「あまちゃん」に先駆けて、海女を題材とした作品があるというポスターを目にする。その資料展示も今回見れるということである。

水木さんの家は、鎌倉にある吉屋信子さんの家を参考にされていて様々な工夫をされている。吉屋信子邸にも行ったが細部の記憶がないが、水木邸の書斎の方が明るい印象がする。ただ物書きの方は明る過ぎると落ち着かないと考える方もある。

ラジオドラマの話にもどすと、「あまちゃん」のロケの行われた久慈市の小袖海岸に50数年前、他の取材が上手くいかず、偶然と云うか縁と云うか、北限の海女のことを知るのである。「あまちゃん」の設定では北三陸の架空の場所ということになっている。「北限の海女」にも特定の地名は出てこないが、全くの陸の孤島が昭和31年に6年かけて小袖海岸道路が開通し、小袖海女が北限の海女として注目を集めたのである。そのことは、久慈市の<北限の海女 今昔 編集委員会>のかたが、「北限の海女 今昔 」の雑誌を平成25年3月に出され、水木洋子邸で手に入れることができたから知ることが出来たのである。

ラジオドラマ「北限の海女」は1959年NHKで放送され、その年の芸術祭賞をラジオ部門で受賞している。それから50年後の2009年に久慈市で50年を記念してドラマの資料展を開催している。そして2013年には宮城県出身の宮藤官九郎さん脚本の「あまちゃん」誕生となったのである。

水木さんの「北限の海女」は、夫を亡くした三十歳の私が、夫の母と三歳の子供を抱えて、洋服に名前を刺繍する仕事でやっていけるのかどうか思いあぐね、東京からこの北国へ旅だって来たのである。そこで、同じ海女でも境遇の正反対の二人の女性に会うのである。一人は北山ひで(68才)で高波で両親を亡くした孤児で一人で海女の技術を身に着け、さらに三人の夫を失っている。もう一人は岩田たか(70歳)でひでに比べると生活も安定している。この二人はお互い海女の腕くらべの仲間でもある。その勝敗を着けることになり、私は自分の境遇から考えてひでに勝たせたい、そのことによって自分の生きる方向も決まるような気がしている。結果的には、ひでのほうが勝つのであるが、生活というものは、それで全て良しとは成らない現実を暗示して終わる。私にとっては辛いことであるが、しかしひではそのことは初めから分かっていたように、勝ちに頼ることもなく、今までの生活を続けるのである。それが、ひでの生きてきた現実なのである。

私がそれを、どう見てどう考えるかは水木さんは結論を出していない。これはラジオドラマを実際に聞くと何かが見えてくるのかもしれない。話の中から、かつての北限の海女の厳しさが、岩に砕ける冬の波の音と供に伝わってくる。

今度、このドラマ公開をするようなときは市民サポーターのかたが連絡してくれると言ってくださった。さらに横浜の放送ライブラリーで、このラジオドラマのほか数点、水木さんのテレビドラマも見られるそうで、そちらで先に聴くことになりそうだが。

演出・森理一郎 / 作・脚本・水木洋子 / 出演・北山ひで(原泉) 岩田たか(賀原夏子) 私(荒木道子)

市民サポーターの方々が水木さんの家の管理、資料の整理、説明などしてくださるのだが、水木さんの事だけではなく、永井荷風さんの話もでき、さらに、市川には平 将門伝説もあるそうで、その話も聞くことができ、市川市民でないこちらとしては随分お世話になってしまったのである。

水木さんの取材ノートには、方言として<じぇ じぇ じぇ>も記してあり、サポーターのかたが、資料の中からそれを見つけ、自分が印をつけたと言われていた。何人かのサポーターのかたを独占してしまった。

20代の頃、旅で三陸の浄土が浜が気に入り、仕事先に仮病をつかい休暇を伸ばしたことを思い出した。 宿泊先の夕食が炉辺での海産物の焼き物で、あのほの暗さの煙のもやは忘れられない心地よさであった。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です