小林秀雄と志ん生

小林秀雄さんの講演CD『随想二題 本居宣長をめぐって』を聞いた。小林秀雄さんは文芸評論家の大家であるし、本居宣長は国学者の大家である。文字で読む気はなく、言葉で聞くほうが少しは分かることもあるかも知れない。少し厳粛な気持ちで聞き始めたら、小林秀雄さんのイメージと違う。少し声が高く、調子が東京の下町あたりのおじさんの話し方である。誰かに話し方が似ている。誰だ。志ん生師匠である。(志ん生師匠は落語界の大家・おおやである)

本居宣長については言及しない。手の出しようがないので避ける。このCDの解説に安岡章太郎さんが「口伝への魅力」と題し、文章をかかれている。

「小林さんは非常な努力家で、講演一つたのまれても何箇月も前から話を用意して、練習する。」

一緒に岡山に講演に言った時の様子は次のように書いている。「私たちより一日早く岡山へ行き、ホテルの部屋に一人閉じこもったきり話の練習をしてゐた、と随行の人から聞かされた。そして、いよいよ講演会がはじまると、小林さんは遅れて私たちの控える楽屋に下りてきて、コップ酒を所望され、それを一杯飲みほして、ゆっくりと演壇に上がり、やや前かがみの姿勢で訥々と話はじめる。そのへんの呼吸は、たしかに志ん生をまなんだと思はれるフシもないではない。」

この文章を読み、こちらもコップ酒を飲んだつもりでもう一度小林さんの志ん生節で聞くと、偉い国学の先生が医者の仕事をしつつ、こつこつと自分の学問を自費出版する一人の研究者の姿となって浮かんでくる。

小林さんは言う。「宣長は自分の墓には山桜が一本あればいい。それだけでいいと言ったんです。」「『もののあわれを知る』ということは、心が練れることなんです。」落ちは落語より難しい。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です