新橋演舞場『夏のおどり』

  • 災害日本を見せつけるような昨今である。西日本の大雨は多くの尊い命が失われてしまう事態となっている。(合掌) テレビの映像から、このあとあの土砂を取り除き生活する空間をどう確保されるのかと思っただけでどっと疲労感が襲う。友人の御主人の実家が四国なので電話したところ、今四国に家族で来ているとの事。ドキッ!しかし、災害の地域ではなかったようでホッとする。お義母さんの100歳のお祝いを兼ねて帰っていたという。災害のとき、よく実家にお孫さんなどが帰られて災害に会われてしまったとの悲報を聴いたりして、よりによって何でと悲憤を感じるが、人の事情など考えてはいないのが災害の恐ろしさである。友人には関東も地震頻発であるから体力を温存して無事に帰ってと伝える。これからのことを思うと、災害被災者関係の人々やボランテアなど、遠くからのそれを手助けするための働き方改革も考えて欲しいと願う。

 

  • 15分片づけをやっている。15分で終わるわけでは無いが、15分でいいのであるとおもうと気が楽でいつでも簡単に始める。途中で少しでも空間ができると嬉しくなって少しつづけてしまう。ここにこれがあったのかと確かめただけでまた戻すが、次の時、処分するかどうか仕分けの段階となったりする。とにかく頭と足下は確保と防災頭巾と安く購入したすぐ履ける短いブーツを寝ていて手の届くところに置いてある。冷凍庫には、7割は調理済み物をいれている。冷蔵庫も幸い場所的に大きなものは置けないので倒れても動いてもなんとかなりそうである。そんなことを考えつつの15分かたづけである。だからといって大きな変化はない。ただ、上にある重い物と下にある軽い物とは入れ替わったりした。そして、片づけてはいるとの自己満足感である。

 

  • さて新橋演舞場での、OSKの『夏のおどり』である。高世麻央さんのラストステージでもある。和と洋のレビューである。昨年初めて観て楽しかったのである。今回は、第一部和物に変化が乏しかった。踊りが同じような振りなのが優雅ではあるが残念である。舞台装置は去年より豪華である。昨年は手作り感に新鮮さがあった。これは、高世麻央さんのラストのステージとあって、麻央さんの代表的な作品を並べたからではないかと思う。楊貴妃などもあり、おそらく長く観つづけている観客にとっては、想い出のステージを一気に観て様々な想いに浸られたであろう。昨年とは違う特別のステージとしての趣旨は理解できる。

 

  • 第二部洋物のほうが個人的に面白かった。高世麻央さんの貴公子ぶりも際立っていた。ラインダンスの衣裳がカジュアルで、そうだよ、こんな雰囲気のラインダンスがあってもいいのだよと楽しかった。なんなら、太鼓の音で、法被を着たラインダンスだってありだよなとおもう。来年3月新橋演舞場での『春のおどり』公演が決まったことが報告される。4月は松竹座、7月は南座だそうで、高世麻央さんがここまでけん引されて、お土産を置いていかれるような感じである。OSKはさらに100周年を向けて突き進んでいくのであろう。記念というだけではなく、まだまだOSKの経験と新鮮さに向けて羽ばたける力がある。高世麻央さんご苦労さまでした。あなたの舞台でレビューの楽しさを感じさせてもらいました。肩の荷を下ろされOSKを客観的な眼で応援し後押しされますように願っております。

 

  • 新しいチラシがあった。藤山直美さんが舞台に帰ってこられる。来年7月新橋演舞場『笑う門には福来たる ~女興行師 吉本せい~』である。まだ場面場面の一部は記憶に残っている。早くも今年の10月にはシアタークリエで『おもろい女』である。さらに、さらに歌舞伎座9月に福助さんが復帰される。『金閣寺』の慶寿院尼で、児太郎さんが雪姫である。児太郎さん嬉しいと同時に緊張するであろうと推測するが、喜びのパーセンテージが大きいであろう。体調を考慮され無理をせずゆったりと復帰されてください。

 

国立劇場 公演記録鑑賞会『東大寺修二会の声明』

国立劇場主宰の公演記録鑑賞会は毎月第二金曜日に伝統芸能情報館でおこなわれていますが、昨年あたりから自由参加から応募方式をとって応募者が多い時は抽選となります。

今回は『東大寺修二会の声明』で、1996年(平成8年)に公演されたものです。東大寺修二会のお松明(たいまつ)は二月堂の下で眼にしていますが、二月堂の中での行法が映像で見れるのです。国立劇場の舞台上で二月堂での行法を再現したのです。

『薬師寺の花会式声明』のほうは、国立劇場で拝見しています。いつだったのか調べてみましたら、1999年(平成11年)でした。記憶に残っているのは須弥壇に飾られた紙で作られた幾種類かの花々と、行法の途中でまかれる、紙製の散華の蓮の花びらです。

正式には修二会(しゅにえ)のことを薬師寺では<花会式>とよばれ、東大寺では<お水取り>と親しみをこめて呼ばれています。

東大寺の修二会というのは、さらに正式の名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」といわれます。われわれが日常犯しているさまざまな過ちを本尊の十一面観音菩薩のまえで懺悔(さんげ)することを意味し、さらにひとびとの願いの究極は、<除災招福>で、世の中が平和で国は安泰に、五穀は豊かに実り、天変地異が起らず、悪い病気もはやらないように、懺悔の誠を尽くして究極の願いを果そうとするものなのだそうです。

この儀式に参加する僧侶は十一人で、籠衆(こもりしゅう)とか練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれています。この練行衆が初夜に二月堂に上がっていく時足下を清め照らすのが松明のあかりです。お松明は3月1日から14日まであります。初夜というのは、一日を6時に区切り、日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝(じんじょう)となる初夜の時間を差します。この初夜と後夜の行法は内容が複雑なものになっているようです。

『娘道成寺』の詞にも出てきます。「鐘に恨みは数々ござる 初夜の鐘を撞くときは 諸行無常と響くなり 後夜の鐘を撞くときは・・・・」

練行衆は修二会の時にだけ着る白い紙子(かみこ)を自分で作りますが、この紙子が京橋の『WASHI 紙のみぞ知る用と美 展』(LIXILギャラリー)で展示されていました。紙といってもしっかりしていて、揉んだようにシワをよらせていて保温効果もあり軽いのかもしれません。これだけの和紙をすくのは布より大変かもしれません。ところどころロウソクの灯りのため煤けていました。二月堂の須弥壇は椿の造花だけでこれらも、練行衆が作ります。

散華は蓮の花びらではなく、ハゼといってもち米を炒ってはぜさせたもので、これがまかれるのですが、踏み進むときの音はわかりませんでした。皿籠に大きな器から手ですくってハゼを入れる時にさらさらと涼やかな音がしていました。薄暗いのでぼんやりと床に何か散らばっている感じだったのがハゼの踏まれたあとなのでしょう。

お経とか様々なことがあるのでしょうが、そのあたりはよくわかりません。ただ声の響きとか、何人かの声が合わさったりしたときの太い響きとかに耳を傾けつつ、立ったり座ったりの作法を見ていました。差懸(さしかけ)という歯の無い厚い板だけの履物の心地よい音などが混在したり、差懸で走る音だけが静けさを振るわせたり、時にはほら貝が吹かれたりします。この差懸で走る音は二月堂の下に居ても聞こえていましたので、こういう作法をしていたのかと映像で具体化しました。

ほら貝も大きいのと小さいのがありましたが、荒貝、学(まね)貝、長貝と種類があるようで、五体投地といって、膝を打ちつけますが、暗くて見えなかったのですが、膝を打つとよく響くように板が置かれているらしく、暗さが尊厳さを深め、興味もつきませんでした。

<走り>とか<達陀(だったん)>とよばれる行法もあるようで、二代目松緑さんが創作した舞踊『達陀』はこの行法の名前を使われたのです。

声明とそれに用いる法具などは仏教音楽といえるもので、暗くてよくわからなかった法具なども、展示されることがあれば、これなのかと興味を持ってながめることができるとおもいます。

<お水取り>は、3月12日に本尊十一面観音菩薩に供える香水(こうずい)が、二月堂下の閼伽井屋(あかいや)の若狭井から汲み上げられ運ばれるので<お水取り>といわれるのです。香水は翌日、須弥壇の三つの香水壺に入れられます。

この行法は正午から深夜まで続き、日によっては明け方までかかるものもあるそうで、みている者は流れにそってみていますが、練行衆はすべての行法を覚え込んで厳かに時には激しく毎日六回づつ十四日間この行法をされるのです。

毎年12月16日の良弁僧正開山忌に練行衆とそれを補佐する人々が発表されれます。2月20日から本行前の前行がはじまります。

修二会は、良弁僧正の高弟である実忠和尚が、大仏開眼の年(752年)に始められ、あの平重衡による大火のときにも止むことなく続けられたそうです。

歌舞伎に『良弁杉由来』があり、「二月堂」と呼ばれます。「二月堂」といえば「お水取り」、「お水取り」といえば、ニュースの映像に出てくる「お松明」ですが、「二月堂」の中で響いている音楽性もご注目あれと思わせられる公演記録でした。

 

見えない子供の貧困

日本で貧困のために食事を満足に食べれていない子供さんたちがいるという情報を目にしたり聞いたりしていましたが、それに関する話をきちんと聞く機会をえました。

「NPO法人 フードバンク山梨」の理事長の米山けい子さんのお話です。映像を見せていただきつつの適格で実際に行動されているかたの判りやすい説明、米山さんの静かでありながら理解しやすい話術に好感がもて、内実がよくわかり聞いてよかったと友人と同じ感想をもちました。

厚生労働省の発表によると、日本の子どもの貧困率は16.3%で6人に1人が「相対的貧困」状態ということです。日本でこの位なら生活できるであろうという所得にみたないということです。親としては自分の子どもがいじめられたりしないようにとほかの子どもたちと同じようにと頑張りますが、病気や失職などでギリギリの生活となり、そこで削っていくのが食費ということになります。

ひとり親の家庭の「相対的貧困率」は50.8%と高く、いちばん低いデンマークで9.3%ですから、ひとり親の金銭的、精神的負担は大変なものです。ひとり親ということで、その負担を子どもにかけたくないという気持ちがはたらき、そんな親の気持ちを察して子ども我慢して気持ちを外には出さないため、その実態を見えづらくしているのです。

SOSを受け取った地域のフードバンクはそうした人々の支援をします。その一つであるフードバンク山梨の活動を聞かせてもらったのです。<フードバンク>という活動さえしりませんでした。

フードバンク山梨ではその活動の一つとして、市民、企業、行政と連携して食料を支援しているのです。その家庭構成にあった食料品を宅配で送り届けます。アメリカでは50年前からこうした運動があり、視察などもして、アメリカのやりかたも学ばれたようです。たとえば、アメリカでは、学校で、お菓子など食料の入ったリュックサックを子どもに渡したりします。これは日本ではいじめの対象となり同じ方法はできません。

そこでフードバンク山梨で考えておこなっている方法が宅配便で届けます。たとえばスタッフが届けると、近所にも好奇の目でみられたり、送り主にも気を使います。そういう負担のない方法を考えられたようです。荷物の中にスタッフからの手紙が入っています。

この宅配を送られた家庭の子供たちは「宝物が届いた」と大喜びです。ある家庭では、皆で分け合い夕食でお腹がいっぱいにならない子が、働いているお母さんの分を食べようとして上の子に「残しておかないとお母さんの分なくなるでしょ。」と怒られるような状態なのですから、宅配の段ボールを開けた時の喜びの声は、歓声そのものです。

入っているお米と調味料をみて、今夜はカレーだねとか、おやつの袋に、一人二袋だけと調整する声が飛びます。しっかりおやつを握った手。そんな状況の反面、日本で毎日捨てられしまう食料の量のなんと膨大なことでしょう。

フードバンク山梨では、寄付金とともに、食糧品の個人の寄贈。そして箱が壊れたり、包装が破れたり、印字が薄くなったりして安全に食べられるが販売できない食品を企業から寄贈してもらい、それを必要としている家庭や施設などに届けているのです。

その食品の仕分けや荷造りなどは、ボランティアのかたが担当しています。高校生の学生さんなども協力されています。

どうしても内に内にとこもってしまい、困窮してどうしていいのかわからない状態の家庭がどこかとつながっているという意識を持ち、これから先も自分たちの力でやっていけるかもしれないという灯りとなっているように思えます。

米山けい子さんは一人で始められ、生活保護以外しか支援の道がなかった、生活に困っている方々の支援を「食のセーフティネット事業」とし、山梨モデルとしても注目され、報道関係でも紹介されるようになりました。

見えない貧困ということが次第に問題視されてきていますが、貧富の差がどんどん大きくなってきて、子どもたちが食べるものまで食べれない状態が日本にあるのです。震災や災害なども含めこんな時代がくるとは思っていませんでした。

立ち上がろうとする気持ちを大切にした支援。それが、日本にとっては大切な支援の仕方の一つのように思えます。学ばせてもらいました。知らないことが沢山あります。

親の貧しさが子の世代にまでつながってしまい、そこから抜け出せないという社会構造にはなって欲しくないものです。

 

 

熊本と新宿をつなぐ作家 漱石・八雲

熊本の被災された方々の避難所にベビーバスが届き、赤ちゃんのお湯につかって満面の笑顔などもテレビみることができるようになった。うれしさが声になって出そうになる。「気持ちいいよね。よかったね。」

まだまだこれからであるが、少しずつ少しずつ、立ち上がる方向に進んでいるように思える。激甚災害制度も適用になったようである。

今回、被災者生活再建支援制度などもどんな制度かを調べた。阪神・淡路大震災があって、そこから制定された法律なのだということを知る。関東で竜巻があったとき、その地域で10世帯以上の住宅全壊被害がないので支援制度適用にならないという報道を目にし、そんな線引きがあるのと憤慨したが、どうもそうらしいのである。

東日本大震災の時も、仲間が家が傾き、住まいを借りるなら補助がでるということであった。その方は、A市在住で、B市の友人がB市にある家を安い家賃で貸してくれるということであったが、A市での賃貸でなければ補助は出せないとのことでA市で捜すこととなった。話しを聴いていた皆が、被災はA市がひどいんだからB市で借りてもいいのにねと言い合ったことを思い出す。

これからそうした手続きや、家族間での話し合いなども加わり大変さが加わるであろうが、少しずつもとの生活を取り戻していただきたいものである。

昨年の夏(7月19日~8月30日)、新宿歴史博物館で『熊本と新宿をつなぐ作家 漱石・八雲』展があった。夏目漱石さんは、小泉八雲さんの後を追うように熊本第五高等学校の教師となり、その後、東京帝大の英文科講師としては、八雲さんの後任である。そして、最後の住まいが同じ新宿であった。

東京帝大では、八雲さんは学生たちに大変人気があり、留任運動もおこったようである。しかし、漱石さんの講義も人気で、和辻哲郎さんなどは教室の外から聴いていた組である。

漱石さんは、熊本で結婚して父親となっている。八雲さんも熊本で父親になっている。漱石さんは、熊本には四年三カ月暮らしていて6回引っ越しをしている。<漱石先生くまもとMAP>があって、それをながめつつ、熊本の街をあるきたいなあと思っていたのである。

この新宿歴史博物館の企画展にはくまモンも来館し、学生服を着て第五高等学校生となって、展示をながめていったようである。

来年の平成29年9月には、「漱石山房」記念館が開館する予定である。くまモンもその時は元気になって来館し、熊本をアピールしてくれると良いのだが。

熊本の子供さんたちも、早く授業が始まって勉強ができるようになると笑顔がふえるであろう。学校の友達は、家族とはまた違ったつながりのある仲間である。

熊本市は路面電車が走っているのだ。3月末から4月にかけて函館に行ってきたが、路面電車が最高であった。熊本の路面電車も乘りたい。路面電車は、街を優しくする乗り物である。

今日は、日比谷と有楽町にある、鹿児島と博多のアンテナショップに寄る。時間がなかったので、九州全体と考えることとした。周りが元気なら熊本や大分も元気になれるであろう。博多織りの綺麗なしおりがあった。

その説明によると「献上博多織」とは、豊臣秀吉の軍師である黒田官平兵衛の長男黒田長政公(筑前福岡藩初代藩主)が毎年3月幕府に帯と反物を献上したため生まれた名前とある。文字でみるとなるほどである。

本屋にも寄って「東京防災」を聞いたが連休あけでなければ入らないとのこと。

地下鉄の中で、ベビーカーの若いお母さんを見て思った。だっこひもかおんぶひもを所持したほうがいいんじゃなかろうか。5年前より若いお母さんの一人でのベビーカーが増えている。ひもさえあれば誰かにおんぶしてもらうこともできるし。そんなこんなを思いめぐらされた一日である。

 

地震の多様性

熊本地震災害。テレビの情報を見つつ、原発は大丈夫。津波も大丈夫。火災も大丈夫。あとは、余震が徐々に治まってくれますようにと願っていたら、もっと大きな地震が起きてしまった。亡くなられた方々には、心静かに手を合わせるしかすべもない。

その後のテレビの地震学者の方々の話をきくと、とにかく複雑で難しい地震のようである。余震が多くて、大きい。

今までの地震とは違うようである。

車中で避難生活をされている方々も多く疲労がこちらにも伝わってくる。赤ちゃんや小さなお子さん、高齢者のおられるご家族やその他事情のあるご家族などは、特に大変である。避難場所の地域を広域にして、希望する方々には、一時的にもう少し精神的にゆったりできるスペースと衛生的に安心できる提供はできないのであろうか。

東日本大震災のときは、県外でも受け入れ体制をとってくれた。

地震の多様性がわかった以上、避難する方々の避難体制も多様性をもって取り組んで欲しいものである。

希望するかしないかは、被災者の選択で、その前に避難先を設定して声をかけるのが、行政や政治の仕事と思う。

がまん、がまん、だけではなく、地震国日本であるなら、より良い方法を見つけ出していかなくては。

地下よおだやかになっておくれ。土砂崩れよこらえてとどまっておくれ。

 

映画『百日紅』『麒麟の翼』から七福神(2)

日本橋側の墨田川テラスの土手の壁には、ドアのようなものがあったり、レンガが壁の跡のように残っていたりする。小学生の壁画や明治座開場之図などもある。前方には新大橋が見える。

上に木々が見えるので、この辺りが浜町公園であろうかと上にあがるとドンピシャリであった。浜町公園には中央区平和都市宣言の碑があった。

水天宮が改修中で仮宮が明治座の前にある。映画『麒麟の翼』では七福神の最後が水天宮であったが、最初に参拝することになった。映画『麒麟の翼』と七福神の関係は、殺された青柳さんが、<椙森(すぎのもり)神社>に千羽鶴をお賽銭箱に置いて写真を撮っていたことがわかり、そこから青柳さんは七福神めぐりをしていたのではという疑問点が浮かび上がる。

私は、 水天宮(弁財天)→笠間稲荷神社(寿老神)→末廣神社(毘沙門天)→椙森神社(恵比寿神)→寶田恵比寿神社→小網神社(福禄寿)→茶ノ木神社(布袋尊)→松島神社(大国主) とまわった。

映画『麒麟の翼』では、加賀刑事が 寶田恵比寿神社→小網神社→茶ノ木神社とまわり、松宮刑事が 松島神社→末廣神社→笠間稲荷神社 とまわり、二人で改修前の水天宮に向かうのである。

七福神であるから日本橋の七福神巡拝地図も七つの神社で、寶田恵比寿神社が入っていなかった。恵比寿様が重なるからであろうか。詳しいことはわからないが、八つでもいいように思うが。日本橋七福神の特徴はすべて神社で構成されていることだそうである。

無事七福神めぐりも済ませ日本橋へ向かう。

またまた江戸橋を渡り、地下道をくぐって日本橋に向かう。新しい銀行の建物に古い建物だった時の出入り口が一箇所だけ残されていたのがアート的で面白い。日本橋船着き場の船をみると乗船者でいっぱいである。隅田川で途中でみたときは乗船者も少なかったが午後になると人の出も多くなってきたようである。

日本橋の交番では外人の旅行者に「たいめいけんは・・・」と警察官が説明をしていた。外国の旅行者はよく調べて旅をしているように思う。映画『麒麟の翼』でも警察官は最初は外人に何か説明をしていた。

日本橋の<麒麟>も旅行者の写真のモデルとして大忙しであるが、愛想はふりまかず泰然としている。それとも頭上の高速道路が気に入らず不機嫌なのであろうか。

そこから、東京駅の八重洲中央口のシャングリラホテル東京の前にいく。ホテルに用事があるのではなく、そこの前から日本橋エリアに行く無料バスがでているということなので乘ってみたかったのである。10時から20時まで10分間隔で運行している。(メトロリンク日本橋~無料巡回バス~))

外堀通りから永代通りに曲がり停車したところの左に竹久夢二ゆかりの港屋跡地の碑が見えた。バスは左右どちらに座るかによって見えるものが違う。バスで日本橋を渡るのは初めてである。新日本橋駅の近くから中央通りをUターンしてきて、再び日本橋を渡ったところで降りたが、バスは京橋までいって東京駅の八重洲口にもどるのである。

今年はバスを使って移動して見たいとも思っていて、その先駆けとしての実験体験という形となった。地下鉄は時間が確実であるが、途中の景色が楽しめないのが残念でもあるのだ。

さてさて今年は、どんな街や路地と出逢えるであろうか。

 

 

常総市の石下

大雨による鬼怒川の氾濫で、常総市が大きな被害を受けてしまった。常総市の石下は二回ほど訪れたことがあり、テレビ映像から見ていて、あの静かで平和な田園に泥水が襲い亡くなられたかたやまだ行方がわからかたもおられ、なんとも痛ましい限りである。一日も早く生存の確認が取れることを願う。自然の残酷さを思い知らされる。

細長い常総市の真ん中を常磐線の取手駅から水戸線の下館駅へつながる関東鉄道常総線が鬼怒川と平行して走っていて、この鉄道も水に埋もれたようである。

石下は、歌人で作家の長塚節さんの生まれた土地であり、生家がある。石下駅から鬼怒川にかかる石下橋を渡り歩いて50分位のところに生家があり、西地区といわれ、そちらの方は少し高いようである。石下駅から川を渡らず10分くらいのところの東地区に、お城の建物があり、常総市地域交流センターである。その六階に長塚節さんの関係資料が展示されている。この交流センターも一時は孤立状態となったようである。豊田城として市民の交流の場とされ図書館や多目的ホールもあり、ここは高く位置しているのであるが、その高さをも孤立させるだけの水かさとなったのである。

七階は展望室になっていて、そこからは、遥か彼方に筑波山が見え、一面田畑なのである。二回目に行った時は、東日本大震災の後だったので、上階には上がれなかった。茨城は震災のときも被害を受け、農作物も放射能汚染の疑いから苦しい立場となり、やっとそれを乗り越えてきたところである。

農作物の被害も相当なものとなるであろう。収穫できない想い。心のケアと同時に経済的ケアが必要である。再び芽を出す田畑の整備がなされれば、また自然とともに生きる力も湧いて来るであろう。そのための経済的援助が欠かせない。そのことも平行して、先に進む道をつけてあげて欲しい。

被害は石下だけではないが、豊田城から一度目にした風景が焼き付いていて、目にした土地が特別となっている。一日も早く再び優しい実り多き大地となることを祈るばかりである。そして亡くなられた方々のご冥福を。(合掌)

 

8.30国会包囲10万人集会と映画

8月30日、『国会包囲10万人集会』の安保法案反対の集会に参加する。その前に、7月28日の日比谷野外音楽堂での集会とデモに参加していて8月30日の行動を知る。7・28の集会では、脚本家の小山内美江子さんが元気な姿を見せられ、座ったままで良いというのでと、その場で発言された。かつて、小山内さんの著作を読ませてもらったので、この場に居なくてはとの力強いお元気な声が聴けて嬉しかった。集会が1時間位でそのあと国会までのデモであった。

8・30は、2時間の集会である。日比谷野外音楽堂は座っていれたが今回は立ち尽くしを覚悟しなくてはならない。

国会議事堂前は混むであろうと永田町駅で降車。永田町の駅構内には食事処があり、食べる予定ではなかったが空腹よりも良いと食事をする。お手洗いには15分くらい並ぶ。降車予定駅のもう少し手前の駅で済ませなかったのを反省。それから目的の改札口に向かうと、動きが取れないので他の改札へと案内があり、そちらへ回る。改札と階段はスムーズであった。外は人でいっぱいである。

さてさてどうしようか。国会正面までは迂回しなくてはならないらしいし、子供連れの方々もいるし、さらに込み合う必要もない。国会の裏とする。まずは歩道を渡り歩く。スピーカーからは、無理に進まずにそこに留まって下さいという。しかし、この位置はスピーカーの音が大きすぎ、長くは居られない。スピーカーの音が適度で、人の群がらないところを探すことにする。歩道の半分は参加の人々が三列ぐらいに並ばれている。後ろのほうの方は座られている。そのうち、集会が始まり政治家のアピールが始まる。

歩きつつ、スピーカーの設置位置により、全然聞こえない位置もあるのを知る。やっと右手に人々が程よく両脇に並んでいる歩道を見つける。スピーカーの音も程よい。ではゆっくりと拝聴しよう。位置を決める間に政治家の話しは終わっていた。時々、皆さんしっかり聞かれていて、時々笑いがあったり、拍手があり、シュプレヒコールが入り、それぞれの思いで時間が経過する。雨が降り出してもかなりのかたが傘以外の雨具持参である。こちらも、ポンチョを着る。

若い人たちのシュプレヒコールがラップ調で、<何々だー!>ではなく<何々だろう>と巻き舌になる。年配者も次第に調子に慣れてくる。

SEALDs(シールズ)のデモときは、時には過剰警備が疑われ弁護士が不当な扱いがないか監視して見回っているそうである。メッセージも映画関係となると耳がそばたつ。神山征二郎監督は師匠の新藤兼人監督の『一枚のハガキ』の意思を伝える。神山監督の『郡上一揆』秩父事件の『草の乱』『宮沢賢治』が頭に浮かぶ。坂本龍一さんがあきらめていたが若者に期待すると。坂本さんが出てくると、『戦場のメリークリスマス』を思い浮かべるが、よく解からなかった。デヴィッド・ボウイにハグされ戸惑う坂本さんの顔。たけしさんの「メリークリスマス」という時の笑顔。大島渚監督の映画のイチ押しは『少年』である。前日、京橋のフィルムセンターで数十年ぶりで観た。最初に観た時の想いは裏切られなかった。少年の心の内。雪一面の中の少年と三歳の弟。映像的にも美しかった。

横を歩く方々がそれぞれのメッセージを前にかざして通る。連帯の意思表示であろう。誰かとはぐれた人が携帯で連絡しながら歩いている。そんな動きもスピーカーから流れるメッセージやアピールの邪魔にはならない。発言者が係りの人に話が長いといわれているらしく、あと少しですからと焦られたりして聞いているほうにも笑いが起こる。シュプレヒコールのあと拍手で終わりそれぞれの思いを胸に帰路につく。2時間近く立ちっぱなしというのは後で応えた。主権は国民にある。

集会の日の夜、返す期日が迫っている映画『日本列島』(熊井啓監督)を観た。これは、芦川いづみさんが観たかったのである。芦川さんは、日活だけでなく、松竹系も似合いそうな女優さんであった。シリアス系もコミカル系もこなされていた。『日本列島』に、1960年安保闘争の国会前の抗議行動の映像が出た。

映画『日本列島』は、昭和34年に米軍基地で通訳として勤務していた秋山(宇野重吉)が、上司の中尉から、米軍の軍曹が殺された真相を調べるよう要請される。そこには占領下時代の闇の部分が介在していて、その闇の組織に父親を拉致された娘・和子(芦川いずみ)と秋山は出逢う。軍曹の死の真相の探索を頼んだ中尉自身から中止の命令があり、如何にやっかいな組織であるかがわかるが、秋山は真相究明を続ける。和子の父が沖縄で生きているらしいとの情報から秋山は沖縄に向かう。和子のもとに届けられたのは、秋山と父が殺されたという情報であった。

この知らせを聞いたときの芦川さんの演技が見事である。ラスト、国会をバックに和子が、胸を張って穏やかな表情で歩く姿には違和感があるが、負けるなという意味であろうか。下山事件、松川事件などの当時の迷宮入りの事件も映し出され、時代性が膨らみ、真相が隠されているので映画としては捕らえづらいが、そういう事もあったというドキュメンタリー的要素が強い映画である。劇団民芸の役者さん達が、リアリティーを加える。その中で芦川さんは大奮闘である。(原作・吉原公一郎/監督・脚本・熊井啓/撮影・姫田真佐久/出演・宇野重吉、芦川いづみ、二谷英明、鈴木瑞穂、武藤章生、大滝秀治、佐野浅夫、内藤武敏、北林谷栄)

日活がこういう社会派と言われる映画を創っていたのである。

映画人のほうが、今の政治家以上に勉強されている人が多いであろうと思える。政治家のお金目当ての私利私欲の姿がテレビの映像に現れそのリアルさに呆れかえる。演技賞は政治家に贈ったほうが良いかもしれないが、恥も外聞もなく国民に税金という観覧料を払わされているのに腹が立つ。

 

歌舞伎座 2月 『一谷嫩軍記』『神田祭』

『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の<陣門><組打>である。<熊谷陣屋>の前の場で、<熊谷陣屋>とセットで組まれるが、今回は、この二つの場面だけである。ここで、熊谷直実が敦盛の代わりに自分の息子の小次郎を討ってしまうということで、次の<熊谷陣屋>の前哨戦とも受け止められるが、今回のようにそこだけの上演となりながら、<陣門><組打>だけでしっかり心うたれた。

小次郎の菊之助さんは、身体が若武者の形になっていて、足をきちっと揃えられた姿には、決まったと思いつつ、こんな若者の命を戦は容赦なく奪うのだとすでにほろりとしてしまう。さらに、平家の敵陣からは笛の音が聞こえてきて、それを耳にした小次郎は、公達はこんな美しい音色を奏でるのだと感心する。この若者には、美しいものは美しいと感じる時間は残されていないのである。小次郎は初陣の手柄をめざし敵陣に突入していく。

近頃、歌舞伎の被り物の生き物の動きが良くなったように思える。この場も馬が活躍するのであるが、すこぶる動きが良い。熊谷の乗る馬、敦盛の乗る馬、役者さんを引き立ててくれる。熊谷直実の吉右衛門さんは戦場での気迫に満ちた馬上の人として現れる。小次郎の初陣を心配してのことであるが、その辺は胸の内である。それゆえ、負傷した小次郎を助け出した時は、小次郎を隠し足早に立ち去る。

直実は敦盛を呼び止め引き戻し、小次郎と同じ若武者と知って逃がそうとする。しかし周囲にさとられ、敦盛も覚悟のうえのことなので討たれることを所望する。ここで、敦盛が実は小次郎で、入れ替わったことに気がつき直実は動揺する。観ていると、菊之助さんは敦盛に成りきっていて、この場では、むしろ観る方も敦盛と騙されてもよいのだと思えた。熊谷は、自分の息子と重ねてこの場に臨んでいる。そう思わせる。菊之助さんと吉右衛門さんの演技は二人だけが真実を抱え込んだ戦場の親子の姿であった。ここで真実が解らなくても<熊谷陣屋>を観たときそうであったのかと思えれば芝居の物語性は壊れはしないのである。

吉右衛門さんはその後の悲しみも深く押さえられ、静かに亡き人の鎧、兜などをかたずけられる姿に運命をかみしめる無常観が感じられた。敦盛の許嫁である玉織姫がめも見えなくなった死の淵にありながら、敦盛の顔が見たいと言い、見て安心して亡くなる姿も物語の悲哀を一層深くした。<陣門><組打>だけの場で、敦盛であっても、小次郎であっても、戦の空しさは変わりようがないと思わせてくれる。菊之助さんは、東の若武者と公達の若武者をきちっと演じわけられた。

『神田祭』は、明るく賑やかに菊五郎さんの粋な鳶頭と、それぞれの味を見せてくれる芸者五人衆の時蔵さん、芝雀さん、高麗蔵さん、梅枝さん、児太郎さんの踊りである。

手古舞もあり、ナマズの山車が出てきて、鳶頭がナマズを押さえつけてしまう。舞台の神田祭りで威勢よく地震を鎮めてしまおうとの趣向であろうか。お祭りは、やはり晴やかな気分にしてくれる。

 

『上州土産百両首』から若者映画

歌舞伎の『上州土産百両首』浅草公会堂 新春浅草歌舞伎 (第一部)から現代の若者映画に思いが移った。二人の江戸時代の世の中から外れた若者の友情と絶望と復活。その辺りを現代の映画はどう描いているか。などと大袈裟なことではないのであるが、たまたま見た映画三本が、屈折があり面白かった。

『まほろ駅前多田便利軒』『僕たちA列車で行こう』『アヒルと鴨とコインロッカー』

瑛太さんのファンではないが、三本とも瑛太さんとのコンビの映画である。瑛太さんは共演者の個性の映りを引き出す何かがあるのかもしれない。

『まほろ駅前多田便利軒』は、三浦しをんさん原作(直木賞受賞)で、その前に『舟を編む』の小説と映画に接していたからである。『舟を編む』が思いもかけない辞書編集者の話で<まほろ駅前>の駅名もミステリアスで行きたい気分にさせてくれた。松田龍平さんが出ているのも気に入った。わけありの幼馴染が出会い、便利屋をやっている主人公と一緒に暮らし仕事をする。それぞれの過去を知り、それぞれの感性の違いが際立ってくる。これ以上の腐れ縁は沢山だと思いつつ、また一緒に暮らし仕事をすることになる。監督・脚本は大森立嗣さんでこの監督の映画は初めてである。

『僕たちA列車で行こう』は、列車の走る外と内と車窓の映像が沢山見れそうで選んだ。監督・脚本は森田芳光さんで、森田監督の遺作である。コンビは松山ケンイチさんと瑛太さん。鉄道好きな二人で松山さんは、車窓を眺めながら音楽を聞くこと。瑛太さんは、実家の鉄工所の仕事を手伝っており、車輪の音やシートの手すりのカーブなどに興味がある。マニアックな趣味の持ち主であるが、それが功を奏して人生上手く回る。上手くいかなくてもこの二人のマニアックさは変らないであろう。

『アヒルと鴨とコインロッカー』は、映画『はじまりのみち』で注目した濱田岳さんが瑛太さんと絡むとあったからである。原作は伊坂幸太郎さんで、初めて(吉川英治文学新人賞)。監督も初めての中村義洋さん。脚本は中村義洋さんと鈴木謙一さん。仙台で大学生活を始める濱田さんがアパートの戸の外で段ボールを片づけながら、ボブ・ディランの「風に吹かれた」を歌っていると、隣の住人の瑛太さんが声をかける。この映画はネタばれになると面白くないのでそこまでであるが、松田龍平さんも出る。原作は解らないが、映画での濱田さんはこの役はこの人以外にいないと思うくらいはまり役である。今度は、伊坂幸太郎さん原作の『重力ピエロ』と中村義洋監督の『ジャージの二人』のDVDを借りてしまった。

歌舞伎の『陰陽師』の染五郎さんと勘九郎さん、『主税と右衛門七』の歌昇さんと隼人さんなど新しいコンビの芝居が増えるのを期待する。四月に三津五郎さんが戻られるようなので、三津五郎さんと橋之助さんコンビも嬉しいのだが。