映画『母と暮せば』

映画『母と暮せば』を今年中に観ておきたかったので、朝イチで観る。多くの若者と同じ映画館の階でエレベターを降りる。彼らは『スター・ウォーズ』であろう。

やはり今年中に見ておいて良かった。どうして12月の公開にしたのか疑問であったが、それには意味があったのである。

長崎に原爆を投下する、アメリカの飛行機の中から映画は始まる。天候が悪く、第一候補の小倉から長崎に変更される。レーダー関知ではなく目視確認で投下せよとのことで視界は雲で覆われている。目視できなければ中止との命令である。

ところが一瞬雲が切れ長崎市街が眼下に見える。

青年は長崎大学の医学生である。教室でインクの瓶のキャップを取り、大事にしている万年筆にインクをつける。光とともにインク瓶は軟体物のように、変形していく。

それから3年、青年は、あちらの世界から母の前に姿を現す。

映画『父と暮らせば』は、広島の原爆で生き残った娘のところへ死んだ父親が現れる。生き残ったことに罪悪感を持っている娘を、その状況から救い出し父親は姿を消す。

『母と暮らせば』は、やっとのおもいで生きている母親が、死んだ息子の魂を鎮めてやる役割となる。母にとって、息子があちらの世界でもし生きていると同じ感情があるとすれば、自分の死に対してどう思っているかということが気がかりなことである。クリスチャンの母は息子の死を運命とは思っていない。それは、人が考え計画した理不尽な死と考えている。

おしゃべり好きで明るい息子は、母との会話で自分にとってつらい悲しいことがあると消えてしまう。そのことを知っていながら、母はつらくて悲しいことがらにも触れる。

あの子のことである。必ずまた会いにきてくれると信じている。母は死んだ息子を導いてやるのである。そのことを成し遂げなくては、息子の魂は鎮まらないと考えているようにみえる。

母は息子と共に、最後の人ととしての仕事を成し遂げるのである。

息子の浩二役の二宮和也さんの少し幼い感じが、亡くなって三年経って、その間生き残った人々の試練に耐えている時間差の違いが上手く表れていた。

吉永小百合さんの母親は、その幼さの三年間を埋めてあげるように、浩二と会話していく。最初は、ただ会えることに喜びを見出して思い出話などをしていると思っていたが、途中から死した人でありながら、この母親は失われた三年間の息子の成長に手を貸しているのだと思えた。時には優しく、時には凛として、時には笑顔で。そうすることが、息子の魂を鎮めてあげることなのである。

そう思えた時からは、もう涙、涙であった。

生と死の間での濃密な母と息子の時間である。こういう関係もありなのである。山田洋次監督の優しさである。さらに山田監督は、その濃密な時間を共有してしまった人に、さらなるつらい過酷な時間をこれ以上与えてなるものかと一つの結論を与えた。山田監督流のいたわりであろう。

浩二の恋人役の黒木華さんの己の内面の成長ぶりがホッとさせつつ心に沁みる。そこに加わる婚約者の浅野忠信さんの誠実さがしっかり前を向いている。

本当にいい人なのかどうか、ちょっと疑ってしまう闇物資ブローカーの上海のおじさんの加藤健一さんの存在も無理が無い。

ところどころで、台詞に想像力が加わる。生徒が傘がなく学校に行けないと泣くので先生が生徒の家によって傘に入れてあげる。この先生が浩二の恋人の町子なのであるが、<栄養失調で抵抗力がない子が多く、雨で風邪などひいては大変なので学校は休んでいいというのですが>というところがある。これは、戦後の当時の子供たちの切実な状況を現していると思えた。

浩二は映画監督になりたいと思った時もあって、映画を観て来たと母につげる「どんな映画。」「イギリスの『ヘンリー五世』。」「お母さんが近頃観た映画は何。」「『アメリカ交響楽』。」「ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」いいよね。どうしてアメリカはあんな良いものを作りながら、あんなことも出来ちゃうんだろう。」

私だってアメリカの映画や音楽などを楽しんでいる。でもどうしてなのであろうか。戦争となると、無抵抗の市民の命をも簡単に奪ってしまうのである。だから全面的には信用はできないのである。

目をしょぼつかせて外に出ると、買い物客で賑わっている。三人ほどの友人や知人に遭遇する。

映画を観て来たことを告げると、余裕だねと言われたり、観たいと思って居るんだけど年末に入ったからね、さすがやりたいことは朝のうちに済ませたのねなどと言われる。

夜中にもう一つやることがある。『アメリカ交響楽』を観る事。

 

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