東海道神奈川宿から保土ヶ谷宿で、台の茶屋跡も残っており仲間達は皆感動したのであるが、そこでこんな会話が。「こちらが横浜の海、黒船に江戸の人は驚いたのよねえ。」「黒船が最初に姿を表したのは?」「浦賀でしょう!」この時インプットされてしまった。そうだ浦賀に行かなくては。おりょうさんを吉田家に世話したのは勝海舟である。徳富蘆花が愛子夫人と新婚生活を始めるのが、赤坂氷川町の勝海舟邸内の借家である。(世田谷文学館と蘆花恒春園)勝海舟という人は色々なところに出没する。
旅行案内本にも浦賀の散策が載っている。ぺリーの黒船は1854年浦賀沖に現れ、久里浜で親書を渡し、次の年1854年横浜で日米和親条約(神奈川条約)を結び、1856年ハリスが下田に着任し日米和親条約付録(下田条約)を結ぶのである。神奈川条約締結で下田と函館の開港を決める。ぺリーはなるべく江戸に近づこうとし、江戸幕府は江戸に近づけさせないようにと苦慮している様がうかがえる。
ぺリーの黒船の上陸したのを記念して、久里浜海岸にぺリー公園とぺリー記念館がある。まずそこに久里浜駅からバスで行く。公園には伊藤博文筆の大きなぺリー上陸記念碑がある。戦争中は倒されていた。黒船は 沖縄に寄ってから浦賀に来航しその6日後に久里浜に上陸している。外国船はその前から通商を求めてきていた。欧米諸国はアジアをに工業原料を求め、それを自国で生産して、その商品を売り込みたがっていた。
帆船ではない車輪のついた黒い蒸気船に江戸の人々は驚いてしまった。それに開国派、攘夷派、尊王派、幕府派の組み合わせが迷走入り乱れ徳川幕府も内と外からの波に翻弄されていく。相模湾、東京湾に挟まれ太平洋に突出している三浦半島も風光明美でありながら陸では様々な事を見てきたのである。再びバスで久里浜にもどり、浦賀に向かう。途中、京急大津駅から10分のところにおりょうさんの眠る信楽寺があるが帰りに寄ろうと思ったが寄れなかった。
司馬遼太郎さんが『街道をゆく 三浦半島記』で次のように書かれている。「山門が、すでに高い。その山門へ上る石段の下にー つまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背にー いわば路傍にはみだしてー 墓が一基ある。路傍の墓である。」「りょうの墓碑は、おそらく海軍の有志が金を出しあって建てたものらしく、りっぱなものである。碑面に、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。りょうの明治後の戸籍名である“西村ツル“は、無視されているのが、おもしろい。」