歌舞伎座二月 『新書太閤記』

通し狂言『新書太閤記』。吉川英治原作を六代目菊五郎さんが新聞連載中に上演したとある。どのような評価であったのか知りたいところであるが深入りはしないで当月を楽しんだ。秀吉を取り巻く歴史上の人物がオムニバス的に、それぞれの逸話が展開され、秀吉が信長の心をつかみ時代を手にいれてゆくさまがスムーズに流れ構築されていく。

菊五郎さんの秀吉は芝居の狂言回しの役目をしつつ、自分の都合の良いほうにというか、周囲を丸め込むというか、一本気の人をなごませるというか、人の発想を逆転させるというか、道なき道を切り開いていくというか、つかみどころのない人物である。

自分自身もわかっているのか、それとも楽天的なのか、計算高いのか、出世欲なのか、捨て身なのか、こうときめつけられない多様性をもっている。

ただ、信長に気に入られ様としたのは確かであるが、その気に入られ方もまっとうな知恵であるのか、悪知恵なのかは判然としない。

槍の試合に長い槍を持ちだし上島主水(松緑)側を負かしてしまう。どちらが槍の使い手であるかなど問題ではない。戦さでどちらが道具としての槍が有効であるかである。槍の名手の上島としては武士として許せないことである。ところが、秀吉にすれば、武士の個人の誇りなど関係ないのである。信長公にどうお仕えするかが主従の従の道と考えている。

そんな調子で、秀吉の言葉に皆納得してしまう。その発想が面白くもあり他愛無くもあり、こんな男のいうことだからとプライドをしまいこむ者もいる。

寧々(時蔵)との祝言はお笑いであるが、寧々が秀吉を気に入っていたので成功する。前田利家(歌六)も秀吉の悪知恵には笑って済ますこととなり、それがかえって利家の大きさを見せることとなる。

清州城の普請場での功績、軍師竹中半兵衛(左團次)を味方にいれるなどして、藤吉郎から秀吉になる流れも無理がない。

ただ、明智光秀(吉右衛門)だけは、秀吉も心をやわらげることはできなかった。ここが、光秀役の吉右衛門さんには手こずる芝居と役の二重性の楽しみがある。あの『馬盥』の光秀には無理でしょう。かえって火に油をそそぐだけかも。

信長(梅玉)は光秀のこころが読めるだけに激怒するのかもしれない。秀吉の行動は信長には読めない。ごますりかもしれないが、思ってもいないような行動にでるのが信長の緊張をほどきかつ引き締める楽しさをもたらしたのかも。

光秀は信長を討って初めて信長の孤独を知ったであろう。しかし秀吉にはまだ孤独感などありはしない。父信長のあとをつぐのが当たり前だと思う織田信孝(錦之助)や実直な柴田勝家(又五郎)を排除して三法師君を抱きかかえているのである。

そこには寧々も連座して、中々な夫婦である。

濃姫(菊之助)、秀吉の母(東蔵)、寧々の父母(團蔵、萬次郎)など役者がそろい、歌舞伎のオールスター版である。

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立振る舞いは美しいし、役者さん達の本来の合う役や、すでに認知度の高い役どころと頭の中で比較したり、菊五郎さんの秀吉の出方にどう反応するのかなど、ツッコミも入れたりできる楽しい舞台となった。

そして、若手の役者さんがどう信長を守るためにとりまくのか、藤吉郎を軽くあつかうのかなどもなるほどと思いつつほくそ笑んでいた。

 

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