会津若松町歩き (2)

会津武家屋敷は想像していたよりも広かった。主は家老屋敷・西郷頼母(さいごうたのも)邸の復元の建物であるが、建築面積は280坪、部屋が38ある。設計図が見つかり再現されたとある。開け放しであるから見学していても寒さが身にしみる。ここを出る時知ったのであるが、中を見学出来るのは12月から3月の雪の時期だけで、あとは、外からの見学なのだそうである。外周りに雪があるので外からは見て周れないからである。それは幸運であった。説明書きもよく見える。

御成り御殿といわれる一角がある。藩主と重役だけが通される別棟の部屋の一角である。そこで接待をするためのお茶などを用意する賄の間の柱の釘隠しは銅製ではなく、鋳物である。銅は湯気で緑青という毒物が発生するからである。西郷家家臣の執務する部屋。家族の部屋。使用人の部屋と台所。四つのブロックに分けることができる。家族の仏間は西郷家の自刃の間である。その再現は屋敷内の片長屋の資料館にある。自刃された人々の中には、お城に入るとなると城内の食料などを減らすことになるという考えも含まれていたようである。逃げる事をせず、負担もかけずの選択死なのであろう。頼母さんの場合はもう一つ、和議恭順説を主張し軟弱とも言われていたので、その事も家族として頼母さんの負い目とならない様にとの気持ちもあったのかと想像する。痛ましい事である。

西郷頼母は、会津藩松平家譜代の家臣で千七百石取りである。一石(いっこく)が米二俵半であるから米俵にすると、4250俵であろうか。どういう経緯かは解らぬが、榎本武揚の艦隊と合流し終戦をむかえている。各地の神官をつとめ一時期日光東照宮の宮司であった旧主君松平容保と再会を果たしている。晩年は城の近くの十軒長屋で居住し74歳で亡くなる。

司馬遼太郎さんの街道をゆく『白川・会津のみち』によると、容保は入浴以外肌身放さず長さ一尺ばかりの細い竹筒を身につけていて、死後竹筒を改めると「なんと孝明天皇の宸翰二通だった。」「会津人はつつましかった。この二通で、薩長という勝者によって書かれた維新史に大きな修正が入るはずだのに、公表せず、ようやく明治三十年代になって、『京都守護始末』に掲載するのである。」と書かれている。

頼母邸に入る門前先に西郷四郎像がある。この人は頼母さんの養子になったかたで、「姿三四郎」のモデルである。講道館を入門8年を経て明治23年に去り長崎に居をかまえ、東洋日の出新聞の編集責任者として活躍し病気療養中の広島の尾道で大正11年57歳で亡くなっている。投げられても地につくまで身をひるがえす柔軟さで「猫」と呼ばれていた。特技「山嵐」は彼の独特のもので、その後は禁じ手となる。新聞特派員として大陸や日露戦争、辛亥革命の報道でも活躍し、孫文らとも接触があったとも言われている。内田康夫さんの『風葬も城』に「夏目漱石の『坊ちゃん』に出てくる熱血漢「山嵐」も会津っぽで、江戸っ子の「坊ちゃん」とともに、いつも損ばかりしている。」とあり、<山嵐が会津っぽ>であることに気づかせてもらったのだが、さらに西郷四郎さんは夏目漱石の視野にも入っていたわけである。

持ち帰ったパンフや観光案内を見ると、いつものように行けなかった所、行きたい所が出てくる。一度行くと時間配分や使う交通手段も決まってきて計画は立てやすくなる。来年も沢山のプチ旅が出来ることを願っている。そして今まで平和な国であったことに感謝し、新しい年も平和な国でありますように。宇宙のことはよく知らないが、人間のような生命体が存在しているのは地球だけであろう。その地球で戦争をしないと誓って実行している国があるというのは誇れることだと思う。

お菓子の会津葵も買ってきた。カステラにあんが入っているハイカラなお菓子である。「小公子」を翻訳した若松賤子(しずこ)さんも会津出身で、ハイカラさんの多い町である。今度訪れることがあれば、会津の郷土料理を食したいと思う。風土からくる保存食の工夫が見られる。みしらず柿であろうか、列車から柿の実を残した木が多く見られた。この旅には「古典夜話ーけり子とかも子の対談集ー」(円地文子・白洲正子著)を持参したが面白く、旅で読み終わり、お二人には古典の魅力を鼻先に突き付けられ微香を嗅がせられてしまった。

 

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