市川雷蔵・小説『金閣寺』・映画『炎上』(1)

市川雷蔵さんの演技に関しては以前か興味がありました。時代物も現代物も、着物も洋服も違和感なく見せてくれる俳優さんです。

今回も『好色一代男』『大阪物語』を観てその役どころの違いにもきちんと対応されていました。そこで、『炎上』が再度見たくなったのですが、やはり原作からぶつかろうと三島由紀夫さんの『金閣寺』から始めましたが、難解で疲れました。読み終わったらエネルギーを全て吸い取られたような疲労感で、それでいて明確な回答が浮かばない状態で天才にお付き合いするのも大変です。

読み進んでいて飛ばしたいのですがそれが出来ないのです。書かれていることは一つとして省くことは出来ず、よくもまあ無駄のない言葉で埋めてくれましたと思いました。

主人公の溝口は吃音のため、話題に何か意見や感想を言っても人はその言葉を待ってはくれず笑いとなり、自分の想いは正確に伝わることがないのです。自分と外界との間に常に溝があって上手く通じ合えないのです。その孤独感が、父から聞いていた金閣を自分の中で美しさとして温めています。

それは父が肺病という体でやはり外界と溝のある立場であり、そうした父の言葉に親しみと信用をもっていたのでしょう。父は舞鶴から東北にある成生岬(なりうみさき)にある小さな寺の住職でした。

実際に父に連れられて見た金閣は美しくなかったのです。ところが離れて見ると自分の中にまた金閣にあこがれがよみがえってきます。

主人公の周囲に登場する人物は皆それぞれの短編が出来ると思われるほど一筋縄ではいかない人物ばかりです。最初に異性として惹きつけられた有為子(ういこ)には「なにさ吃りのくせに」と言われますが、これは溝口に対する蔑視でありながら、「吃りぐらいなんなのさ。私はもっと皆から非難されることをやっているのよ。」ともとれる行動に出るのです。彼女は死と対峙している行為の中にいたのです。

日本海側の田舎で育った溝口は、あこがれの金閣寺のそばで暮らすことが出来るようになります。そして、心の中の金閣と現実の金閣は重なって美しい金閣となったいきます。しかしそこで出会う人々は金閣のように美しい人ではありません。ただ同じ徒弟の鶴川だけは、溝口とは反対に位置する明るさの象徴でした。しかし、事故で亡くなってしまいます。ところが後に鶴川は自殺であったことがわかります。それは鶴川とは相容れないと思っていた柏木から聞かされます。

柏木は自分の不自由な足への同情で女性の心を捉えてほくそ笑んでいる大学生でした。その柏木の相手の女性に、かつて鶴川と南禅寺から眺めた塔頭の部屋で見た美しい女性もいたのです。生身の美しいと思うものは全て壊されていきます。

金閣の老師もその一人でした。父とは共に修業時代を過ごし、父亡きあと父の遺言通り自分を受け入れてくれたのです。大学にも通わせてくれました。ところが老師は女遊びをしており、そのことを知った溝口は老師が自分と同じ位置にいる人間だという思から身近に寄り添いたいと願います。老師は自分の位置を下げることは無くむしろ自分の庇護を棒に振る哀れな奴と溝口の事をおもうのです。それでいながら表面をつくろうことは心得ているのです。

そうした人間関係の中で金閣だけは美しかったのです。ところが現実の金閣ではなく、美しい金閣は溝口の中にある金閣となっていきます。さらに自分の思い通りと思う金閣も現実世界で邪魔をするようになります。たとえば女性にたいする欲望の真っ最中に姿を現し邪魔をするのです。

大きな時代の流れの戦争中の金閣と溝口の関係は、一緒に空襲のなかで死ねると思っていた幸福な時代でした。敗戦となりそれが叶わなくなった時、新たな現実世界で金閣は人に翻弄される自分をささえるのではなく邪魔をするのです。適当に生きようとする自分の邪魔をするのです。

溝口は何もかもから逃げだします。故郷の舞鶴から由良の海を前にして、金閣を焼く決心をするのです。金閣を焼くことによってこの世の中のなにかが変わると思うのです。

金閣を焼く決心から行動への後押しは、老師の脳裏に自分をもう寺にはおいておけないという認識がうまれたことと、朝鮮動乱が勃発したことでした。

金閣を焼くと決心するや溝口は柏木に対して、金閣の美は自分にとって怨敵だと主張するのです。そして五番町へ女を買いに行きます。そこに有為子が生きているという空想にとらわれます。そしてまり子という女性を抱くのでした。金閣が邪魔をすることはありませんでした。

認識から行為へと着々と進んでいきます。うまい具合に火災報知器までが故障してくれるのです。さらに老師と父の友人である禅海和尚がきており、溝口は自分を和尚の前に投げ出します。溝口は和尚に理解されたと感じ、一層行為への力をもらうのです。

行動に移すとき見た金閣はどこをとっても美そのものでした。火をつけ金閣と共に死のうとしていた溝口は三階の部分が開かなかったため、左大文字山の頂にのぼります。金閣の燃える火の粉を見つつ、溝口は死ぬつもりで購入した小刀と睡眠薬を捨てて煙草を吸うのです。

そうして生きようと思うのです。

主人公は金閣を燃やすことによって何かが変わると考えたのです。実行することによって「私の内界と外界との間のこの錆びついた鍵がみごとにあくのだ。」と幸福感に浸ります。実行の結果、生きようと思うのです。

『金閣寺』という小説が、金閣という美を自分と一体化するために火をつけたと思っていました。ですから怨敵と思うなど考えてもみませんでしたし、最後に主人公が生きようとおもうなどとも思いませんでした。結果的に金閣は主人公が生きるために焼かれたわけです。そうではなく、焼いてみると生きようと思っている自分がそこにいたということでしょうか。

邪悪な世界。そこに長く存在している金閣寺。しかしその金閣寺にも何の力もなく、そう認識したとき焼かなくてはならないという行為にまで進まなければならなかった。そして、金閣寺とい後ろ盾も内的美もない虚無とともに主人公は生きると決めるのです。そういうことですかね。今はそう思うことにします。

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