歌舞伎座 3月『菅原伝授手習鑑』(5)

源蔵は、管秀才を匿っていることが時平に知れ、管秀才の首を討つようにとの命を受けたのである。その首の検分に松王丸と春藤玄蕃(亀鶴)が来るという。源蔵は、家に戻った時、管秀才の身代わりにできる子はいないかと見回したのである。そして、小太郎を見たとき、この子なら品もあり、身代わりになると決心するのである。さらに信じられないことに、我が子を身代わりにするために送り出したのが、松王丸夫婦なのである。

現代では考えられないことである。那智の補陀洛山寺で、西方浄土を信じ、生きながら補陀洛渡海を試みた頃の人々の宗教観とおなじである。主人に仕えるという事は、全てを犠牲にするのが、当り前の時代感覚だったのであり、それが美徳だったのである。そうした観念の時代をも想像しなければ、成り立たなくなる。

源蔵は戸浪にそれを告げ、お互いに乱れる心を押さえ、管秀才を物入れに隠し、源蔵は、菅丞相からの筆法伝授の一巻を懐に入れるのである。今回初めてこの意味がわかったのであるが、源蔵は菅丞相の自分に対する心を懐に入れ、この場に臨むのである。松王丸と玄蕃が首実検に現れる。寺子屋の生徒を親に渡し、身代わりにしたなら見抜くつもりなのである。松王は、管秀才の顔を知っているため、この役が回ってきたのであり、そのことによって、管秀才の身の危険をいち早くキャッチして、先手を考えたのである。

緊張する源蔵夫婦と、小太郎が既に討たれているのか疑心暗鬼の松王とが、室内でぶつかり合う。こういうところは、言葉に出来ないゆえに、歌舞伎特有の形で現す。形は、約束事になると、役者と観客にとって都合のよい、以心伝心の役割を果たす。なかなか都合の良いものである。

まだ小太郎の首を討っていないと知ると、松王は、源蔵の迷う心を追い込んでいく。決心しながらも苦しい源蔵。こちらの苦しみを知らぬ松王に憎しみを持ったであろう。それが、松王の駆け引きでもあった。源蔵は事を成す為、奥に入る。小太郎の寺入りの時、持参した立派な文机を誰のかと尋ねられ、「今日寺入りした・・・」と答える戸浪に「ばかな」と戸浪の言葉を止め、管秀才の机だと言わせる。自分の子を身代わりにするのであるから、玄蕃にもしっかり納得させないと、露見しては、小太郎の死が無になってしまうのである。源蔵の刀を下した叫びが聞こえる。

玄蕃に悟られることなく首実検が終わり、病でありながら役目を果たした松王は立ち去るのである。玄蕃に捨て台詞を言われ二人になった源蔵夫婦は、わなわなと下半身の力が抜けてしまう。

千代がもどってくる。ここで源蔵と千代の探り合いがあり、斬りかかる源蔵に、解っていての寺入りであったことを告げる。そこに、松王が、松の一枝に和歌をつけて投げいれる。その歌が「梅は飛び桜は枯るる世の中に何とて松のつれなかるらん」である。「松のつれなかるらん」は、<何て松王はつれないのであろう>と、<あの松王がつれないわけがあろうか>の二つの意味を含んでいるらしい。その意味が、我が子を身がわりにした松王丸の行動でもわかる。

ことの次第から松王丸夫婦への想いを深くし、小太郎が最後は笑って身を処したと語る源蔵。泣き笑いとなる松王。泣きくずれる千代に「あれほど家で泣いたのに吠えるな。」と押さえる松王。あの<賀の祝>の千代がここに至った様子が想像できる。「それにしても、不憫なのは桜丸。」と「御免、源蔵どの。」と泣く松王丸。ここで、松王は、我が子と桜丸を重ねての涙となる。その涙も源蔵夫婦との目に見えぬ心の交流があり、心ゆるせてのことである。

菅秀才と園生の前(高麗蔵)も再会し、小太郎の野辺送りも済ませ、それぞれの想いでの幕切れとなる。

まだ腹に納めて、形で見せるというところまでには至っていないので、心の動きが、演技ということで、手に取るように見せてもらった。役に対する想いと、芝居の内容に対する想いが、若い人達にとって、ずれを感じる事もあるであろうなと思えた。そこを、どう乗り越え継続していくかも、これから長く続ければ続ける程、一つの壁となるのかもしれない。ただ、そのずれが、今を考えさせることでもあり、歌舞伎だからこそ出来る世界なのである。

何が起ころうと、感情を露わにせず、信念を貫く、菅丞相。その周囲で起伏の幅を自らの手で何んとか乗り越え受け入れようとする人々。通しで観ると、やはり作品の深さと面白さが増す。名作である。

<車引>で、金棒を引いて時平の通ることを知らせる役者さんの声が良く、誰なのか知りたくて筋書を買ってしまった。片岡松十郎さんである。と思うのだが。もし違っていたらショックである。腰元の宗之助さんも芯がありよかった。家橘さんも局としての貫禄が良い。亀三郎さんと亀寿さんは、あれ、役が反対のようなと思ったが、亀三郎さんの「そーれ!」の声の良さに、勢いが加わり成程である。

大宰府天満宮に行った時に、「菅原道真公 花の歳時記」(福田万里子著)を購入してきた。『菅原文章』と『菅原後集』を中心に、道真公が草花を読まれた歌や詩などを取り上げられている。道真公だけではない方々の歌も載せられ、道真公の自然に対する想いが伝わるようになっている。今回は、この本も味わいつつ、芝居も味わわせてもらった。

「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」

いえいえ、あるじも春も忘れることはありません。

 

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