国立劇場11月『坂崎出羽守』『沓掛時次郎』(2)

沓掛時次郎(くつかけとこじろう)』は、歌舞伎としての舞台は41年ぶりとのこと。昭和3年の作品で同年に初演したのが新国劇の沢田正二郎さんで、歌舞伎では昭和9年に15代目市村羽左衛門さんが初演しています。今回は梅玉さんの初役です。梅玉さんは、品のある役どころですからイメージとして浮かばないのですが、もう一度長谷川伸さんの作品を考えさせてもらいました。渡世人を主人公にした股旅ものは、映画や舞台で華やかなスターが演じて大衆に広まりましたが、本来は世間からのはぐれ者の世界です。

世間とは別の世界の話しなのです。沓掛生まれの時次郎は、助っ人で六ッ田の三蔵を殺すために敵対する一家の三人と襲撃に加わります。六ッ田の三蔵は、かつては大きな中ノ川一家を親分の義理からただ一人名乗っている男です。それだからこそ敵対する一家にとっては、目の上のたんこぶなのでしょう。渡世人の時次郎にとっては、渡世を張るなら相手がどんな男など関係ありません。

三人は三蔵に追い返され、一騎打ちで時次郎は三蔵を切ってしまいます。三人が、三蔵の女房と子供にまで手をかけようとするので、親子を助けます。息絶え絶えの三蔵は、女房と子供を時次郎に託します。強い方が勝つ。それを知っている三蔵は、女、子供を助け腕の立つ時次郎に一縷の望みをかけたのでしょう。

時次郎は親子を連れて逃げることになります。梅玉さんの時次郎は淡々としていてクールです。おきぬは三蔵の子を身ごもっていて、時蔵と二人で追分節の流しをしつつ熊谷宿の安宿で、おきぬの出産を真近に控えていますが出産の費用が捻出できません。宿の主人から博徒の出入りの仕事が持ち掛けられます。時次郎は、八丁徳一家の助っ人の仕事を引きうけ、おかねと太郎吉には追分節の仕事が入ったからと、産気づくおかねに待っていてくれと告げます。

この仕事を紹介した宿の亭主・安兵衛とおろく夫婦もかつては博徒に関係するような立場のような気がします。三蔵襲撃の時、仲間を切られ時次郎を追いかける百助と半太郎が踏み込んで来た時、女房おろくが追い返しますが、そうした意気はおろくの過去を思わせますし、話しをもってきながらそれを止めようとする安兵衛にも自分と投影しているように思えます。勝手にそう設定して観ました。時次郎たちに対する情の深ささがどこか同類とみえたのです。

安兵衛とおろくは、部屋でおきぬの供養の花の前にいます。八丁徳の親分が時次郎の男気を気に入り訪ねてきますが、おきぬと赤ん坊の死に際に間に合わなかった時次郎は、百姓になるため太郎吉を連れて旅だったことを告げます。

八丁堀の親分は子分に屋根の上から時次郎の後ろ姿に別れを惜しませます。ここが、姿のない渡世人時次郎を大きく見せる場面です。それは同じ渡世人だった時次郎へのはなむけでもあるのです。八丁堀の親分の楽善さんの出のいいところで居ない時次郎を映しだしました。屋根を借りてすまないと安兵衛にいう台詞も長谷川伸さんの計算をおもわせます。

最後の場面。小さな祠の前で、太郎吉が「ウン字を唱うる功力には、罪障深き我々が造りし地獄も破られて忽ち浄土となりぬべし」とうたいます。おっかちゃんがおいらの声を聞いて安心するからといいますが、昔の道中のわびしい雰囲気があっていい舞台です。

時次郎がおきぬに対する気持ちを表すのは、おきぬに待っていてくれと告げるときの声のトーンと、最後に太郎吉がおかっちゃんに会いたいというとき、俺もだというところです。セリフの上手い梅玉さんですので、こういうところはすっーと無理なく観る者の心に浸透してきます。

おきぬは三蔵という博徒の女房ですから、三蔵に相手を斬っておしまいというくらいの強さがあり、太郎吉は私が守るという芯のある女性です。もしかすると、この博徒の生き方を知っている女と夫婦になれたらと時次郎は思ったことでしょう。長谷川伸さんは、素人の世間と渡世人の世界とをきっかり区別していたと今回思いました。はぐれ者の中で人知れず心に残った生き方をしたひとの話しです。

最後、三度目の正直だと、百助と半太郎が切り込んできますが、太郎吉が殺さないでといいます。太郎吉は時次郎が自分の父親になってくれればと言うところがありますが、ここで思いました。そうだ、太郎吉は斬った張ったのない父親になってと言っているのだと。父を殺されながら、そういう世界ではないところにいる男に父親になって欲しかったのだと。

作・長谷川伸/演出・大和田文雄/出演・沓掛時次郎(梅玉)、六ッ田の三蔵(松緑)、三蔵女房おきぬ(魁春)、三蔵の息子太郎吉(左近)、安兵衛(橘太郎)、安兵衛の女房おろく(歌女之丞)、百助(松江)、半太郎(坂東亀蔵)、八丁徳(楽善)

上演の後アフタートークのある日でした。梅玉さんが、もしかしておきぬという女に巡り合い幸せになれるかと思ったが、やはり駄目だったのかという想いということを言われていましたが、やはり駄目なのかという情感が心に残りました。映画で萬屋錦之介さんや雷蔵さんの時次郎がありますが、自分はクールに演じるようにしていますと。それはわかりました。映画のようにおきぬと時次郎の関係を匂わせて色を添えるという濃さは出していません。そこが、映像と舞台の違いだとも思えますし、想像させるほうに持っていく舞台の難しさでもありジャンルの違う楽しさでもあります。

梅玉さんは、まだまだ自分のなかで完成されていないと言われていましたが、観る方は梅玉さんの時次郎像はしっかり感じとれました。

松緑さんは、三蔵について、斬られた男に妻子を頼み、その後の時次郎の生き方を変えるので出は短いですが重要な人物です。林与一さんの三蔵を参考にし年齢的にそれを小さくするように工夫しましたとのことです。

梅玉さんと松緑さんのお二人の参加なので、魁春さんのお話は聞けませんでしたが、三蔵の女房としてのおきぬの描き方が観客にとっては大事な人物像になるところで、博徒の女房という存在感がありました。この脚本ではそこが重要だとおもえました。

梅玉さんも『坂崎出羽守』は演じてみたいといわれてましたが、坂崎の台詞は挑戦されたいだろうと思います。司会のかたが松緑さんの坂崎は5日ぶりに拝見しましたが違っていましたとのことで、松緑さんは、まだまだ変化しますのでまた観に来てくださいとのことですが、基本はこのまま変えてほしくないと思います。この坂崎でいいとおもいます。

アフタートークはまだまだ楽しい裏話もありましたが、主語を間違えそうなので少しだけにします。

 

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