いよいよ落合の石畳へと進む。

落合川に架かる大橋が洪水のためたびたび流失。道をかえるが医王寺までのつづら折りの道が難所で遠回りのため再び十曲峠への道とする。その後つづら折りの道は避けて新しい道とする。


馬頭観音菩薩(イボ観音)
イボができたら石を借りてさすり治ったら石を二つにして返すとあります。

瑠璃山医王寺

落合の石畳
落合の石畳が思っていたより長かった。案内板によると840メートルでした。十国峠を歩きやすくするために石を敷きならべたもので当時のままの部分が三か所70.8メートルあります。なだらかな石畳の坂で芸術品のような趣です。




尾張徳川家がこの石畳を含む中山道の維持管理をしていた。道の両側端が直線となるように石を並べている。

途中に今は閉められている山のうさぎ茶屋というのがあって、その前にかなりはげてしまった<中乗り新三>の旅烏姿の看板がありました。聞いた事のある名前ですが、どんな人なのかわからないので検索しましたら、芝居や映画にでてくる主人公で、映画では三波春夫さんが演じてました。江戸から木曽に材木を買い付けにきて、まあ渡世のいろいろなことがあるということらしいのです。

木曽の木は尾張藩にとっては宝の山で、村人は非常に厳しい規制のなかにあり、勝手に木を切らない様に、のこぎりを使わせなかったのです。斧だと音が響くのでこっそり切ろうとしてもすぐ判ってしまうからです。木一本首ひとつといわれているほど厳罰が待ち構えていました。
切った木を木曽川を使っての運搬方法も木曽川本流では大川狩(おおかわがり)といって、組み立てられた木を流す通路を一本一本流していくのです。妻籠宿の脇本陣奥谷の歴史資料館に模型があり木の流しそうめんのようでした。

明治となり山林が自分たちの手に戻ってくると信じていたのにそうはならず、『夜明け前』の半蔵は奔走するのですが、明治22年には皇室の財産に編入されてしまうのです。とまあ資料館的にはそうなりますが、『夜明け前』ではこれから読んでのことです。
馬籠では昼食をしたお店のかたが、一人なら熊よけの鈴をもっていったほうがよいということなので、観光案内所で借りました。これはお金を払って借り、次の宿場の観光案内所で返すとお金をもどしてくれます。

妻籠に向かいますが馬籠宿の家並みを抜けたところに展望台があり、恵那山が見えます。『夜明け前』の一文も紹介されています。姑・おまんが嫁・お民に家の中を案内し恵那山を眺める会話で妻籠と馬籠の風景の違いがでてきます。馬籠峠の頂上までといっても山の中で見晴しの良いのはここだけといえます。
島崎藤村記念碑
「心起きうと思はば 先ず身を起こせ」 ニイチエの言葉より

『夜明け前』より




梨子の木坂

山の中ですので道は判りやすく案内表示がしっかりしていますので、天気と体力だけそろえば大丈夫ですが、馬籠峠まではちょっときつい登りもありました。所々に熊よけの鐘があって、このときとばかり元気づけに鳴らして歩きました。途中に十返舎一九の狂歌碑もあります。「 渋皮のむけし女は見えねども栗のこはめしここの名物 」 渋皮そのままの女も名物の栗のこわめしは食べました。
十返舎一九狂歌碑

馬籠峠頂上


一石栃立場茶屋
一石栃は妻籠宿と馬籠宿の中間にあり往時は七軒ほどあった。今は牧野家住宅一軒である。

馬籠峠を越えると下りですので気分も樂でしたが、途中の休憩場所でお茶をすすめられましたが先が急がれておことわりしました。外国人のかたのほうが歩いてられる数は多いです。休憩所の人が、15分ぐらい歩くと女滝、男滝があるので涼しいから寄って見ていきなさいと教えてくれました。妻籠までは1時間といわれましたが、私は1時間半かかりました。15分たっても滝の案内がなく見逃したかなとおもった頃にありました。滝の水の力におおわれた涼しい時間でした。しかし歩みは予想どおりおそくなっていました。
一石栃入口道標


男滝女滝
吉川英治著『宮本武蔵』の舞台にもとりあげられた。



倉科祖霊社(くらしなそれいしゃ)


牛頭観音



庚申塚


妻籠宿寺下の案内板

延命地蔵(汗かき地蔵)
祀られてるのは石で昼夜の気温差の激しさから度々結露が発生。まるで汗をかいているように見えることから「汗かき地蔵」とも呼ばれている。

はるか下のほうに家が見える箇所もあり、馬籠に入る途中の棚田の風景とは違い、その深さに木曽の山中をあらためて感じる風景にも出会います。前日、妻籠の宿場は観光しておいたので宿に入る見知った家並みを通るようにして無事鈴も返しましたが、久しく歩いていなかったので思いのほか疲れました。
妻籠も馬籠も宿場にすぐ入れない様に道を直角にまげている枡形(ますがた)が道が狭く坂なので面白いかたちで残っていました。
妻籠の桝形


馬籠の桝形

大名なども泊るのでその身の安全や大名たちの格差もあるので、行列が鉢合わせしないための工夫でもあったようです。中津川宿などは平らなためもあって枡形が直角に曲がっているのが一目でわかります。
東海道は、開発のためどんどん枡形も壊されてしまっています。疲れはしましたが、自然も中仙道を味わったという気分にさせられ満足、満足です。
【 参考付記 】
展望台の『夜明け前』文 (第一部 第一章 第三節)
「お民、来てご覧。きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ。木曽川の音が聞こえるかねえ。」
「ええ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河の直ぐ側でもありませんけれど。」
「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」
「それでも、まあ好い眺めですこと。」
「そりゃ馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国までみえます。どうかするとお天気の好い日には遠い伊吹山まで見えることがありますよ!」
林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民はめずらしかった。僅かに二里隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉の訛りからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうことの出来る紅い「ずいき」の漬物なぞも妻籠の本陣では造らないものであった。
【 寄り道 】
お天気の好い日には馬籠から伊吹山も見えたそうですので8月初めの伊吹山のお花畑を。






伊吹山寺山頂本堂
