11月花形歌舞伎 (明治座)

昼の部 『鳴神(なるかみ)』『瞼の母』『供奴(ともやっこ)』

夜の部 『毛抜(けぬき)』『連獅子』『権三と助十』

こちらの一押しは『連獅子』である。澤瀉屋の『連獅子』と言えるもので、躍動感に溢れていて、親獅子と子獅子の情愛というより、右近さんと弘太郎さんの若い動きを楽しむものであった。動きが良いので弘太郎さんの谷底から這い上がってからの微笑みはいらないと思う。身体の動きでその喜びは十分伝わり、緊張感は最後まであったほうが力強くて良い。

松也さんの『供奴』、個人的舞台意外での一人踊りは初めてなのではないであろうか。一生懸命さが伝わる。足のテンポも良いと思う。ただ花道の出から箱提灯が、ピタッとまっすぐに決まらず、斜めになる時があり気になった。姿を美しくとなるとそうした少しの事も影響するものである。故富十郎さんのを見直したら矢張り箱提灯も綺麗に形よく決まるのである。声の響きが良い方に変わってきた。世話物に欠かせない役者さんになりそうである。

獅童さんの『瞼の母』の忠太郎は感情を母親に手いっぱいぶつける。獅童さんの身体、容貌からすると希望としてはもう少し押さえてほしかった。秀太郎さんが自由自在の方であるから、そのほうが忠太郎の空しさがジーンと伝わるような気がした。役に成りきってその役で笑いを取ってほしい。『毛抜』は荒事でありながら、失敗もしその愛嬌で客を楽しむ。力強いのに失敗する可笑しさ。謎解きをする機転があるのに他では上手くいかない人。それは役に成りきってこその可笑しさである。ところが、世話物『権三と助十』ではアドリブで笑わせる。

隣に座られた若い方が「菊五郎劇団ではやりますが、澤瀉屋は世話物珍しいですね」と言われた。その一言から思ったのである。世話はその間が難しい。当たり前に出来ると思われるが当たり前ではなく、その役の生活、人間性を表し伝えるのは技量を要する。その技量は荒事などのように大きな表現方法よりも観客に見せづらいし解っては観客もしらける事もある。そこを充分納得しないうちにアドリブに頼るとせかっくの積み重ねの時期、もったいない事になると思う。客は役者の芸を楽しむよりもアドリブを楽しみ、その要求は増幅していくものである。その辺をしっかり心して励んでほしいものである。

嫌味なもっともらしい感想となったが、<花形>の時期は体力もあり覇気もありそこでの一生懸命さは観ている方も気持ちが良いが、ベテランが、一生懸命だと観ているほうも疲れるものである。やはりベテランは芸がありその工夫を見せる時期である。それぞれの時期を大切にして戴きたいのである。

中村獅童、市川右近、市川笑也、尾上松也、市川猿弥、市川春猿、市川寿猿、市川弘太郎、坂東新悟、市川笑三郎、市川門之助、市川右之助、片岡秀太郎

 

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