『永井荷風展』 (2)

岩波文庫の『摘録 断腸亭日乗 (上)(下)』(磯田光一編)を買い足す。しかし、これも全文から抄出したものなのである。文庫なので扱いやすい。

年譜によると、1916年(大正5)、父の住まい牛込区大久保余丁町の来青閣(この時代の人は自宅に名前をつけるのが好きだったようである。その名ですぐ仲間が共通理解できるからであろうか)の玄関の6畳を断腸亭と命名している。このとき既に荷風さんの父上は他界している。『断腸亭日乗』の書き出しは、1917年(大正6)9月。

森鴎外さんと荷風さんが初めて会ったのは、市村座で小栗風葉さんの紹介である。その後鴎外さんと上田敏さんの推薦で、荷風さんは慶応義塾大学文科の教授になる。(1910年)。1916年3月には、教授職を退く。アメリカ、フランスに行かせてくれた父を一応安心させ、その後は自分の生き方を貫くこととなる。文学者森鴎外さんを敬愛する荷風さんは、鴎外さんによって父の生前中に形を整えられた感謝の気持ちも含まれているのであろう。

1918年(大正7)1月24日には、鴎外先生から文をもらう。「先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後(じご)全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。」

1922年(大正11)7月9日、鴎外先生亡くなる。「早朝より団子坂の邸に往く。森先生は午前七時頃遂に纊(こう)を属(ぞく)せらる。悲しい哉(かな)。

前日、7月8日にも見舞っており、特別に病室に入ることを許される。通夜、葬儀。

鴎外さんに比して、幸田露伴さんとは、近くに住みながら会うこともなく、葬儀は外から見送っている。荷風さんは、全てを焼失してから、鴎外さんと露伴さんの全集だけは揃えている。荷風さんが菅野に来て(昭和21年1月16日)、その後、露伴さんは娘の文さん、孫の玉さんと引っ越してくる(1月28日)。露伴さんは高齢で外に出ることもなく、昭和22年7月30日亡くなられる。

荷風さんは、露伴さんの葬儀には喪服がないからと、外にたたずみお別れをしている。この露伴さんの葬儀の映像が、今回の展示で見る事が出来る。鴎外さんは、私的と公的を区別されていて、私的には親しみやすい方であったが、公的な仕事になると上下関係などをきちんとされたようである。人付き合いの苦手な荷風さんにとって露伴さんは私的に接する人ではなかったのかもしれない。喪服がないからと中に入らなかったのからして、荷風さんにとって露伴さんは鴎外さんとは違う位置に立つかただったのであろう。

さらに、市川市の市民の方が、市川市文学ミュージアムの協力のもと、自分たちで制作した映像『荷風のいた街』(発売)の中で、当時近くに住んでいて人が沢山集まるので露伴さんの葬儀を見に行っており、荷風さんの様子も話されている。さらにその他、荷風さんの日常の様子を知ることが出来る。戦後から亡くなるまで、市川に住まわれていたということは、一人で暮らすには荷風さんの好む街だったのである。

 

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