「国立映画アーカイブ展示室」から

  • 最古の『忠臣蔵』鑑賞のあと、7階にある展示室へ。久しぶりである。目的は『生誕100年 映画美術監督 木村威夫』の展示であったが、見慣れた常設展・「日本映画の歴史」からさらっと見て行ったが、『藤原義江のふるさと』の映像で足が止まる。今回は浅草オペラなども少し知ったので以前と興味が違う。なるほどこれが「吾等(われら)のテナー」かと耳をそばだてる。1930年、溝口健二監督作品で日活第一回のトーキー映画と宣伝されている。完全なトーキーではなくサイレント部分もあったようである。

 

  • 藤原義江さんは、澤田正二郎さんが新国劇を立ち上げた時、戸山英二郎の名前で入団している。ところが、関西で田谷力三さんの歌声をきいてオペラの道に進むのである。全く音楽などやったことのない人であった。日本にオペラが誕生したのは、帝国劇場にイタリア人のローシーが招かれてオペラの指導をしたのが始まりである(1912年)。ここで清水金太郎さんなどが育つ。石井漠さんはローシーと喧嘩して山田耕筰さんのところへいくが、ローシーに指導されたバレエが後の舞踏家誕生となるのである。帝劇歌劇は経費がかさみ1916年には解散となる。

 

  • ローシーは自費で東京赤坂「ローヤル館」を設立、オペラをはじめる。ここに入ったのが三越少年音楽隊出身の田谷力三さんである。この「ローシー・オペラ」で田谷力三さんを聴いてオペラに魅了されたのが藤原義江さんなのである。ローシー・オペラ→浅草オペラ→藤原歌劇団へと進むわけである。ちなみに「ローシー・オペラ」は失敗で、1918年にローシーさんは日本を離れる。横浜港から見送ったのは田谷力三さんだけであった。

 

  • 浅草オペラの根岸歌劇団の柳田貞一さんの弟子となって・看板スター・田谷力三さんと同じ部屋にいたのが榎本健一さんである。エノケンさんはその前に、尾上松之助さんに弟子入りしようとして京都に行くが居留守を使われあきらめる。そのあと根岸歌劇団のコーラス部員となるのである。関東大震災で浅草オペラは衰退。エノケンさんは二回目のカジノ・フォーリーでやっとお客をとらえる。お金がないから道具立てはなくバックは画である。

 

  • エノケンさんバックの描かれたベンチで腰かけ弁当を食べ、胸がつかえて描かれた噴水の水を飲む。大爆笑。新しい喜劇の誕生である。エノケンさんが初めてでたトーキー映画が日本初の音楽レヴュー映画『エノケンの青春酔虎伝』である。1934年。『藤原義江のふるさと』から4年後である。監督はエノケンさんの希望で山本嘉次郎さんであった。撮影は同時録音で、二階からシャンデリアに飛びつき手がすべってコンクリートの床にたたきつけられ気を失う。気が付き立ち上がるが再び倒れて病院行きとなったがキャメラマンはしっかりまわしていたという映画である。こちらも止まらなくなるのでここでとめる。

 

  • 展示室には、アニメ『アンデルセン物語』で登場するキャラクター人形があった。これも見た記憶があるが、何のアニメか忘れていた。『アンデルセン物語』のアニメ映画を見てすぐなので親近感が違う。時々は同じ展示とわかっていてものぞいてみる必要がありそうである。

 

  • 映画美術監督・木村威夫さんの仕事も素敵である。最古の『忠臣蔵』のセットはかなり手を抜いていたので、その後の映画人がいかなる努力、工夫によってセットやロケのための設定をしたかの心意気が伝わってくる。『』(豊田四郎監督)は好きな映画で坂の場面は特に印象深い。医学生の岡田(芥川比呂志)が散歩で、高利貸しの妾であるお玉(高峰秀子)の家の前の坂道を通る無縁坂。あれはセットであった。緻密につくられた設計図に基づいて作られていたのである。

 

  • 木村威夫さんの父・小松喜代子(きよし)さんは、岡田三郎助さんに東京美術学校で教えを受けている。岡田三郎助さんは二代目左團次さんと小山内薫さんが始めた「自由劇場」の背景の仕事をしており、喜代子さんはその手伝いをしている。わが国で最初にイプセン劇を演じたのが二代目左團次さんで、森鴎外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』である。小山内薫さんはその後「築地小劇場」を創設。その頃舞台美術家として活躍していたのが伊藤熹朔さんである。木村威夫さんは、伊藤熹朔さんに師事するのである。

 

  • 『雁』以降の映画美術で資料として展示されていたのは、『或る女』『春琴物語』『黒い潮』『雑居住宅』『陽のあたる坂道』『昭和のいのち』『花と怒涛』『肉体の門』『刺青一代』『東京流れ者』『ッィゴイネルワイゼン』『ピストルオペラ』『カポネ大いに泣く』『忍ぶ川』『サンダカン八番館 望郷』『本覺坊遺文 千利休』『ZIPANG』『父と暮らせば』『夢のまにまに』『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』などである。『陽の当たる坂道』では、やっとこれという洋館を鶴見に見つけ、中はセットで坂道は別の場所と4、5か所をモンタージュでつないだということである。『ZIPANG』は、宇都宮の大谷石地下採掘場を使っていた。木村威夫さんの仕事のほんの一部である。『夢のまにまに』『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』は映画監督作品でもある。

 

  • 映画『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』(2009年)をDVDで観た。筋は有るような無いような。舞台は老人ホームで元気だが色々な事情で入居している人々と職員の様子が描かれている。主人公は学歴のない植物学者ということらしい。学歴があってもなくてもよいのだが一応話題として出てくるのである。その植物学者が黄金花をみつけてその花に惹きつけられて水死するということで映画は終わる。とらえどころがなく、美術映画監督の木村威夫さんの様々な映画の仕事を映画をみつつ思い浮かべて楽しむ方向に切り替えた。自然尊重のもの、文学的なもの、斬新なものなどその映画美術に関しては広域におよんでいる。その一つ一つを散りばめているようにおもえた。黄金花の花粉が光となって拡散しているようである。

 

  • DVDの特別映像で、京都造形芸術大学北白川派との共同作業で出来上がった作品らしいということがわかった。木村威夫監督は筋はいらないといわれている。一応基本がなければということで周囲の人が筋を考えているようだ。木村威夫監督は若者のようなアバウトさで新しい映像を求めているらしい。周囲はかなり困惑している。変更に変更を重ねていく。91歳。60歳のとき0歳になったのだから今は31歳だという。老人が登場するが31歳の感覚の映画を作るといことであろうか。老人たちが思う出すのも30代の場所ということか。筋書きがあるようで無い生のたゆたい。

 

  • 大学の学生さんが、ヒマラヤの山奥の200年生きる人の背景を発泡スチロールで一生懸命作っていて、その出来栄えに木村威夫監督が感動していた。映像に映るか映らないかわからない美術。まさしく秘するが花の仕事である。国立映画アーカイブでの映画美術監督・木村威夫さんの展示は来年の1月27日までやっている。

 

  • もう一つ映画ポスター展のフライヤーがあった。場所は「アーツ千代田3331」で営団地下鉄銀座線の末広町駅4番出口徒歩1分とある。末広町駅は初めて降りた。建物の前が練成公園で、案内板がある。『松浦武四郎住居跡』「1818年伊勢国で生まれ、日本全国を旅し見聞を広めた。その後、蝦夷に渡り、蝦夷地の豊かな原始の自然に魅せられた、アイヌの人たちとともに全6回、13年にわたり、山川草木の全てを調査した。明治になると、政府が設けた開拓使の役人となり、蝦夷地に代わる名称「北海道」を提案採用される。1888年、この地で亡くなる。」

 

  • 「アーツ千代田3331」は元練成中学校の建物である。『映画ポスター モダン都市風景の誕生』で、『浅草の灯』のポスターもあった。ポスターの数は少ないが、大きなポスターもありよく保存していたと思う。興味ひかれたのは関東大震災以後にできた映画館の写真映像である。モダンで「葵館」などは建物の表がレリーフになっている。当時の新しい感覚を取り入れ、映画館内もデザインに凝っており、ロビーの椅子や灰皿などもアートを主張している。ポスター、映画館の建物、内部と人々を誘い、スクリーンでさらに魅了させたわけである。それにしても廃校の面白い使い方である。

 

  • いわさきちひろさんも師事した岡田三郎助さんの展覧会が、箱根の「ポーラ美術館」で開催されている。(2019年3月17日まで)『岡田三郎助生誕150年記念 モダン美人誕生』。「ポーラ美術館」は一度行ってみたいと思っていたので良い機会である。計画にいれよう。

 

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