映画『バックコーラスの歌姫たち』『THIS IS IT』『三つ数えろ』

『バックコーラスの歌姫たち』は、世界のロック界などのスーパースターのバックコーラスの女性ヴォーカルとして、実力ある歌姫たちのドキュメンタリーである。

いづれはメインで歌いたいと挑戦するひと。途中でやめてもやはり、バックでも歌っていることが好きだと戻る人。バックであっても歌を作り上げているのだと自負する人。その想いが時間の流れの中で、一人の人の流れであったり、他の人から見た流れであったり、時代とともに要求されるバックコーラスの求められ方の違いなどが交差している。

その中に、この人は確かという人がでてきた。ジュディス・ヒル。ドキュメンタリー映画『THIS IS IT』でマイケル・ジャクソンとメインで歌い、バックでも歌っていた人である。マイケルが『THIS IS IT』公演前に亡くなって、公演前のリハーサル風景が映画となった。

マイケルに関しては、歌を聴きたいとか映像を観たいとか思わなかった。スーパースターの一人と思っていただけである。たまたま、映画『THIS IS IT』が公開されたころ、ドキュメンタリーにはまっていたのである。バレエ、ファッション、音楽、タンゴ等の出来上がるまでの過程が面白かったしドキュメンタリー映画も見せるという要素が強くなっていた。

ドキュメンタリーといえども編集があるわけで、意図的な効果や構成があるであろうから『THIS IS IT』も当然そういう人的介入は考慮したとしても、気に入った。マイケルに舞台の表現者以外の発言を一切させていない。好きも嫌いもない者にとっては、それだけのほうが納得できた。つまらぬ感情を使わなくてすみ、こういう風にマイケルはコンサートを作りあげていきたかったのかということが素直に受け止められた。再度見直して、この気持ちはかわらなかった。

大きな声を張り上げるわけでもない。周りがマイケルの気持ちを読んでカバーしてもいるが、皆がマイケルの感覚をつかもうと真剣である。

マイケルのテンポの表現が「ベッドからはい出すような感じ」「月光に浸る感じだ静寂が染み渡る」などとその表現が時には微妙である。

この時期、仲間うちで、「マイケルのような表現で説明して。」「マイケル的哲学表現でよくわからない。」というのが流行って飛び交った。

このコンサートの構成のなかに、ショート映像が映し出されるらしく、かつての幾つかのハリウッド映画の一場面を、マイケルが追われるシーンとして作っていた。リタ・ヘイワースの『ギルダ』と、ハンフリー・ボガードの『三つ数えろ』はわかった。それがまた、気に入ってしまった理由の一つでもある。マイケルは映画を色々みていたのだ。

『ギルダ』は『ショーシャンクの空に』で刑務所内で上映された映画で、リタ・ヘイワースが髪をなびかせて振り向くと<ギルダ>と声がかかるのである。この映画を観たいと思っていたら、今のシネスイッチ銀座が銀座文化劇場であったとき「ハリウッド黄金時代の美女たち」として『ギルダ』を上映してくれ待ってましたとばかりに見に行ったのである。内容は、ありふれていてリタ・ヘイワースをみるための映画であった。

『三つ数えろ』は、今回見直した。この映画は、1945年版と1946年版があるらしく、1946年版である。1946年版のほうが、ハンフリー・ボガートとローレン・バコールのからみの部分が多いのだそうで、二人の結婚と関係があるのであろうか。ただこの映画は、謎が謎を生んで最終わかったようなわからないようなという結末である。

映画好きとしては、これが出て来ただけでマイケルの評価はたかくなる。このショート映像はマイケルもその中に参加するということで合成である。かなり入り組んだ合成映像となっている。

マイケルは小さいころから踊っていただけに身体のリズム感が、楽器のようである。手、足、顔が同時に別の方向に動いて、身体も前後、左右と動き続けで、さらに声を出して歌っている。詞があるゆえに、感情の表現も身体から出したいという想いがあるようだ。

何日間もかけてリハーサルをし、自分のなかで一つ一つ確かめ、最終的には自分のイメージと合体させていくのであろうが、残念ながらこのコンサートの完成品が世にでることはなかった。

この映画は、マイケルが自分の持つ力をどう発露していくかという点ですぐれた映像だとおもう。マイケルの勝負しようとする焦点がはっきりしている。

好きでも嫌いでもないマイケル・ジャクソンの映像は、これ一つがお勧めである。実力とあふれる想像力と創造力を兼ね備えたスーパースターであった。

マイケルとメインで歌った、ジュディス・ヒルは、一人立ちしたようでもあるが、そのプロデューサーであろうか、「スターに仕立て上げることは簡単だ。だがジュディスの才能はもっと奥深いものだ。売れすぎるのもよくない。」といっている。

マイケル・ジャクソンも売れすぎて、彼の実績だけでない余計な付随物で覆われてしまったところがある。そのことだけが膨らんでしまったような感もある。有名人のプライベートのみに関心のある人も多いから、それは避けられないことであるが。

シネマ歌舞伎『棒しばり』と『喜撰』を見た。芸はそのひとが亡くなるとき持っていってしまうというに尽きる。お迎え坊主さんたちがくりだして、そうか皆さん三津五郎さんと同じ舞台上だったのである。今の彼らを、勘三郎さんと三津五郎さんはどう見て、どう声をかけるであろうかと思ったら胸がつまった。

 

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