三日目、松本を立ち福島へ向かう。一人の友人とは、大宮でお別れである。もっと北へ向かうので福島まで同道できると思ったら、友人は福島には停まらない新幹線であった。さて福島に着いたら、東口からバスである。<文知摺観音>へのバスの本数が少なく平日と土日休日ではよく判らないが停車位置が違うようで、とにかく運転手さんに尋ね、たどり着くことができた。小雨が降っていたが、<文知摺観音>境内の紅葉が最高潮であった。
平安時代、文知摺の絹物が評判になった時期がある。乱れ線のある石の上で絹織物に草を摺りつけ模様としたものである。その石があるのが福島の信夫の地なのである。
「しのぶもぢずり」は歌枕となり、光源氏のモデルとも言われている源融(みなもとのとおる)が読んだのが 「みちのくの しのぶもちずりだれゆえに みだれそめにしわれならなくに」(奥州のしのぶの里でつくらる、あのしのぶずりの乱れた模様のように、私の心が乱れはじめたのは、あなたのほかの誰のせいだというのですか) で歌碑も出来ていた。この<文知摺石>は石というより岩と思えるような大きさであった。別名<鏡石>とも言われている。
受付に居た方が説明に来てくれた。源融が巡察官として訪れた時、長者の娘虎女と恋仲となるが、融はまたもどって来ると都へ帰ってしまう。娘は待ちこがれ悲嘆にくれ石に融の姿が映って見えたといわれる。娘が病に臥せったとき、融の歌が都から届く。それが、「みちのくの・・・・」である。のちに麦の穂でこの石を摺ると想う人の姿が見えるとの言い伝えで人々がきて、畑が荒らされるので百姓が怒ってこの石を投げ捨てたところ埋まってしまって芭蕉が訪れたときは、こんな大きな姿ではなく、その後掘り起こしたのだそうである。
芭蕉の句。 「早苗とる 手もとや昔 しのぶずり」
正岡子規の句。 「涼しさの 昔をかたれ 忍ぶずり」
<文知摺石>の下に<綾形石>があり、綾形らしき模様が見えた。
小川芋銭さんが明治、大正と二回も訪れていて、人肌石と名付けた石の歌碑があった。 「若緑 志のぶの丘に 上り見れば 人肌石は 雨にぬれいつ」
友人に「誰?」と聞かれる「茨城の牛久沼の近くに住んで居た日本画家で、河童の絵を沢山描いた人。どちらかというと、奥さんが農業をして支えていて、野口雨情なども訪ねている。河童の絵は私にはよくわからない。」
多宝塔が修理中で、覆われていて観れなかったが、すき間から見ると、彫り物の色が時間を経た、良い感じの色となっており、全体が観れないのが残念であった。
もぢずり美術資料館を見てバスの時間に丁度良い頃、芭蕉像とお別れする。
バス停がすぐ前でこのバス停は土日休日だけらしい。
ここから駅に向かう途中の岩谷下バス停で降りる。この近くに<岩谷観音磨崖仏>がある。以前、福島駅からそう遠くないところに磨崖仏があると聞いていた。調べてみると、文知摺と福島駅の途中にあった。
バス停を下りたがどうもそんな表示も見当たらず、近くの自動車販売店で尋ねたがわからない。お店の人がパソコンで調べてくれる。「確かにこの近くにある。」と言って道を教えてくれた。大きな道路の十字路を反対に渡り、細い道を少し進むと階段が見えた。ここである。良かった。雨なので、足元に気を付けながら歩幅の高い石段を登る。見えた。数が多い。60数体あるとか。見られて良かった。降りる道が別にあって助かった。あの階段を降りるのが心配だった。この磨崖仏のある山の名が信夫山である。
ここからはバスの本数が多いので、無理なく駅に着けた。大満足の福島であった。そこから山形に向かう。山形では、ホテルに紹介してもらったお食事処でほっと一息。それにしても混んでいるお店で、予約客がどんどん入ってくる。カウンターの端で年配の板前さん二人の手際よい動きを友人と二人で気持ちよく感じつつの一杯であった。
源融・河原左大臣歌碑
文知摺石
芭蕉句碑
岩谷観音磨崖仏