司馬遼太郎 『白河・会津のみち』

司馬さんは、誘いの上手なかたである。『白河・会津のみち』も「奥州こがれの記」から入る。平安時代の貴族たちが如何に奥州・みちのくを恋焦がれていたかということから書き始めている。このみちを読むのは二回目であるから、はじめは今回のような誘いの手に乗らなかったわけである。

宮城野」と「仙台」では受ける印象が全然ちがう。「仙台」といえば、伊達政宗を連想する。

福島市は「信夫」で司馬さんは「この時代のひとびとがきけば、千々みだれる恋の心に、イメージを重ねる」と書いている。ここには「信夫捩摺(しのぶもじずり)」(忍摺・しのぶずり)と都で呼ばれていた乱れ模様の絹布があって、「その染め方は、みだれ模様のある巨石の上に白絹を置き、草で摺って、模様をうつし出したといわれる。」

イーハトーボの劇列車」では、紫根染めをしている西根山の山男が、その技術を認められて東京に行く列車に乗るのだが、送られてきた汽車賃を使い果たし、サーカス団に加わるのである。この設定は面白い。井上さんの岩手であろう。

司馬さんは、この奥州への憧れの代表として、源融(みなもとのとおる)を出す。嵯峨天皇の皇子であり、光源氏のモデルと言われている人である。今の嵯峨野にある清凉寺がもと源融の山荘で、東本願寺前にある渉成園が別荘河原院でその優雅さから「河原大臣(かわらのおとど)」と呼ばれたりもした。河原院は奥州塩釜を取り入れてつくられたいう。現在、公開されているが、当時の面影はないそうで、わたしも行ったが庭の知識がないため特別河原院の感慨はなかった。入ってすぐの石垣のほうが興味深かった。そして宇治の別荘はのちに平等院になるのである。源融は能「」にもなり、旅の僧が六条河原院の跡で休んでいると一人の潮汲みの老人があらわれ、ここは昔、融の大臣が陸奥塩釜浦の風景を写した庭を造り、難波浦から海水を運ばせ塩を焼かせたと話す。この老人は融の亡霊であった。再び夢の中に現れ名月の光の中で舞うのである。

次に平将門の先祖が出てきてさらに義経と馬が出てくる。騎馬集団を指揮する天才である。それまで一騎打ちであった戦に対し、集団で奇襲をかける。歌舞伎で追われる義経であるのは、舞台に義経の騎馬集団を持ち込むことが出来ないのと、琵琶法師や浄瑠璃などの語りを聞いていた大衆の下地を上手く使って演劇化していったような気がする。勝利者はいらないのである。

みちは白河の関へと行き、会津へと入ってゆくのであるが、白河では、思いがけない人について書かれている。山下りんさん。ロシア正教の聖像画(イコン)を描かれた女性である。茨城県笠間の生まれで、笠間はかつて領主に浅野家の時期があり浅野家が播州赤穂に移って4代目が浅野内匠頭長矩である。山下りんさんのイコンはどこであったか忘れたが見た事がある。信者にしては、どこか物足りない。そんな思いで見た記憶があるが、このかたは絵筆を持ちたかったのである。ところが、没落下級藩士の子で絵などそれも女子が学べる環境ではない。しかし、りんさんは上京する。絵のために意に添わなくても彼女は絵筆を持ち続けた。ロシア正教はイコンに対し描き手の感情移入は許さない。その法則の中で縛られて描くのである。白河ハリス正教会の聖堂正面にあるキリスト像と聖母マリア像は山下りんさんの作でほかのものとは少し違うらしい。どこかでは、自分を出されていたのであろうか。

会津には、徳一という学僧がいて、最澄と論争したらしい。徳一は古い奈良仏教で最澄は新しい平安仏教で、かなり執拗に最澄を苦しめたようだ。面白いのは、空海と最澄を次のように比較している。「空海の場合、徳一の論鋒をたくみにかわし、むしろ徳一を理解者にしてしまったところがあり、このあたりにも、最澄の篤実さにくらべ、空海のしたたかがうかがえる。」最澄のほうが空海より保護されており、最澄のほうがしたたかと思っていたので司馬さんの見方が新鮮であった。このことがまた、「イートハーボの劇列車」を観た時、父と賢治の論争がこのことと重なった。

会津若松市に入る。井上ひさしさんの言葉に対する司馬さんの考えが出てくる。

<「会津は東北じゃありません」と、私にいったのは、山形県うまれで仙台育ちの井上ひさし氏だったが、そのとき大げさでなく息が止まる思いがした。そういわれるてみると、会津は藩政時代を通じて教育水準が高く、そのぶんだけ土俗のにおいがしない。>

この後、会津のこと、松平容保のことなどが展開してゆく。

内田康夫さんの『風葬の城』は、会津漆器の職人が殺される。大内宿や近藤勇の墓が出てくる。そして犯人はだれか。事件が解決し、浅見光彦は母雪江から、会津葵のお菓子を買って来るよう言いつかる。こちらのお菓子にも興味ひかれる。

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