郡上八幡での<郡上おどり> (2)

吉田川の川べりに下り、川に落ちる小さな滝の水音を聴きつつ、ほう葉に包まれたほう葉寿司を食する。小さな子供たちが石を拾い、川に投げ込んでいる。重い石を選び体のバランスを失い尻もちをつき水浸しである。新橋からは若者が洋服のまま橋の欄干に登りあがり吉田川に飛び込んでいる。こう遊ぶものという制約がなく長閑である。

かつて勤めていた会社の上司がランチに牛肉のほう葉みそ焼きをご馳走してくれたが、この地方で考えられた料理であったのか。小さなお店の手作りしたおかみさんは、時間を置いたほうがほう葉の香りがお寿司に染み込むと教えてくれるが、川に並ぶ古い家並みも自然の川風も水音もほう葉寿司には最高の味付けである。

寛文年間に作られたという用水路の〔いがわこみち〕の水の流れとその中で悠々と泳いでいる鯉などを眺めつつ慈恩禅寺に向かう。境内も寺院内も静かである。障子が三方開け放たれ全面庭である。後ろは山。京都の円通寺や高山寺を思い出す。借景が木々であり、それが見る者を庭と一緒に包み込んでくれるようで安心して呼吸している。小さな二つ上から流れ落ちる水の音が、その距離の違いから時間の違う共鳴をしている。セミが奏でそれと遊ぶように小鳥がすぐ近くの枝の間をぴょんぴょん止まって遊んでいる。それを誘うようにもう一羽小鳥が遊びに来て、自由に飛び回る。トンボが来て、蝶々が来て、造られた自然の中を楽しんでいる。ただそれをぼーっと眺めている止まっている時間。

止まった時間から動きだし二箇所の床の間の書と花を眺める。庭を邪魔しない清々しい飾りつけである。それだけでもきちんと主張しており、それでいながらゆかしい。アジサイのくすんだ花色も良い。庭に花がないだけに目が行ったとき、目立ち過ぎないように活けられてるのも活けた人の心ばえが伝わる。川や雲の流れに合わせた書の詞である。ここでかなりの時間を取らせてもっらた。本当は一日一か所の寺社巡りが良いのであろうが、どうしても回り過ぎてしまう。そうして気に入ったところを探し当てる時間も必要なのであるが。中庭へ向かう角の手水ばちが水琴窟になっていて幽かな音を地上に伝えていくれる。釈迦如来の御本尊をお参りし中庭を眺めつつ玄関へと進む。御住職が是非11月の紅葉の時期にお越しくださいと声をかけて下さる。きっとあのもみじが色ずくのであろう。山門を出ると、さらに、雪の時期にもきたいものであると欲が出る。世俗にすぐもどっている。

そこから〔やなか水のこみち〕へ行き、郡上八幡旧庁舎記念館で冷たい白玉ぜんざいを食べ、新橋を渡り裏側から郡上八幡城に向かう。これが結構きついのである。昨年来た時は、お城の掃除の日で中に入ることが出来なかった。がっかりして下る途中で、博覧館で決まった時間に郡上おどりの実演があるのを知り、大急ぎで下ったのである。何が縁になるか分らないものである。お城に入ると外は、俄か雨である。天守に登り、雨の郡上を眺める。展示の所に<家康の鷹狩にお供した郡上藩主の青山忠成が貰った赤坂のにれから渋谷まで、もともと原宿といっていた土地が青山と呼ぶようになった>(「お江戸の地名の意外な由来」中江克己著)のだそうである。

東京では6月に郡上八幡藩主青山氏の菩提寺「梅窓院」(南青山)の境内でおこなわれていたが、近年は秩父宮ラグビー場駐車場( 地下鉄銀座線 外苑前駅下車 出口 徒歩1分)で行われている。

今回の郡上での踊りの場所は城山公園でお城から下って行くと山内一豊と千代の銅像のある城山公園を通る。場所が城山公園というのも気に入った。町歩きも終わり、後は踊りの時間までゆったりするだけである。

 

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