歌舞伎座4月『平成代名残絵巻』『新版歌祭文』『寿栄藤末廣』『御存 鈴ケ森』

平成代名残絵巻(おさまるみよなごりのえまき)』。平家と源氏の時代に設定し「平成」の時代を讃え新し時代「令和」を寿ぐ演目である。平家の全盛で平徳子が中宮に上がると言うので平家の人々は喜びに満ちている。一方源氏は、遮那王(義経)が東国の藤原氏の下に行くことを母の常盤御前に報告し、いずれ白旗を上げることを誓う。知盛と義経が赤旗と白旗をかざし、のちの世に戦さのない新し時代をということであろう。

常盤御前の福助さんの一言一言の発声に舞台を押さえる力がある。平家側の面々(笑也、笑三郎、男女蔵、吉之丞など)もその優雅さがあり、知盛の巳之助さんの声も安定してきて、徳子の壱太郎さんとの出に花がある。児太郎さんの遮那王も背筋にきりっとした線がきまって源氏を代表している。平宗清(彌十郎)、藤原基房(権十郎)なども登場し、源平の世界を上手く繰り広げた一幕である。

新版歌祭文』。<座摩社>の場面を加え、久松が野崎村の久作の家に帰された原因がわかるようになっている。お染が雀右衛門さんで、お光が時蔵さんで、もう少し早くこのコンビでやってもらいたかった。襲名などが続いて、ベテラン同士の新たなる組み合わせが遅れた感がある。ただもう少しテンポが欲しいかった。

町のお店のお嬢さまと田舎娘のお光の違い、お店の若旦那・山家屋佐四郎(門之助)と武家の遺児でもある丁稚の久松(錦之助)の柔らかさの違いなど芸としての違いが観れる芝居でもあり、そのあたりはそれぞれの役者さんによって表現されていた。

<座摩社>では、手代小助の又五郎さんが小細工をして久松を窮地に陥れ、そのだますところが喜劇性ということに持って行きたかったのであろうが、又五郎さん、侍や奴の喜劇性は上手いが手代のほうは硬すぎるように思える。悪のほうにも傾き加減が弱く、喜劇にいくか、悪にいくかの方向性をもう少し決めてほしかった。

<野崎村>では、祭文語りが登場し、お光はお夏清十郎の唄本を買う。お光のその後の悲劇性が暗示されている。久作の歌六さんは手の内で、後家お常の秀太郎さんは座してからの台詞に実と押さえがある。両花道での舟のお染と駕籠の久松と残るお光との別れとなる。舟の赤い毛氈の色がお染とお光の立場の違いを際立たせ、悲劇性に色を添える。

観ているほうが体力切れで、役者さんが揃っていながら、せっかくの<座摩社>と<野崎村>が少しだれてしまったのが残念である。

寿栄藤末廣(さかえことほぐふじのすえひろ)鶴亀』。坂田藤十郎さんの米寿を祝う一幕である。女帝の藤十郎さんの周りを、藤十郎さんの子息世代から孫世代までの若い役者さん達で固め華やかで明るい一幕となった。鶴(鴈治郎)と亀(猿之助)の頭上の飾りで臣下が長寿を現わし、従者たち(歌昇、壱太郎、種之助、米吉、児太郎、亀鶴)が足拍子も加え軽快さもあり、ほど良い変化に飛んだ寿ぐ舞踊となった。

箏の音も効いて、舞台も梅から藤に変わり、形式さだけではなく、観客をなごませてくれた。

御存 鈴ヶ森』。またかと思ったのであるが、今まで見た『鈴ヶ森』で一番かもしれない。白井権八の菊五郎さんがどこにも力が入っていず、雲助をかたずけて行く。江戸時代の若者の虚無感をも感じさせる。それを見ていた幡随院長兵衛の吉右衛門さんが駕籠から呼び留める。台詞の妙味で聴かせ、長兵衛の大きさで権八との違いがわかり、厚みのある一幕であった。(左團次、又五郎、楽善)

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