名古屋でのイベント参加で友人と出かけたのですが、イベントがが台風のため中止となり、10月29日の帰る日は予定を繰り上げて午前中に名古屋を後にしました。台風22号は、爪痕を深く残した21号よりも傷をえぐらず通りすぎてくれました。何にせよ近頃の台風や気候変動は予想がつかないので逃げるが勝ちです。
名古屋の散策は、名古屋城、中村公園、明治村にしましたが、二日目は雨のため明治村は中止として、美術館としました。
名古屋城についてはパンフを改めて読みました。まとめますと、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は豊臣方への備えとして名古屋城の築城と、清須から新城下への街まるごとの引っ越しを決定。普請(土木工事)は、加藤清正、福島正則ら西国大名20家に命令。慶長17年(1612年)に完成し、尾張初代藩主は家康九男の義直。以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城となります。
昭和20年(1930年)の名古屋空襲で本丸のほとんどが焼失。昭和34年(1959年)天守が再建。
そして今回は、本丸御殿の再建中で一部が公開されていました。来年の2018年には全て完成する予定です。公開されているのは<玄関><表書院><対面所>で、黒の漆が目に映る建物内で襖絵、壁画と同時に天井がみどころです。
東門から入ると<清正石曳きの像>があり、天守の石垣は清正が任せられ大きな石の上に乗り音頭をとった像です。本丸御殿見学のあと進むと石垣に<清正石>があります。大きな見やすいところにあるのをそう名付けたのかなとも思ったりします。以前来たときよりも見学時間がかかりました。その時は、そこから徳川美術館へいったのですが、今回は中村公園です。
友人の御朱印のためにと探していましたら、中村公園に行きあたりました。名古屋中村区中村町は、豊臣秀吉さん、加藤清正さん、そして初代中村勘三郎さんの生まれた土地なのです。
豊國神社(御祭神 秀吉公、摂社 清正公)があり、秀吉公誕生の地として常泉寺があり、清正公誕生の地として妙行寺があります。
そして初代中村勘三郎さんの踊っている像がありました。解説文には次のようにあります。この地で生まれて、京都で大蔵流狂言を学び、京から江戸に下ってのちは猿若勘三郎と名乗り、現在の日本橋付近で「猿若座」を開設、江戸で初めての常設の芝居小屋で、初代中村勘三郎が江戸歌舞伎の開祖といわれる由来です。その後堺町に移転。その際、中村勘三郎を名乗り、猿若座の名前も中村座と改めました。
2006年(平成16年)には、区内同朋高等学校で十八代目中村勘三郎の襲名披露公演も行われています。9月24日から27まで、同校の体育館を改装して行われていました。11年前ですね。
初代中村勘三郎像の除幕式は今年の5月だったのですね。体育館襲名はテレビで特集のとき見ていますが、除幕式は知りませんでした。本来であれば、名古屋に行くからには初代勘三郎像をまず見なくてはと言わなければならないのでしょうが、思いがけない出現だったのです。
豊國神社では、季節限定の御朱印と通常御朱印、清正公の御朱印が頂けたらしく、その他のお寺もありますから、この公園で御朱印が増え友人はニンマリでした。こちらも、初代中村勘三郎さんの生誕の土地に立つことが出来、名古屋中村区は印象に残る土地となりました。文化プラザの中には秀吉・清正記念館もありましたが時間的にパスです。
次の日は雨模様ではっきりしませんので、観光案内で美術館などのチラシをゲットして呑気にいきましょうと検討し、友人が『神の手・ニッポン展』(テレピアホール)に行きたいというので、もう一箇所は近い場所の『長沢芦雪展』(愛知県美術館)にしました。
気になるチラシがありまして、「文化のみち二葉館」(旧川上貞奴邸)での『江戸川乱歩と人形』でした。あの建物と江戸川乱歩さん合うと思います。でもどうして名古屋なのと不思議でしたが、乱歩さん、生まれは三重県名張市ですが、お父さんの仕事の関係で3歳から18歳(愛知県立第五中学校卒業)まで名古屋で育ったのです。
最初からここまでという意気込みがなく、二箇所まわった時点で、今日はこのぐらいでということになってしまいました。今から考えるとちょっと残念でした。名古屋での乱歩さんに御目通りしておけばよかったと。