平将門の上空旋回

吉川英治著「平の将門」を読んでいて驚いたのは、菅原道真の三男・景行が出てきた時である。道真の子がなぜ。小説によると、筑波山のふもとにわずかな菅家の荘園があり、景行は父の遺骨をもって筑波のふもとに祀り、そのまま住みついて地方官吏の余生を送っているとあった。その景行が創建したと言われる大生郷天満宮が常総市にある。

市川市の永井荷風の姿をよく見かけたという白幡天神社は、太田道潅の建立とのいい伝えもあり白幡神社だったのが、明治になって菅原道真を合祀して天の字を加え白幡天神社となり、「白幡神社」の扁額は勝海舟が書いて奉納している。

常総市には、累(かさね)の墓のある法蔵寺もある。歌舞伎では「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)ーかさね」の舞踊でお馴染みである。これは佑天上人の霊験譚として語り伝えられていて、法蔵寺には、累の木像や佑天上人が用いた怨霊解脱の数珠も保存されているようだ。伝説では、苅り取った豆を累に背負わせて、うしろから与右衛門が鬼怒川に突き落とし窒息させたとして、舞踏で、累が鎌で与右衛門に殺されるのはこのあたりの話からきているらしい。

さらに、千姫の墓もある。千姫は家康の命で大阪城落城の際、救出される。千姫の映画で記憶に残るのが、「千姫と秀頼」の美空ひばりさんである。江戸城にもどった千姫は祖父家康を恨み、気がふれたような行動をとる。それが凄い印象で残っているのだが、You Tube に千姫のひばりさんが祖父家康の前で薙刀を持ち踊る場面があった。その形の良さは驚くばかりである。是非 「千姫と秀頼」は見直したい。秀頼は当時の中村錦之助さんである。

千姫のお墓は東京の小石川傳通院にもあり、千姫はその後、桑名藩の忠刻と結婚するが死に別れ落飾し、その時からこの地にある弘経寺を菩提寺と決めている。この寺に崇拝する了学上人がいたからとされている。

将門の終焉の地は、現在の坂東市岩井にある国王神社である。今年は平将門公生誕1111年で、将門まつりが11月10日(日)に行われるらしい。小説では猿島で敗死とされているが、ここが昔猿島と呼ばれた地かどうかはわからない。石下に行ったとき坂東市のパンフも貰ってきたのであるが、処分してしまった。どうも地元の地図が無いと頭の中に描ききれない。

読んでおられる方はもっと描ききれないことであろう。こういう事は、人に言われたからと言って興味が湧くものでもない。どこかで、出会っていても興味が湧かないものは沢山ある。何かそういった事があったなあと素通りして、あれっ!と思ったときに自分で調べるのがよい。

平将門を討った平貞盛はのちの平清盛へとつながるわけで、貴族社会の番人を武士に据えることになったのは、平将門の登場があったからであり、この人なく平清盛も源頼朝もないのであり、徳川家もないのかもしれない。

電車に乗れば駅でパンフレットを手当たり次第に貰ってくるのだが、その中に面白いのがあった。あの鵺(ぬえ)退治 道後温泉  四国旅(6)の源頼政 の頼政塚が千葉県印西市にあった。京都宇治からなぜ。

似仁王(もちひとおう)を立て、平家打倒で闘い敗れ、宇治の平等院で自害した頼政である。解説によると、頼政は自害する時、二人の家臣に「自分の首を持って馬を引き東国へ向かえ。重くなったら、そこに塚を築いて首を葬れ。」と遺言。二人は遺言通り、首が重くて進めなくなり、その地に首を葬り塚を築いた。同じような伝承が茨城県古河市にもあり、古河市には頼政神社があるという。これは、将門に対する憧れの気持ちではないだろうか。東国が武士の発祥の地という。

 

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