会津若松町歩き (1)

会津若松から郡山までの列車の旅を日の暮れる前と限定しているので若松市内は4時間弱の町歩きとなる。途中で日が暮れては、列車からの雪景色も見えなくなってしまうからである。

七日町駅で降り、駅の前に観光案内があると電話で聞いておいたので、まずそこで相談する。4時間とすると何処をまわれるか。会津若松は若い頃一度来た事がある。鶴ヶ城での魚のにしんを保存食として漬けておく鰊ばちが印象深かった。本郷焼きである。それとやはり飯盛山の白虎隊のお墓である。今月国立劇場で歌舞伎の「主税と右衛門七」を見たが、大義名分があろうと若者の早すぎる死は理不尽である。今の時代そういう状況が現出したらそれは大人や老人の浅はかな思慮のなさである。

数十年前に来た時は夏で暑く、鶴ヶ城への坂がきつかったように記憶している。今回は寒さが厳しく駅の階段を急ぐと冷たい空気が呼吸を妨げるような感じなので無理をしない方針である。案内の係りの方に色々聞き、七日町通りを歩きそこからレンガ通りの野口英世青春通りまで行きそこから、まちなか周遊バスのハイカラさんに乗り武家屋敷に行く事とする。観光案内のすぐ横に風葬となっていた会津と幕府軍の死者を葬ることとなったお寺、阿弥陀寺がある。伴百悦という五百石の会津藩士が身分を非人に落として作業にあたったという。阿弥陀寺には1281体が埋葬されている。当初の墓碑は民政局から撤去を命ぜられ、明治6年に墓碑を立てることが出来た。個人では斎藤一、黒河内伝五郎の墓もある。

七日町通りは古い建物が点在していて飲食店や様々の販売店として活躍している。ぶらぶら眺めつつ歩いていると、清水屋旅館跡の碑があり、解説版には歴史上の人物が宿泊した旅館跡とある。吉田松陰、土方歳三、新島襄・八重夫妻、山本覚馬の娘・峰、青年時代の森鴎外(林太郎)。森鴎外の名があるとは意外である。その先に骨董屋さんがありその二階に昭和なつかし館として昭和30年代の生活を詰め込んでいた。紙芝居用の自転車などもあった。そこの姉妹店の珈琲館が野口英世青春館の後ろにありランチもやっているというので、ランチはそこにきめる。野口英世青春館は野口英世が火傷でうけた手の傷を手術をしてくれた会陽医院跡で、その手術によって野口英世は医学を志し、その医院の書生となり勉学に励むのである。勉学の部屋が二階に残っており見学できる。窓からは野口英世のみた風景が見れるのである。英世さん勉学だけではなく、初恋の地でもある。その初恋の人・山内ヨネさんに出会ったと思われる、英語を習いに行き洗礼をうけた教会も残っているようだ。帰ってからパンフレットで知る。

ランチをした珈琲館も蔵を利用していて、丁度ランチにきていた5人のOLからは生の会津弁をたっぷり聞かせてもらった。やはり寒いところ特有の重さのある発音である。バスの時刻表は案内でもらっているので、レトロなボンネットのバスで武家屋敷に向かう。途中でお菓子会津葵の暖簾を目にする。本店であろうか。バス停・奴郎ケ前で近藤勇の墓の標識があったが、今回は寄れない。バス停から15分位歩くようだ。バス停・武家屋敷前到着。寒いの一言である!

 

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