『永井荷風展』 (1)

市川市文学ミュージアムで『永井荷風 -「断腸亭日乗」と「遺品」でたどる365日ー』を開催しているのを知る。何んとタイミングの良いことか。<市川文学プラザ>としていた展示フロアーを、<市川文学ミュージアム>としてリニュアールしたらしい。<市川文学プラザ>の時、一度行っている。市川関係の文学者や芸術家の資料を丁寧に保存、収集し、整理されて展示されていた。

今回は「市川市文学ミュージアム開館記念 特別展」で有料であった。荷風さんは昭和21年から亡くなるまで市川市菅野、八幡を終の棲家としている。「断腸亭日乗」の原本も当然あり、清書した時期もあり、その紙の質などからも荷風の心の内、時代の流れなどを分析した解説も面白い。その時々のスケッチや地図もある。亡くなる前日まで書いている。 【昭和三十四年四月廿九日。祭日。陰。】(陰は曇りということである)筆跡も当然変化していき、そこには、荷風さんの生きた証がある。

谷崎潤一郎さんから送られた「断腸亭」の印章が展示されている。その印章は、昭和16年に送られたもので、昭和30年の東京大空襲の時、偏奇館とともに焼失。ところが次の日、従弟の杵屋五叟(きねやごそう)さんが、焼け跡の灰の中から堀リだしたものである。この印は、戦後も、全集の検印や蔵書印として使われている。

私が「断腸亭日乗」を読んだ箇所に、荷風さんが岡山の谷崎さんを訪ねる前、昭和20年7月27日、岡山駅に谷崎さんから送られた荷物を受け取っている。品物は鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、その他である。「感涙禁じ難し」と書き加えている。焼け出された文学者に対する谷崎さんの心遣いである。それは、荷風さんが自分の作品を認め評価してくれたことによる作家として誕生できた谷崎さんの思いであろう。

8月15日、宿屋の朝食(鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚付け焼き、茄子香の物)に、八百善の料理を食べている心地であると書いていたが、その八百善の煙草箱が愛用品として展示されていた。これは、八百善で売っていたのであろうか。煙草箱の中には、ピースが10本。箱の外の絵は、江戸時代山谷にあった時の老舗割烹八百善の絵図である。それでいながら、自炊に使用していた釜は、使わない時は洗面器と兼用である。

森鴎外さんを敬愛し、鴎外さんの子息たちとも交流している。森茉莉さんも荷風さんの菅野の家を訪れている。どんな話をされたのであろうか。茉莉さんの作品と晩年を思うと、自分の好みがはっきりしている荷風さんは、茉莉さんの先駆者だったかもしれない。森於菟(もりおと)さんは、森鴎外記念館設立のための協力を願う手紙をだしている。この展示の図録によると荷風さんは、記念館設立のため高額の寄付をしている。すぐには記念館とはならず、文京区図書館の一部に鴎外記念室として残したりしていたが、2012(平成24)年11月1日に「文京区立森鴎外記念館」として開館した。森於菟さんの手紙が1956年(昭和31年)であるから約56年目である。鴎外記念室の時一度訪ねたが想像と違いがっかりしたことがある。

5月に森鴎外記念館を見学し「特別展 鴎外の見た風景~東京方眼図を歩く~」を見た。今度は記念館として充実していた。鴎外が考案した地図「東京方眼図」。鴎外は与えられた仕事を成し遂げる。それが、小説家森鴎外の痛手であった。鴎外は翻訳、評伝など、さらに軍医としても、多くの仕事をしている。だが一番時間を使いたかったのは小説を書くことではなかったのか。その時間が生涯充分にとることが出来なかった。

荷風さんは、世間から一歩引くことによって維持した自分の小説家としての位置と、森鴎外さんのように世間にいながら小説家としての位置を何とか確立しようと闘っていた人としてへの敬愛であったのであろうか。

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