歌舞伎座 十月歌舞伎『髪結新三』

今月は<二世尾上松緑二十七回忌追善狂言>とされる演目が三つある。『矢の根』『文七元結』『髪結新三』。

京都千本閻魔堂のからみで『髪結新三』からとする。松緑さんの新三には、すさみがある。<深川閻魔堂橋の場>では、今までだれも見せたことのない、すさみからくる一か八かに生きるはぐれものの狂気をみた。腕の入墨の二本の線がくっきりと目につく。かつては、羽振りをきかせた弥太五郎源七(團蔵)を鼻からバカにしてかかり、弥太五郎源七もこわっぱの新三めという憎さが現れていた。

<深川閻魔堂橋の場>は、お付き合いといった感じがあるが、今回は、月代を伸び放題にした新三のすさみが一層協調され着物の着方もよく、対する團蔵さんも殺気がある。新三という人物がいかに世の中からはぐれて自分の価値観だけで生きてきた男であるかがわかる。ここで殺されても仕方のない男と思わせられた。

こう思わせる新三の描きかたが、悪を格好良く見せる歌舞伎の様式美からすると異論のでるところかもしれない。

一つ問題は、これだけのすさみを出すなら、店を持たずに出張して髪を結いを生業とする、腰の低さと客に取り入る明るさが欲しい。新三というのはその辺りが上手い人間と思っている。ところが相手が利用価値のない人間となるところっと変わるのである。松緑さんは、その辺りの高低さが低い。予想がついていても、親切そうな新三がと、忠七との花道から驚かせてくれなくてはならない。その点、時蔵さんの忠七は、私が悪かったと新三の本心がわからず、新三の機嫌を損ねないように取り入り次第に騙されたのかという状態を上手く演じられていた。

<深川閻魔堂橋の場>の新三の台詞が気に入ったので記す。

ちょうで所も寺町に娑婆と冥土の別れ道 その身の罪も深川の名さえも閻魔堂と鬼といわれた源七がここぞ命の捨てるのも 我鬼より弱い手業(しょうべえ)の地獄のかすりを取った報いだ おれも遊び人 釜とはいいながら 黒闇地獄(ごくあんじごく)のくらやみでも亡者(もうじゃ)の中の二番役 業(ごう)の秤(はかり)にかけられたらば貫目の違う入墨新三 こんな出合もその内にてっきりあろうと浄玻璃の鏡にかけて懐に隠しておいたこの匕首(あいくち) 刃物があれば鬼に金棒 どれ血塗れ仕事にかかろうか

今までにない新三の命の張り方を松緑さんは見せた。この命のやり取りは途中で幕となる。話としては、新三は弥太五郎源七に切り殺され、大岡裁きとなるのである。

粋がっているが、新三ははぐれ者である。そのすさみ部分の出し方はここでもかという感じがあり、そこを上手く粋さと組み合わされば、他では見られない松緑さんの新三になるであろう。この歩合をどう持っていくかが秤のかけどころである。

難しいだけにやりがいのある黒闇役者道である。

(体調がすさんでいて、気は焦るが良い思案が浮かばない。これにてチョン!)

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