播州赤穂

  • 大阪松竹座『坂東玉三郎 初春特別舞踊公演』を観に行ったので播州赤穂まで足を伸ばす。赤穂城もであるが、塩関係も見ておきたかったのである。ところが、千種川のこちら側が忠臣蔵関係で川を渡ったあちら側が塩関係の海浜公園で、海浜公園側は火曜日は休館日ということである。塩の国が見たかったのであるが残念。赤穂大石神社は、大石邸宅跡に創建されている。松の廊下刃傷の知らせの早籠が叩いたであろう大石宅長屋門が残っていた。大石神社関係のかたは新年でもあり忙しそうであった。

 

  • 赤穂大石神社は義士資料館がなかなか興味深い。大石内蔵助亡き後大石の妻・りくは、長女と次男を亡くし、三男の大三郎が広島浅野家本家に召し抱えられ次女ルリと広島に移り、香林院として68歳でなくなっている。映画『最後の忠臣蔵』にも出て来た寺坂吉右衛門の孫は祖父の偉業で出世している。城で飼っていた犬まで一筆書いて渡している。犬公方綱吉ゆえか。浅野内匠頭長矩の彩色した木像は国立劇場にある六代目菊五郎の鏡獅子を彫った平櫛田中作で勅使御饗応役としての緊迫感あり。

 

  • 大石宅庭園には、備中松山城受取り際に祈ったという茨城の笠間稲荷から勧請された稲荷社があり「受取り稲荷」とも呼ばれている。備中松山城受取りについては、舟木一夫特別公演の『忠臣蔵』で初めて知る。赤穂城受け渡しの際はこの経験が潔さにつながったのでは。長矩はその経験がありながら何とも言い難し。神社の外には、義士たちの邸宅跡が印され、磯貝十郎左衛門宅址には、遺品のなかに紫のふくさに包まれた琴の爪が一つあったとあり、歌舞伎『大石最後の一日』を思い出す。美男子で能、琴、鼓などの遊芸に優れていたとある。これは映画にもなっていて昨年見逃してしまう。

 

  • 今の赤穂城を築いたのは、浅野長矩の祖父長直で、兵学者・儒学者の山鹿素行を召し抱え築城にも参加させている。その後山鹿素行は朱子学を批判したとして赤穂配流となり、大石宅の庭で茶やお酒を楽しんでいる。そのころ大石良雄10歳。山鹿流の陣太鼓。歌舞伎の『松浦の太鼓』を思い出す。芝居や映画の虚構性と歴史が重なって何とも楽しい。長直は塩づくりに力を入れ、東浜塩田を天守のない天守台からながめていたらしい。平城で、庭園など戦の無い時代の城である。戦は無いが改易との戦いがあった。

 

  • 赤穂は井戸を掘っても海水がまじるため上水道を完備した。それが、浅野家の前の池田家の時である。『赤穂市立歴史博物館』でそれを展示や映像で説明していた。千種川から町家にも各戸に給水していて、播州赤穂駅からお城に向かう道にも「赤穂藩上水道」とあり、水が勢いよく流れだしていて町民の喜びが想像できる。入浜塩田の模型もあり、浅野家の後は永井家その次の森家は西浜塩田を干拓し、12代藩主を続けた。この森家の祖先には、織田信長に仕えた、森蘭丸坊丸力丸三兄弟がいた。その後森家に後継ぎがなく廃絶となるが、幕府は復活させ森長直を赤穂藩主とし、そこから12代続くのである。この森三兄弟の出現で安土に寄ることを決める。

 

  • 三之丸に大石良雄宅ら重臣の屋敷があり大石神社から『赤穂市立民俗資料館』へ行く途中に塩屋門跡がある。藩主長矩の刃傷、切腹の第一、第二の早籠の知らせが入ったのがこの門で、城受取りの軍勢が入ったのもこの塩屋門とある。水色の洋館が『赤穂市立民俗資料館』で明治38年に塩専売法が施工され大蔵省塩務局の庁舎である。現存する日本最古の塩庁舎。赤穂で使われていた農具や日用品などが展示されているが、展示品の時代の流れがわかりやすく広い空間、狭い空間を上手に利用している。赤穂緞通(だんつう)を知る。堺、鍋島と並ぶ三大緞通。赤穂の伝統工芸にも出会えた。駅の裏山には赤の文字が。

 

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