テレビドラマ『砂の器』(1977年)

テレビドラマ『砂の器』(1977年)は簡単に終わるとおもったのですが、脚本が伏線を挿入していて、ラストは長嶋茂雄さんの引退と重なるという思いもよらない展開でした。このドラマが放送された1977年に見た方は、1974年のプロ野球の勝敗の様子が浮かんだかもしれません。野球にそれほど興味の無い者にとっては伏線の濃厚さんに驚かされました。脚本は仲代達矢さんのかけがえのないパートナーであった隆巴さんでした。

第二話と第三話には役者・宮崎恭子さんとしても出演もされていました。早くに役者をやめられていましたので宮崎恭子さんの演技が観られなかったのですが、今回観ることができました。舞台役者さんとしてしっかり基礎を身につけられ演出もされていますので短い出演ですがやはり間の流れの切れがいいです。

昭和49年(1974年)7月10日払暁 大田区蒲田電車区でレール上に遺棄された死体が発見されます。顔は意図的になのかわからないほど壊され残忍なことから怨恨説が考えられました。 

この事件を担当し、捜査本部解散のあともコンビで捜査に当たるのが、西蒲田署の吉村弘(山本亘)と警視庁捜査一課の今西栄太郎(仲代達矢)です。

この今西がプロ野球の巨人ファンで、巨人の勝敗が何よりの関心事で、事件に対する真剣味にかけるのです。単なるそういう人物設定かと思いましたらずーっと野球の勝敗がでてくるのです。時間と共に今西の野球に対する熱心度に変化が出てきます。今西は事件の難解さにのめり込み、次第に謎に熱中していきます。事件が野球と同じ位置になり、事件解決が野球よりも上になっていきます。

面白いのは、事件の経過報告の日にちが知らされていたのが、それよりも野球の途中経過の日にちが知らされるようになります。世の中もう事件のことなど忘れていて、中日と巨人の優勝争いに沸き立っています。みんなが違う方に目が移っているときもコツコツと真実と向き合っている人がいるということの裏返しのようにおもえました。

この事件の手掛かりは、殺された人と犯人とのバーでの会話でした。「かめだは変わりありませんか。」「かめだは相変わらずです。」殺された人がズーズー弁だったということで秋田県の羽後亀田が特定されます。しかし、手掛かりがありません。さらに出雲弁もズーズー弁の仲間だということを知ります。そして見つけられたのが島根県の亀嵩(かめだけ)です。『砂の器』を読んだとき松本清張さんはよくこのからくりを探し当てられたなと感嘆し惹きつけられました。

殺された人は岡山に住む三木謙一とわかります。亀嵩で巡査をしていたことがあったのです。ところが善行の人で人から感謝されても恨まれることはなにもないのです。

今西と吉村が羽後亀田に出張したとき秋田美人とも思われる女性に会っており、その女性が蒲田電車区近くで自殺未遂をし失踪します。その女性の二通の遺書から、劇団と関係があるとして東京の劇団を訪ね歩きます。その女性・成瀬は民衆座という劇団の事務局で働いていましたがやめていました。その民衆座で今西の受け答えをしてくれるのが川口(宮崎恭子)でした。

今西と川口のやり取りは相手の台詞の橋渡しが上手く、重要な発見の場をさらっと位置付けてくれます。まだまだ謎は深まるばかりですからテンポが上手く的確なやりとりでした。

今西と吉村が成瀬を見たとき一緒にいたのが劇団の舞台装置担当の宮田でした。宮田は事故か他殺か亡くなってしまいます。この成瀬と宮田と京都の高校で同窓生だったのが天才音楽家の和賀英良(田村正和)でした。しかし、殺された三木とのつながりがありません。

今西にはつらい過去があり、自分の刑事魂の不注意から息子を交通事故で亡くしています。妻も去り、彼は息子の死という過去を消し去ることができないでいました。

一方、善意に満ちた人を自分の過去を消すために殺してしまうという人間もいました。懐かしいという感情は、過去を消した男にとっては邪魔なだけでした。その人が善人であるかどうかなどは判断材料にもならなかったのです。

今西は殺された三木が善人過ぎて犯人がなぜ殺したのか想像がつかなかったのですが、吉村が恋人との電話の受け答えで明るく「困るねえ今頃、そんなこと覚えてもらっていても。」という言葉から、三木巡査が良かれと思ってした善行の結果がこの事件の原因となりはしないかとおもいいたるのです。

そこから三木巡査が面倒を見た巡礼親子・本浦千代吉・秀夫の本籍地石川県へ行き、さらに三木が伊勢参りから急に東京に出てきた原因をさがしに伊勢にいきます。三木はそこで映画を観ていました。映画を試写してもらい観ますが何も見つけられません。

吉村の恋人がニュース映画のことを話し二人はニュース映画のあることを知ります。捜査のきっかけに日常的な会話が重要な役割を果たしています。三木が見たニュース映画に和賀が写っていたのです。

ニュース映画は「中日ニュース」で<熱戦!中日~巨人>首位争いで、我賀が球場で観戦しているのが写っていたのです。我賀には額の左に傷があり、それがしっかり写っていましたった。三木はこのニュース映画を見て立派になった巡礼の子に会いたくなったのでしょう。

昭和49年(1947年)10月12日、今西は和賀の本籍地大阪にいきます。そこは戦争で焼け野原となり、本籍原簿も焼失し本人の申し立てによって本籍再生が認められていました。和賀英良の父母は大空襲の日に亡くなっていました。老婦人からピアノなどの楽器修繕屋の和賀夫婦には子供がなく、戦争浮浪児が手伝いをしていたということをききます。中日が20年ぶりに優勝した日でした。

和賀英良は大臣の娘と婚約していて、大臣宅で海外に演奏旅行に行くまえのセレモニーとして新作曲「炎」を婚約者と二人でピアノ演奏しています。彼は自分の中にいろんな炎があると語っていました。栄光への炎が一番強かったのかもしれませんが、いつかその炎は、過去を消す炎のほうが大きくなってしまったようです。

和賀が逮捕された日、長嶋茂雄さんの引退がテレビで放送されています。今西は「終わった。終わった。全部終わった。」とつぶやきます。事件は解決しましたが、違う幸せから遠のいてしまったようです。

今西にも伏線がありました。過去のことから、妻の妹ととの心の交流があったのです。それも終わりました。

今西には栄光はありませんでした。ただ、再び事件解決への自分の仕事への想いはつながったことでしょう。終わってみればこういう熱い捜査も変わる時期に来ているのかもしれません。ただ一人の後輩にはその道は伝授されたでしょう。

仲代達矢さんの今西はとにかく歩いて歩いて探し出し確かめるという刑事です。夜行の列車での出張で自費で調べに行ったりもします。そのため少しでも手掛かりがあると野球の勝敗よりも手応えを失くしていた勘をとりもどしのめりこんでいきます。ただ理知的根拠に基づいているともいえます。それと同時に義妹との感情のもつれを細やかな振幅で表現されました。

田村正和さんの和賀は全く炎を見せません。ただ人を操る自信はあるようでそれを悟られないように優雅なたたずまいです。なんの苦労もなく才能に恵まれて格好よく生きてきたという感じを崩しません。逮捕されても少し表情を硬くし静かに後姿を見せ去っていきます。炎の内面は、子供時代の子役さんによって伝えられます。

登場人物として和賀の親友で新進評論家・関川重雄の嫉妬という感情もからんでいます。和賀は関川の嫉妬も冷静に受け止めていました。あらゆる感情を自分の物差しで判断しながら善良さということには気がつけなかったのです。

原作とも、映画とも違う社会現象とオーバーラップさせるという手法を使われた脚本でした。その交差の複雑さを丁寧に計算されて展開させた力量が素晴らしいと思いました。

和賀英良、正しくは本浦秀夫の足跡を簡単にたどります。

石川県の寒村に生まれました。父・千代吉はシナ事変に出征し帰還しますが精神を患い働くこともできません。妻はそれを悲観して秀夫を抱いて飛び降り自殺をします。秀夫は奇跡的に助かり、左おでこに深い傷跡を残します。千代吉は秀夫をかわいがるので、親せきは親子を巡礼として送り出します。

亀嵩で三木巡査は困っている巡礼親子の面倒を見、父親は精神病院にいれ、子供は引き取りますが秀夫は3か月後に失踪します。

大阪で戦争浮浪児として生き抜き、新しい戸籍を作り、進駐軍に出入りのバンドボーイからつてで渡米。才能を開花させ、後ろ盾も手に入れていました。彼はもっと光り輝く上を目指していたのです。

脚本に興味を持ちネタバレになってしまいましたが、第1回から第6回で最終回ですので、もし観ることがあれば違う部分に気を取られて忘れていることでしょう。二回観ましたが結構記憶が飛んでいました。

追記: 舞台『左の腕』のパンフレットでも、松本清張さんの原作ではないのですが清張さんが出演されている映画として『白と黒』(堀川弘通監督)が紹介されていました。橋本忍さんのオリジナルシナリオで手の込んだ展開で奇抜な作品です。弁護士の仲代さんが不倫相手に手をかけてしまうのですが、犯人として別の人が捕まります。弁護士は罪の呵責から真犯人は他にいるのではというので、担当検事である小林桂樹さんが調べ直すのです。仲代さんと小林さんによる、白と黒の目の出どころが見ものです。

追記2: 松本清張さんがチラッと出演するのがNHK土曜ドラマ「松本清張シリーズ」(1970年から1980年代)です。その中の「遠い接近」(脚本・大野靖子、演出・和田勉)は小林桂樹さんが、選ぶ人の感情に左右されて招集されもどってみると家族は広島で亡くなっており招集担当者への復讐を誓います。ここでもサラリーマンシリーズとは違う小林さんの演技がひかりました。仲代さんの映像出演作品には共演者の演技にも目がいきその役者さんの作品を追ったりします。今追うことができる方法があるのが嬉しいです。

追記3: 映画『すばらしき世界』(脚本・監督・西川美和)。<すばらしき映画>でした。長いこと刑務所暮らしをしていた主人公(役所広司)が出所して普通に生活していけるかどうか。観ている者も<怒るな!怒るな!>と祈るような気持ちになりますが、怒らない方が正しいのであろうかと疑問に思わされる映画でもありました。西川美和監督作品の切り込み方は鋭くて深いのですが優しさがあります。

追記4: 『TV見仏記4 西山・高槻篇』を観ていたら、ある仏像の手の美しさを褒めていて、「ピアニストの手だね。『砂の器』系だね。」のみうらじゅんさんの発言には笑ってしまいました。お二人の発想のみなもとの多様性がうらやましいです。

追記5:  みうらじゅんさんの文庫本『清張地獄八景』を書店で横目でみつつ通り過ぎています。引きが強いです。

              

幕末の庶民の人気者・森の石松

思うのですが幕末の庶民の人気者と言えば、森の石松ではないでしょうか。講談や浪曲で圧倒的人気を得ました。

喧嘩早く、情にもろく、ちょっとぬけているところもあり、都鳥にだまし討ちにあって無念の最後というのも愛すべきキャラクターとしては条件がそろっています。

勘三郎さんの勘九郎時代のテレビドラマ『森の石松 すし食いねェ! ご存じ暴れん坊一代』を観ました。よく動き体全体で感情を表す森の石松です。

観ていたらシーボルトが出てきたのです。シーボルトが江戸へ行く途中で、それを見たとたんに石松は走り出します。江尻宿でしょう。仲間の松五郎の出べそを治療してもらおうとするのですが望みはかないませんでした。

そして次郎長親分の名代で四国の金毘羅へお礼参りに行くのです。そして金丸座で芝居見物です。上演演目は『先代萩』です。前の客’(鶴瓶)がうどんを音を立てて食べていて、石松は「うるさい。」と文句を言います。舞台は八汐が千松に短刀を突き刺しています。石松は芝居だということも忘れて「何やってんだよ。」と騒ぎ立てうどんの客と大喧嘩となります。

舞台の八汐、「何をざわざわさわぐことないわいな。」。勘三郎さんの八汐がいいんですよ。この台詞を聞けただけでもサプライズです。さらに舞台の役のうえでの台詞と、観客席の騒がしさ両方にかけた台詞になっているというのが落としどころ。

石松と八汐。同じ人とは思えません。

政岡( 小山三)が「ちょっと幕だよ、幕、幕・・・」。閉まった幕の前で千松(勘太郎)が「うるさいよ、おまえ。人がせっかく芝居しているのに。」と怒鳴ります。笑えます。と映像は切り替わり、三十石船を映しだし船上へと移ります。知れたことで「江戸っ子だってね。」「神田の生まれよ!」(志ん朝)となります。お二人さんの掛け合いがこれまた極上の美味しさ。

この後、都田吉兵衛によってだまし討ちにあうのですが、江尻宿を通り越した追分の近くに「都田吉兵衛の供養塔」があります。

清水の次郎長一家は石松の仇をここで討ちますが、吉兵衛の菩提を弔う人がほとんどいなかったので里人が哀れに思って供養塔をたてたとあります。

ドラマで浪曲もながれますが、初代広沢虎造とクレジットにありました。私の持っているCDは二代目広沢虎造なのですが。よくわかりません。

追記: 二代目広沢虎造さんの『石松と七五郎』『焔魔堂の欺し討ち』を再聴。名調子の響きにあらためて感服しました。そして、ドラマ『赤めだか』を鑑賞。本が出ていて評判なのは知っていましたが、なぜか読まずにいました。好評なのを納得しました。談春さんはもとより、立川一門(前座)の様子が破天荒で、談志さんの落語と弟子に対する心がこれまた響き、笑いと涙でした。

追記2: 『赤めだか』(立川談春・著)一気に読みました。涙が出るほど笑いました。ラストは緊迫しました。人の想いの踏み込めない深さと繊細さ。落語の噺の世界のような本でした。

追記3: 2006年(平成18年)5月30日、新橋演舞場で談志さんと志の輔さんが、2008年(平成20年)6月28日、歌舞伎座で談志さんと談春さんが落語会を開いています。時期的には談志師匠が闘病中で身体的につらいころと思われますが嬉しそうに見えました。大きくならない赤めだかが大きくなったのですから嬉しくないはずがありません。そして談春さんが、「志の輔兄さんもやらなかった歌舞伎座です。」と言われたので皆さんどっと笑いました。立川一門のライバル意識を皆さん楽しんでいました。

追記4: テレビとかの映像画像は著作権に触れることもあるようなので削除しました。風景はよいらしいのですが、よくわからずにやっていました。申し訳ありません。他もありましたら少しずつ変更していきます。迷惑をかけた方がおられましたら深くお詫びいたします。

幕末の先人たち(3)

佐久間象山を暗殺した刺客の一人に河上彦斎(かわかみげんさい)がいます。「人斬り彦斎」の異名があり、漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚』の緋村剣心のモチーフといわれています。映画『るろうに剣心』を観ていますが、河上彦斎とつながると知ってもフィクションとしての想いが強いです。

るろうに剣心』(第1作)、『るろうに剣心 京都大火編』(第2作)、『るろうに剣心 伝説の最期編』(第3作)と観ていますが今回は『るろうに剣心 最終章 The Final 』第4作)、『るろうに剣心 最終章 The Beginning』(第5作)を鑑賞することにしました。第5作の『るろうに剣心 最終章 The Beginning』を先に観てそれから第4作の『るろうに剣心 最終章 The Final 』をという逆の見方をしました。

るろうに剣心 最終章 The Beginning』は剣心の頬の十字の傷のいわれと鳥羽伏見の戦いで新しい時代が来たと剣心が刀を捨てるまでが描かれています。そして『るろうに剣心 最終章 The Final 』では、剣心が暗殺した相手の婚約者までも斬ってしまいその弟が姉の復讐のため剣心の前に現れるということで第5作目を先に観ていたので謎もなくすーっと入っていけました。

剣心は高杉晋作の奇兵隊に参加し腕をかわれて桂小五郎のために「人斬り抜刀斎」として役目を全うし、新しい時代と共に刀を逆刃刀として人斬りをやめたわけです。ところが10年後新時代となっても「人斬り抜刀斎」の名は消えることがなく何かと争いに巻き込まれて闘うことになるのです。

そこからまた第1作から第3作までを見直しました。時間がたつと忘れているものです。一応流れがはっきりしました。

『銀のさじ ーシーボルトのむすめの物語』(武田道子・著)の中で村田蔵六(後の大村益次郎)という人物が出てきてシーボルトの娘・楠本いねと交流しています。大村益次郎は大河ドラマ『花神』の主人公ということで、総集編をDVDで観ました。

村田蔵六は山口県山口市鋳銭司(すぜんじ)に村医者の息子として生まれます。大阪の緒方洪庵の「適塾」で学び塾頭となります。長崎にもいっています。

「適塾」の様子が大河ドラマ『花神』では一応着物に袴姿で、テレビドラマ『幕末青春グラフィティ 福沢諭吉』では塾生は上は襦袢の短い下着のような物を着て下はふんどしといういでたちで若さを誇張しているのかなと思いましたら後者の方が本当のようです。さらに食事も立って汁をかけて食していましたが、これは福沢諭吉が「慶應義塾」でも実践していたようです。

「慶應義塾」というとオシャレなように感じますが、福沢諭吉さんはめったに洋服を着ず着流しの着物ですごしたようです。朝早く散歩に出るときは着物を尻はしおりにしていて下駄。庶民そのものだったそうで、塾生が自然に集まってきて、そんな塾生にはせんべいを配り、塾生はせんべいをかじりつつ話をしました。「おなかがすいたまま運動するのはからだによくない。」ということらしですが、もう一つ時間を惜しめということもあるんじゃないでしょうかね。

花神』の話にもどりますと、大村益次郎は父に戻れと言われ優秀なので惜しまれつつ鋳銭司に帰ります。ところが世の中は外国船によって混乱をきたしはじめ、蘭学者知識が各藩で必要だという考えがでてきます。

蔵六は宇和島藩に蘭学者として仕えることになります。蔵六は兵学にも新しい知識をもっていました。ここでシーボルトの弟子・二宮敬作と親交を深めます。二宮敬作は楠本いねの産科医としての勉学の後押しをしており蔵六はいねを紹介され蘭学の医学の講義などもします。

洋式軍艦の試作などもし、軍艦が動いたと藩主たちを喜ばせます。その後江戸で塾も開きますが、今度は長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)に請われて長州藩につかえます。これからが長州藩の倒幕までの激動の時代をともにするわけです。

長州藩の中も佐幕派と討幕派が綱引き状態で行ったり来たりと目まぐるしいです。血もたくさん流されます。ドラマを観ているうちはなるほどと思うのですが観終わってしばらくすると時間の流れの前後があやふやになってしまっています。劇団で鍛えた役者さんも多数出演していてその役どころにも目がいきます。

村田蔵六は大村益次郎と名前を変え、錦の旗を手にした長州藩から今度は明治新政府の軍事改革者となっていきます。実際の戦いの実践はないのですが頭の中には戦さの勝利への青写真はできています。多くの戦さの勝敗の資料が頭の中にあってそれをフル回転して新たな様式の戦術を加え考え出していくのです。

さらに軍隊の中心は日本の中心の大阪におくべきだと主張しそれを実行に移すべきと自分も西にむかいます。京都方面はまだ危ないから行かない方がよいにと注意されますが、いややはり自分の目で確かめなくてはと京都に宿をとります。この西の固めはその後の西郷隆盛が挙兵した西南戦争を押さえることになります。

京都の京都三条木屋町の宿で刺客に襲われ重傷です。命はとりとめましたが傷口からバイ菌が入り左足を切断する手術を受けます。その助手をしたのが楠本いねさんでした。いねは大村益次郎が亡くなるまで看護しました。

そういう人であったかと大村益次郎さんの一生をみたわけです。

河上彦斎はこの大村益次郎暗殺者の一人をかくまったとされ、そのほかの新政府への暗殺の嫌疑をかけられ斬首されてしまいます。河上彦斎は名の知れた人の暗殺は佐久間象山だけで、それを自慢にしていたとか、後悔してその後は人斬りをしなかったとかいろいろ憶測があります。『るろうに剣心』の緋村剣心のような明るい時代は訪れなかったようです。

佐久間象山の子が河上彦斎を敵として仇討ちのため新選組に入ったのは事実のようです。勝海舟が新選組によろしくということでしょうか、お金を送ったようです。

様々なことが交差していました。

ここまででお世話になった本  「銭屋五兵衛著」(小暮正夫・著)、「渡辺崋山」(土方定一・著)、「福沢諭吉 「自由」を創る」(石橋洋司・著)、「佐久間象山 誇り高きサムライ・テクノクラート」(古川薫・著)、「大塩平八郎 構造改革に玉破した男」(長尾剛・著)

追記: 西郷輝彦さんの舞台は新派120周年記念『鹿鳴館』、藤山直美さんとの『冬のひまわり』、三越劇場での『初蕾』などで鑑賞させてもらいました。角の無い、芝居の中に自然に溶け込まれて調和され光を当てるという役者さんでした。(合掌)

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幕末の先人たち(1)

深川の地図から伊能忠敬さんの日本地図の話になって児童書がどんどん幕末の全国版へと運んでくれます。先ずはかつての築地外国人居留地へ。

外国人居留地というのは明治元年にできた外国人が住むための治外法権の特別区域という場所です。現在の明石町がその跡地で今は様々な記念碑などがあります。

朱丸の「浅野内匠頭屋敷跡」「芥川龍之介誕生の地」「蘭学事始めの地」「シーボルト記念碑」。緑丸は「慶應義塾発祥の地」。紫丸は中央保健所集合施設6階に「タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)」があります。

「蘭学事始の地」と「慶應義塾発祥の地」というのはここに豊前中津藩奥平家の中屋敷があり、中津藩医の前野良沢が杉田玄白らとここで「解体新書」を完成させた地とし、さらに中津藩の福沢諭吉がここで家塾を開いたのに由来しているようです。

「シーボルト記念碑」は江戸に来たことで追放されるということになりましたが江戸蘭学への功績は大きかったということなのでのしょう。聖路加病院のそばというのも医者としてのシーボルトにとっても好い場所なのかもしれません。

この近くにはミッション系の学校が多くあったようでその学校の発祥の地としての碑があるようです。かつて私が行ったときは「タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)」が見たかったのでその他はなるほどなるどと軽く立ちどまる程度でした。

タイムドーム明石」の常設展の記憶が薄らいでいますが、楽しめました。たしか外国人居留地に建てられた日本で最初の洋風ホテル「築地ホテル館」の模型があったような気がするのですがどうでしょうか。一番の興味をひかれたのは長谷川時雨さんです。彼女が日本初の女性歌舞伎脚本家であると知りました。

この辺りは江戸時代に築地鉄砲州と言われていた場所です。

浮世絵と現在を写真で比較する素敵なサイトを見つけました。地形が残っているとこういう楽しみ方ができるのですね。『鉄砲洲築地門跡』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第72回 | nippon.com

新しい知識を学びたいとしても武士の場合所属していた藩によって様々な経緯をたどります。そして時の老中によっても方針が違ってしまいます。幕府の財政は立て直しが必要で、もちろん各藩もひどい状態でした。次々と改革方針が出されますが、それにより藩はさらに圧迫されそれがお米で税金を納めている農民に押し付けられます。

藩は豊かになった商人から御用金を要求し、商人は献上することによってさらに商売のための権利を得ていきます。さらに外国との密貿易へと進んでいきます。藩は都合が悪くなると落ち度をみつけおとがめとし財産没収となります。藩は違う商人に権利を与えさらに上納金を納めさせるという構造になっていきます。

そんな構造がみえたのが加賀の商人の銭屋五兵衛に関する本を読んだからです。夢をもって商売に成功したかにみえた銭屋五兵衛もその構図にからめとられます。

各藩が恐れたことが起こりました。それに間宮林蔵がかかわっていました。1836年(天保7年)竹島を舞台にした浜田藩(島根県)の密貿易がおもてざたとなりました。藩の御用をつとめていた廻船問屋・会津屋清助と藩の勘定方・橋本三兵衛が死罪。さらに藩主は奥羽の棚倉藩(福島県)に国がえとなったのです。間宮林蔵の密告によるものでした。藩にまで類が及ぶとなれば由々しき事と商人は使い捨てとされるわけです。

加賀藩が銭屋から没収した額は10万両で500億円といわれます。幕府も貿易を考えなければ成り立たない財政状況になっていたのです。

大飢きんもあり農民は自分の食べるものもありません。飢えないためにジャガイモの栽培をすすめたのが高野長英です。サツマイモは甘さがあるのですがジャガイモは味がなく人気がなかったようです。

高野長英は岩手県奥州市水沢で生まれ勉学に燃え、シーボルトの鳴門塾で学び塾の中でも優秀でした。シーボルトが追放されたあとオランダ嫌いの水野忠邦が老中となり蘭学者たちはにらまれます。そして幕府を批判したとしてとらえられます。これが「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」です。長英ははじめは逃げますが、捕らえられた仲間のこともあり無実を訴えるため自首します。

しかし捕らえる側に許すなどという考えはありません。終身牢の中という永牢と決められてしまします。牢が火事になったとき長英はそのまま逃亡してしまいます。逃亡しつつ多くの蘭学の書物を訳します。蘭学に理解のある薩摩藩主島津斉彬や伊予宇和島藩主伊達宗城にも認められ庇護をうけますが、脱獄していることもあり江戸で見つけられ捕り手に囲まれこれまでと自刃してしまいます。

高野長英と共に蘭学者の集まり「尚歯会(しょうしかい)」に参加していたのが渡辺崋山です。渡辺崋山は画家として目にするのでどうして「蛮社の獄」と関係するのかわからなかったのですが、崋山は三河国田原藩(愛知県田原市)の藩士で家老にまでなるのです。ジャガイモの栽培で農民の餓死をふせぎ藩主からも認められました。

田原藩上屋敷内で生まれますが貧しく、絵で収入を得ようと祭りの灯篭絵のアルバイトをしたりして絵の勉強もします。その絵も洋画の手法で日本画を描くということを探求し、人物画もその人の本質を見据えて描くという新しい考えでした。蘭学も学び、藩の役職が上がるにしたがって日本の先行きを心配するようになるのです。

もう少し前の時代なら藩から抜けて画家として立つこともできたでしょうがそういうこともままならぬ時代でした。「尚歯会」参加者は皆にらまれていて渡辺崋山は田原藩でのちっ居と決まり田原に送られます。ずっと江戸暮らしで田原藩では崋山は大罪人としてしか受け入れられませんでした。彼はついに命を絶ってしまいます。

テレビドラマ『河井継之助 ー 駆け抜けた蒼龍』を観てみようという気になりDVDをレンタルしました。勘三郎さんの間の良いリズミカルなセリフと演技に、これでしたねと堪能しました。この勘三郎さん好きです。

ひょんなことで知り合った女性の吉田日出子さんが、継之助に言うんです。あんたは両目だと見えすぎちゃうから片目で見るくらいが丁度いいよと。なんか勘三郎さんの歌舞伎の先が見えて急ぐのとぴったり当てはまるような気がしました。

継之助は戦さを何とかして避けたいと思っていたんです。理想論と言われますが、理想がなくてあの時代を生き抜けるでしょうか。藩の上に立つ者が。そして領民を戦さから守るためには。

三津五郎さん、彌十郎さん、七之助さん、勘九郎さん、獅童さんや現代劇の勘三郎さんの役者仲間の方々も出演していて一つの時代だったなあと感慨深かったです。そして新しい時代が続くんですね。

河井継之助の映画が作られたのですね。楽しみです。

映画『峠 最後のサムライ』公式サイト 2022年公開 (touge-movie.com)

追記: 福沢諭吉さんて有名度の高さでの部分で知っていますが、本当はよく知らないのです。勘三郎さんが勘九郎時代にテレビドラマ『幕末青春グラフィティ 福沢諭吉』で福沢諭吉を演じているので観てみました。大阪の緒方洪庵の「適塾」での青春群像の一団から選ばれて中津藩の江戸での蘭学の家塾を任され、さらにアメリカへ幕府から派遣されて使節団として渡米し身分にとらわれない「自由」を握りしめるのです。

ドラマとしても面白かったのですが、勘三郎さんの演技は受けも良いのだと気づかされました。受けがいいのでそこからの踏み出しもいいのです。踏み出しの自由自在さが観ている者に負担を掛けず引き込んでくれます。そして理屈抜きのエネルギッシュさです。

初アニメ『本好きの下剋上』

昨年の八月の緊急事態宣言解除で二人グルメを再開。趣味とか話す傾向が違うので久しぶりの対面おしゃべりはしっかり聞きたいことを聞けるように二人グルメが多かったのですが、その中でも12月のアニメにつながった話は二人グルメが正解でした。

まず『鬼滅の刃』のさわりを簡潔に話してもらって、あと二たつほど紹介してもらったのですが、『本好きの下剋上』が気に入りました。詳しくはわからないのですが、ネットで小説を投稿するサイトがあってそこで見つけて読み、本になってそれを読み、漫画にもなり、テレビアニメになり、DVDとなったようです。

私は手短にDVDになっているのをレンタルして観ました。今年の初アニメです。可愛らしい絵なのには驚きました。話を聞いていた時はこんな絵とは想像していませんでした。見きれるかなとちょっと心配でしたが、友人が言っていたのはこのことだなと思ううちに引っ張られていきました。

本の正式名は長いのです。『本好きの下剋上〜司書になるためには手段を選んでいられません〜』(香川美夜著)。<下剋上>が惹きつけられます。力のなかった者がのし上がるわけでしょうから。友人によりますと、主人公が本が大好きで生まれ変わった世界には本がなくて、それなら自分で作ればよいと考えて作るんだそうです。それがどうして下剋上なのかなとおもいましたら、貧しい平民の子として再生し、そこの世界には貴族がいて貴族の世界にまで入り込むということのようです。

「本は高級品で貴族しか読めないのよ。自分で本を作ろうと思いたち、一つづつ工夫していくの。前に居た世界の知識はそのままなので、エジプト式、メソポタミア式、中国式の本のつくりかたを試していくの。」

エジプトはパピルスという植物繊維の紙に文字をかきました。主人公・マインはパピルスを作りますが効率が悪く小さなパピルスしか作れず失敗します。平賀源内の石綿みたいです。メソポタミア式は粘土板に文字を書きます。これはいけそうですが苦労の甲斐なく何も知らない仲間の子供たちに踏みつけられてしまいます。中国式は木簡です。これも用意したところで何も知らないお母さんに薪として燃やされてしまうのです。

それでも協力してくれる少年・ルッツがいて、彼の商人になりたいという夢と重なり合ってマインの力になってくれるのです。

その前にまず文字を覚えることから始めなくてはならないのですから、本が好きでなければ進むことのできないことでした。前の世界は日本で麗乃(うらの)という名前でした。本が大好きで図書館司書に就職が決まったところで亡くなってしまい、気が付いたら架空の国の平民の幼女・マインとなっていたのです。

マインになっても麗乃が日本でつちかった知識は生きていて、その知識で新しい街のみんなが知らない物や食べ物を作り出し商品としてお金に換えるという方法を見つけ出していきます。マインの家族がこれまた良い人たちなのです。

ところが、一番の協力者であるルッツにお前は本当のマインなのかと疑われてしまいます。マインはなるべくわからないようにと気を付けていたのですが、本作りへ夢中になり麗乃の自分が出てしまい、ルッツがおかしいと思うわけです。麗乃もマインを新たに知っていくわけで大変なのです。

本当のことをルッツに話したらわかってもらえるであろうか。ルッツとの関係も壊れてしまうのではなかろうかとマインは心を痛めます。ここも一つの山場でもあり、お互いの葛藤が垣間見える場面でもあります。

そうした色々なことを乗り越えて、マインは貴族の神殿の見習い巫女となります。神殿には図書館があり本を読めるという権利をえるためでした。そして、神殿の孤児院で飢えていた孤児のために、本作りの労働により自分たちで食料を調達するという方法を見つけ出し、ついに本を完成させるのです。

マインは貴族となり、愛する家族と別れることになります。それはマインが家族を守るために必要なことだったのです。DVDはここまでです。マインは領主の養女となりまだまだ下剋上は続いていくようです。

調べましたらこの小説は第5部まであって完結しています。テレビアニメでは今年4月から第3期が始まるようです。

小説はもっと細かく表現されているらしいのですが、そこまでの気力はありません。「小説を読もう」で検索して「本好きの下剋上」と入力すれば探し当てられるとおもいます。無料で読めますので読みたい方はどうぞ。

人間関係、架空の世界での約束ごと、マインが遭遇する様々な問題がはめ込まれていてひとつひとつ乗り越えていくのがたのしいです。マインはすぐ熱を出してしまって倒れてしまいます。それは身食いという病気でした。この病気の人は特別の能力も持ち合わせているという展開でまたまた波乱が待ち受けているのです。繊細な心の動きもあり、デフォルメされた部分もありで楽しませてもらいました。

友人のいつもながら、短時間で要領よく興味を引くように説明してくれた手腕に導かれ絶対自分からは選ばないアニメに遭遇したわけです。よくしゃべり続けてくれました。アニメを見終わってから、マインの麗乃の時のわからないところは電話で聞き、アニメでは描かれていない麗乃のこともわかりつながりました。

アニメでは、神殿の神官長が出てきてマインが新官長とずっこけの掛け合いをするのが気分を変えてくれる挿入部分もあります。誰なのだろうと思っていましたらマインが神殿に行ったときはじめて登場しやっとお目にかかれたのです。小説や漫画で読んでいる人にはまた違った楽しみ方ができるようになっているのでしょう。

本好きの下剋上』とはどうやってお付き合いするかはこれからの課題です。

歌舞伎『花競忠臣顔見勢』関連情報(3)

さて次は、映画、ドラマからの歌舞伎『花競忠臣顔見勢』関連情報とします。

(1)のほうで、歌舞伎『松浦の太鼓』と『土屋主悦』の違いに少し触れましたが、『土屋主悦』のほうは観ていないのです。ただ1937年の長谷川一夫さんが林長二郎時代の古い映画のDVDを観ていたので内容的にはわかっていました。ただそれも、長谷川一夫さんが、土屋主悦と杉野十平治の二役を演じていて今回の舞台とも少し違っています。

元禄快挙余譚 土屋主悦 雪解篇』(犬塚稔監督)

杉野十平治は芸者から吉良家の絵図面を渡されます。十平治はこの図面通りかどうか吉良邸に探索に行き見つかって隣の土屋家に逃げ込みかくまわれます。そしてそこで奉公している妹のお園と会います。

その後、土屋主悦は杉野から手紙をもらい、その手紙と其角への大高源吾の歌から討ち入りがあるということを知るのです。土屋はしどころのない役です。特に、映画のほうは大高源吾が土屋家に報告に来ないのでなおさらです。長谷川一夫さんは二役で義士引き上げでの場面にも登場なのでなんとか納得します。

今回の舞台で、槌谷主悦と大鷹文吾の場面がなければ気の抜けた炭酸水か生ぬるいビールです。槌谷主悦の、「塩谷殿はよい家来を持たれた」のセリフも生きてこないのです。そう考えると二人の対面にはお互いに熱いものが通っているわけです。

さて、兄との別れがかなわなかった赤垣源藏ですが、その映画は動画配信で観れました。

忠臣蔵 赤垣源藏 討入り前夜』(池田富保監督) 

これまた古いです。1938年の映画です。赤垣源藏は坂東妻三郎さんで、酒飲みで兄のところに居候しています。兄嫁は義弟は何もせずお酒を飲んでいるだけなので好きではありません。兄は源藏との碁の勝負で「仇討ち」の言葉をつかい、それとなく暗示をかけますが、源藏は取り合いません。

この場面を舞台では、通行人(猿三郎、喜猿)の会話に上手く差し入れて、源藏と新左衛門に聞かせ奮い立たせるのです。上手い使い方をしたと映画を観ておもいました。映画では源藏は兄の家まで行き、衣文掛(えもんか)けに兄の羽織をかけて持参した徳利の酒を飲み別れの盃とするのです。それを道端で兄嫁を優しくして短時間に描くという手法に変えて表現したわけです。濃縮しました。

由良之助が葉泉院を訪れ、無事門前外で本意を伝えることができたとき寺岡平右衛門の宗之助さんが姿を出します。おそらく由良之助にお供してきていて身を隠して迎えに出たわけです。平右衛門は足軽なので由良之助の世話係としてそばにいても不審には思われません。

映画では寺岡吉右衛門として登場し、討入りに参加していながら身分が低いということなどで途中で仲間から身を隠してしまいます。そのため映画『最後の忠臣蔵』など、その後の吉右衛門には内蔵助から託された仕事があったのだというような話がいろいろ取りざたされます。

そういうこともあって舞台でもチラッとでも登場させ、さらなる外伝を匂わせているようにも感じました。細かいところにも、その心はと勘ぐってしまいます。

テレビドラマではあの必殺シリーズの中に『必殺忠臣蔵』というのがあり、寺岡吉右衛門(近藤正臣)は必殺仕事人であったというのですから飛びすぎで驚きで面白かったです。そして、吉良上野介には影武者がいて死んでいなかったと。それではやはり仕事しないわけにはいきません。

最後は、葉泉院が、夫の位牌で由良之助を打つという今まで観た映画の中ではない感情の出し方だったので、あの場面に関連するものはないかと探しましたらテレビドラマで『忠臣蔵 瑶泉院の陰謀』が見つかりました。

南部坂の別れがない代わりに、瑶泉院と内蔵介との濃密な別れがあるというこれまた発想の切り替えが必要でした。

人形浄瑠璃で『仮名手本忠臣蔵』をやっていて、それを瑶泉院がお忍びで見物しているというところから始まります。討ち入りから十年後のことです。というわけで前に戻ってその経緯が描かれるわけですが、瑶泉院も義士たちの同志としての気持ちで行動するのです。

将軍綱吉の時代を悪政とし、討ち入りによって御公儀を正すといった想いが中心に流れています。

「陰謀」とあるので瑶泉院のものすごい企みがあるのかと思いましたら、瑶泉院はあくまでも優しく、赤穂藩の人々を助けたい、浪士を助けたい、そのためには自分はどう動くべきかを考えています。浅野内匠頭は心に深い闇のある病があり、それが時々爆発しそうになります。それを瑶泉院は穏やかに穏やかにと支えています。

討ち入り後の彼女の動向も丁寧に描かれ、義士たちのお墓のこと、伊豆大島に流された義士の子供たちを助けようと奮闘します。

大島に行ったときに義士の子供たちが流されたのを初めて知りました。十五歳以上の男子4人が遠島で、十五歳以下の子も十五歳になったら遠島と決まっていました。十五歳以下の子が15人いました。

ドラマでは、次の将軍家宣(綱豊)の正室が赤穂義士びいきで、瑶泉院に次の時代まで待ちなさいといいます。大石内蔵助の次男が13歳だったのですが、出家させたものを流した例はないと教えます。そのあたりが強く印象に残りました。

瑶泉院は稲森いずみさんで、真実味があって歴代の瑶泉院とはまた違う描き方の瑶泉院に合っていてすんなり受け入れられました。瑶泉院、大石内蔵助(北大路欣也)、柳沢吉保(高橋英樹)との駆け引きもひきつけられます。

綱吉から家宣への時代背景も納得できました。浅間山の噴火、富士山の噴火、地震、大火など自然界も大変な時代でした。

歌舞伎『花競忠臣顔見勢』の若手役者さんの演技を愉しみつつ、さらにあちこ首を突っ込み、時代背景や、当時の民衆の支持を得た「忠臣蔵」の力を改めて感じとらせてもらいました。

2021年8月15日(1)

第二次世界大戦により1945年8月6日は広島に原爆が落とされた日、8月9日は長崎に原爆が落とされた日、8月15日は終戦の日です。忘れてならないのは6月23日の沖縄慰霊の日です。

8月になると特別番組が放送されますが、映画『この子を残して』、『爆心 長崎の空』を観た後でしたので『NHKスペシャル 原爆初動調査 隠された真実』はやはり隠されていたのかとやるせなくなりました。

1945年9月にアメリカから広島、長崎に初動調査団が入り長崎で撮影された被爆直後の映像が公開されたのです。調査された1945年9月から12月までの海軍報告書はトップシークレットでした。

原爆開発計画「マンハッタン計画」の総責任者・アメリカ陸軍・グローブス少将は調査の総責任者でもあり、調査団が出発するとき、残留放射線量が高くないことを証明しろと伝えていたのです。最初から隠ぺいするつもりでした。

原爆は爆発する瞬間、初期放射線放出をします。そして残留放射線というのは2種類あって ①爆心地の土壌などが中性子を吸収し放射線物質となり放出するケース ②爆発で発生した放射線物質が雨やチリで降り注ぎ地上に残り続けるケースです。②が「黒い雨」です。

グローブスの報告書には、残留放射線は完全に否定されていました。

「爆発後、有害量の残留放射線が存在した事実はない。人々が苦しんでいるのは爆発直後の放射能のためであり、残留放射線によるものではない。」 グローブスは原爆を開発した物理学者・オッペンハイマーの理論を採用しました。

物理学者・オッペンハイマーは、「広島、長崎では残留放射線は発生しない。原爆は約600メートルという高い位置で爆発したため、放射性物質は成層圏まで到達、地上に落ちてくるのは極めて少ない。」とし、それに合わせて報告書がつくられアメリカの公式見解となったのです。

グローブスは1945年11月28日のアメリカの原子力委員会で証言しています。

「残留放射線は皆無です。皆無と断言できます。」「この問題はひと握りの日本国民が放射線被害に遭うか、それともその10倍ものアメリカ人の命を救うかという問題であると私は思います。これに関しては私はためらいなくアメリカ人を救う方を選びます。」

ソ連との冷戦もあって人道的よりも核開発でアメリカがリードするほうを選んだのです。

実際には、長崎の西山地区を調査した資料もありました。西山地区には爆心地よりも高い残留放射線が認められたのです。一般人の年間線量の限度を4日で越える値でした。

アメリカは西山地区の人々を観察し、聞き取り調査もし写真も撮っていました。西山地区は爆心地から山を隔てた地域なのですがその日雨が降っていました。赤みがかった黒色で異物が混じった大粒の雨で、排水管がつまるほどで貯水池の水は苦みがあり1週間ほど飲めなかったと語られています。谷間となっているため放射線物質が堆積したとかんがえられます。

血液検査もしていて2か月後には白血球が正常値を越えており、放射性物質が体内に入り起きた可能性が高いのです。

西山地区の土も持ち帰っていて放射線物質の種類も見つかっていました。しかしそれらの調査報告は日本に知らされることはありませんでした。

当時、東大の都筑(つづき)正男教授は残留放射線に目をむけていました。広島で原爆にあっていなくても手伝いで来た人が数日以内で亡くなっている人もいたのです。入市被爆です。

日本の陸軍の報告書にも人心がパニックになるのをおそれて人体に影響を与えるほどの放射線は測定できなかったとしています。

都筑正男教授のくやしさをあらわすインタビューが残っていました。

「問題は政治が先か人道が先かということであって、結局は人道が政治に押し切られてしまった。広島、長崎には何万という被爆者がいるんだと。毎日何人も死んでいるんだと。その人々を助ける方法があり、研究もでき発表もできるにもかかわらず、占領軍の命令によってそれを禁止して、この人々を見殺しにするのは何事か。」

アメリカは4年間で長崎で900か所、広島で100か所で調査していたです。

隠ぺいするための調査。初めから結論ありきで、人道など無視です。その調査でどれだけの苦しみが救われたことでしょうか。不安だけが膨れ上がり亡くなられた方。長い長いつらい闘病を強いられた方。疎まれて傷ついた方。原爆も戦争もこの世にせっかく生まれてきた命を勝手に奪うのです。どんなときも政治よりも人道を優先する道を選んでほしいものです。

えんぴつで書く『奥の細道』から(12)

市振から出立した芭蕉は大垣まで様々な所に寄っています。それがオレンジ色の丸です。森敦さんの『われもまたおくの細道』から地図をお借りしました。

黒部四十八か瀬 → 那古の浦 → 卯の花山 → 倶利伽羅峠(くりからとおげ) → 金沢 → 小松 → 多田神社 → 那谷寺 → 山中温泉 → 全昌寺 → 吉崎の入江 → 汐越の松 → 天竜寺 → 永平寺 → 福井 → 敦賀 → 気比の明神 → 色の浜 → 本隆寺 → 大垣   

黒部四十八か瀬ではうんざりするほどの川を渡り那古の浦に着きます。古歌にある担籠(たご)の藤波にも行きたかったのですが土地の人に大変ですよと言われて卯の花山倶利伽羅を越えて金沢につきます。

芭蕉は死後義仲寺に自分を葬って欲しいと残したほど木曽義仲びいきです。倶利伽羅峠は『源平盛衰記』にも義仲の活躍が書かれています。牛の角に松明を結び付け数百頭の牛を先頭にして野営中の平家軍に奇襲をかけ勝利するのです。このことに芭蕉は一切触れていません。

金沢で悲しい知らせを受けます。再会を楽しみにしていた期待の若い弟子小杉一笑(いっしょう)が亡くなっていたのです。この悲しみの中、小松多田神社に参拝します。ここで、斎藤実盛が源義朝から拝領したという兜と直垂の錦の切れ端が納められていてそれを目にします。

実盛は最初源氏に仕えます。その時、幼少の木曽義仲を助けます。その後実盛は平家に仕え倶利伽羅峠で敗走する平家のために戦って篠原の戦いで討ち死にします。実盛の髪が黒く義仲はいぶかります。家臣が首を洗うと髪は真っ白で黒く染めていたのです。義仲は涙し、実盛の遺品を多田神社に奉納したのです。

太平洋側は義経、日本海側は義仲ということでしょうか。義経ゆかりの場所があってもぷっつり語らなくなり、義仲についてはここだけです。そしてここで愛弟子一笑の死と実盛の死を重ねて、それに涙する自分と義仲を重ねているように思われます。

実盛は歌舞伎では『実盛物語』、文楽では『源平布引滝』での<九郎助内の段>、能では『実盛』があります。興味惹かれるのが能で、実盛が亡くなって230年経ったころ加賀国篠原で遊行上人が実盛の幽霊を弔ったという話が巷をにぎわし、世阿弥がさっそくそれを曲にしたというのです。前シテが早くも幽霊となって表れるのだそうで異例なことです。世阿弥といえば超お堅い人と思っていましたが、作品のために様々な情報から制作していた一端がうかがえました。

山中温泉へ行く途中で那谷寺に寄り趣のある寺であったとし、山中温泉で湯につかり有馬温泉の効能に次ぐといわれているとしています。ここの宿主は久米之助と言いまだ小童(14歳)です。父が俳諧をたしなみ、その思い出を記しています。曾良がお腹の具合が悪く伊勢の縁者を頼って先に旅立ちます。

金沢から同行してくれた北枝と共に全昌寺に泊まり、吉崎から舟を出して汐越の松を見物、天竜寺の大夢和尚を訪ねます。ここで北枝と別れここから福井まで芭蕉一人旅となります。永平寺を詣で福井へ入り古い友の等栽をやっとのおもいで訪ねあてます。貧しい住まいで出てきた女性もわびしい感じで、主人はでかけているのでそちらへお尋ねくださいといわれ、等栽の細君らしいのです。古い物語で読んだような場面だと芭蕉は感じます。

等栽は再会を喜び旅の続きに同行してくれ敦賀に着きます。次の日は中秋の名月で、着いた夜は晴れていたのでその夜気比の明神へ参拝に出かけます。月の光で社前の白砂が霜のようにみえるのを見て<遊行の砂持ち>という故事について語ります。気比明神がお参りしやすいように草を刈り、土砂を運び整備したのが遊行上人だったのです。

次の日の中秋の名月は雨となります。さらに16日は晴れて、天屋なにがしという人がお酒や、お弁当ををそろえてくれて天屋の使用人たちと一緒に色の浜へ舟をだします。色の浜にはわずかに漁師の小屋と寂しげな法華寺の本隆寺があるばかりで夕暮れ時がさらに寂しさをかきたてます。

色の浜では西行の歌にある「汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらん」の<ますほの小貝>を拾うのが目的でもあったのです。芭蕉が詠んだ句です。「波の間や小貝にまじる萩の塵」(波が引いたあとにますほの小貝が見え隠れしそこにまじって萩の花びらが散見している。面白い組み合わせである。)

私的には遊女との句の<萩の月>と<萩の塵>が呼応しているように感じます。そう思わせる芭蕉の構成力があちこちに散逸しています。そこで別れて新しいことに向かっていてもどこかで呼応していてさらにもっと古いものにも近づいていて考えさせられます。そしてさらに新しさに向かって進んでいきます。<不易流行>と通じるような気がします。

露通が敦賀へ迎えに来てくれて一緒に美濃の大垣に入ります。そこには伊勢から曾良も先についており、その他多くの弟子たちが顔をそろえてくれます。まるで蘇生した人に会うかのように喜んでくれます。芭蕉も満足だったでしょうが、旅の疲れもいやされぬうちに伊勢の遷宮を拝するためとまた舟にのるのでした。

⑪蛤の ふたみに別れ行く秋ぞ

・蛤が殻と身に分かれるように再会した人々とまた別れていくのです。秋も深くなったこの時期に。

ついに『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』も最終回となります。黛まどかさんと榎木孝明さんは、敦賀色浜(いろがはま)に行かれました。

敦賀では気比神社へ。芭蕉は月がキーワードの一つであり、中秋の名月をみるためにここに日にちを合わせています。敦賀は歌枕の地でもあるのです。十五夜前夜の月を<待宵(まつよい)の月>といい、雨の月でも、<雨月>とか<無月>という詞があるのでそうです。

気比神社

奥の細道』は柏木素龍によって清書を頼み、それが芭蕉の兄に渡り、さらに敦賀の西村家に代々嫁入り本として伝えられたそうで、森敦さんは西村家で見せてもらい、黛さんと榎木さんは敦賀市立博物館で見させてもらっています。それが『おくのほそ道』素龍清書本です。芭蕉が書いたと言われる表紙の短冊に書かれているのが<おくのほそ道>の仮名なのです。どうして森敦さんの本が『われもまたおくのほそ道』で『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』なのかちょっと気にかかりましたがこれで納得しました。

さて黛さんと榎木さんは色浜に行きます。色浜は小さな漁港でここで<ますほの小貝>を拾われました。赤ちゃんの爪くらいのかすかにピンクいろの小貝です。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の映像で『奥の細道』を読み続けるための楽しい刺激をたくさんもらいました。

スケッチも俳句もしませんが、旅の途中で写真とは別にスケッチするならどこが良いかなとか、キーワードの単語を探したりすれば旅の新たな視点が見つかるかもしれません。

私的には日本海側の旅の写真が保存されないまま消滅。私的旅はおぼつかない記憶で頭の中で組み立てるしかありません。これで『奥の細道』は何とか終了です。『奥の細道』の関連本は数多くあります。それらを眼にしてもこれで少しはあそこの場所のあの事だなと気がつくことが出来ることでしょう。

追記: 旅行作家の山本鉱太郎さんの『奥の細道 なぞふしぎ旅 上下』は疑問を出しつつ答えを見つけていき、しっかり歩かれて写真も地図も豊富で『奥の細道』の貴重な参考書です。

えんぴつで書く『奥の細道』から(10)

三山巡礼を終えた芭蕉は鶴岡城下に入ります。鶴岡と云えば藤沢周平さんの小説の世界とつながるのでしょうが、考えてみれば映画やテレビドラマは観ていましたが小説は読んでいないことに気がつきました。先に映像でみてしまって藤沢周平ワールドが固定化してしまっています。原作に触れるともっと細かな機微も見えてくるのかもしれません。

芭蕉はここで庄内藩士・長山重行の屋敷に迎えられ俳諧一巻を巻いています。次に舟で酒田に入ります。ここでは医者の家に逗留します。酒田は北前船の西廻り航路の要港として繁栄を極めていましたので文化や俳諧に通ずる人々も多かったようです。記されてはいませんが当然俳諧の会も催されました。

今も豪商の屋敷などが残されており、明治に建てられたお米の保管倉庫だった山居(さんきょ)倉庫など見どころが多いところですが、私的旅では『土門拳記念館』が目的で他を見学していません。酒田駅からバスで『土門拳記念館』へ行く途中で最上川を渡りました。大きな川でした。

西廻り航路ですが、これを開拓したのが河村瑞賢という人で1672年(寛文12年)のことでその17年後に芭蕉が酒田を訪れているのです。驚くべきにぎわいだったのではないでしょうか。石巻ではにぎわう港の様子を記していますがここでは何も書いていません。さらに石巻では宿を貸してくれる人も無かったとしています。こういう書き方は芭蕉の強調の文学性の特色でしょう。

芭蕉の旅は酒田から象潟へと進みます。芭蕉の気持ちは象潟に飛んでいます。しかし海岸沿いの道はとぎれとぎれで、さらに天候も悪く雨となりますが「雨も奇なり」と次の日に期待します。思っていた通り翌朝にはしっかり晴れて朝の光の中を舟で能因法師が三年閑居したという能因島に舟をつけるのです。そこから西行法師が詠んだ桜の古木が残っている蚶満寺(かんまんじ・かつては干満珠寺)に渡り、ここで松島同様に象潟をほめます。

さらに芭蕉は松島象潟を比較しています。松島では中国の洞庭湖や西湖とくらべても引けを取らない景色とし、美人に例えています。それを受けて記しているのでしょう。「松島は笑ふがごとく、象潟は憾(うら)むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。」松島では句はできませんでしたが象潟では詠みます。

⑧象潟や 雨に西施(せし)がねぶの花 / 汐越や 鶴脛(つるはぎ)ぬれて海凉し

・美しい象潟である。雨の中の合歓(ねむ)の花は有名な中国の美女西施のようである。

・汐越しには鶴がいて、鶴の足が波のしぶきに濡れていて、涼しそうである。

西施は中国の春秋時代、越王の勾践(こうせん)が呉王の夫差を惑わすため送り込んだ愁いをふくんだ美しい女性で、夫差は西施を溺愛し国がは傾むいてしまうのです。松島が笑顔の似合う人であれば、象潟は愁いさが惹きつけられる人ということなのでしょう。

さてその象潟も今は芭蕉さんが眺めた風景とは全く違うのです。1804年(文化元年)の大地震のため、湖底が隆起し一面陸地となってしまったのです。今は水田となり、水田のの中に多くの岩礁が点在し「九十九島」と呼ばれ、違った景観を楽しませてくれているのです。

ここからは『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の黛まどかさんと榎木孝明さんの旅のほうに移動します。

お二人は鶴岡では郷土料理を食します。その中に長山重行が歓待してくれて芭蕉が食したものがありました。民田(みんでん)なすびです。3センチになったら収穫し漬物にするなすびで芭蕉は句を残していました。

現在の象潟の図と画像

芭蕉のころの象潟の図。 能因島から蚶満寺(かんまんじ)へ。

現在の能因島

すべての島に名前がついていて、今はお散歩マップを手に散策できるようです。ここで黛さんは榎木さんの指導のもと苦手なスケッチを試みられました。的確なアドバイスで素敵な絵ができあがりました。旅の記録として俳句とかスケッチはよく観察するため、その時の風を五感で感じており深く残るそうです。

象潟は歌枕の地であり、芭蕉さんは存分に古の人々の世界に浸ったことでしょう。それらすべてを鳥海山は知っているわけです。そんな鳥海山をお二人は絵の中に描かれていました。

追記: 文楽の吉田蓑助さんが今月の国立文楽劇場公演での引退を発表されました。DVD『人形浄瑠璃文楽 名場面選集 ー国立文楽劇場の30年ー』を鑑賞しましたが、何体の人形に命を吹き込まれたのでしょうか。観客と同様に感謝している人形が静かにみつめていることでしょう。これからも文楽のためにアドバイスをお願いいたします。

えんぴつで書く『奥の細道』から(9)

出羽三山の羽黒山は現世で、月山は過去世、湯殿山は未来世と言われています。過去世は死の世界ということでそこから新たな未来世に生まれ変わるということのようです。浄化され再生されるということなのでしょう。

芭蕉は羽黒山から月山湯殿山へとたどり参詣し引き返しています。湯殿山神社の御神体については語ってはいけないという教えに従い「よりて、筆にとどめてしるさず。」としています。

月山に関しては厳しい道のりとなったようです。行者の白い装束を身にまとい強力の先導で雲か霧か分からないような状態の中を雪を踏みつつのぼります。「息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月あらわる。」

羽黒山に拝した私は、月山に行きたいとその後で吾妻小富士、鳥海山、月山のツアーに行きました。月山は八合目までバスで運んでもらい、月山の頂上まで登れない人には、月山中之宮に御田原神社が鎮座してまして、月山神社の遥拝所(ようはいじょ)でもあるのです。ここでお詣りをしまして、その後少し紅葉の弥陀ヶ原散策を楽しみました。

八合目がこんな感じですから頂上は濃い霧の中でしょうか。ここから登るのだとおもったのでしょうか登山口の道しるべを撮っていました。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の黛まどかさんと榎木孝明さんは案内をしてくれる方とともにここから登られたのだとおもいます。

黛さんは三度目だそうで、前の二回は天候不良で断念したようです。三回目で黛さんの願っていたことが叶いました。芭蕉は月山で笹を敷いて篠を枕にして眠り、次の日湯殿山に下ります。その途中で桜に出会うのです。今まで目にしていたであろう桜に触れなかったのはこの山中での桜を強調したかったと勝手に想像しています。その桜との出会いを願った黛さんは月山登山の途中で会えるのです。

「これ桜では!」とみつけられました。

黛さんは、月山登山の『奥の細道』は少し誇張があるのではと思っていたようですが体験してみて実際に大変であることを納得されてました。ただ芭蕉は雪月花をキーワードとしてもいたので、それがそろった月山でもあったそうです。

森敦さんの『月山』を読みました。『奥の細道』を読んでいなければこの本を開かなかったでしょう。

庄内平野をさまよっている主人公の男が、豪雪で行き倒れとなるところを助けられその時月の山と遭遇するのです。月山に導かれるように注連寺(ちゅうれんじ)にお世話になり、そこの村人たちと交流し、村の知られざる伝説のような話を聞き、その村を去るまでのひと冬が描かれています。

森敦さんやはり『奥の細道』に関する本を出しておられました。『われもまた おくのほそ道』。

芭蕉は月山から湯殿山に下る途中で鍛冶小屋について書いています。

「谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を選びて、ここに潔斎して剣を打ち、ついに月山という銘を切って世に賞せらる。」

鍛冶小屋跡が地図に載っています → 志津(姥沢小屋裏)口コース【中級】 | 月山ビジターセンター (gassan.jp)

そこに鍛冶稲荷神社があるようです → 鍛冶稲荷神社 (yamagata-npo.jp)

小鍛冶が刀つくりなら大鍛冶は。製鉄業をあらわすのだそうです。<小鍛冶と狐>、やはり相性の合う最高の組み合わせです。

追記: 

<吾妻小富士・鳥海山・月山>の私的旅はこちらで → 2015年9月26日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)