歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (身替座禅・壽曽我対面)

『身替座禅』   狂言の『花子』を歌舞伎にしたもので、気を楽にして観劇できる舞踏劇である。ある大名(菊五郎)が、他の土地で花子という女と知り合い契を交わした。その女が京に出てきて会いたいと云ってよこした。どうやって屋敷を抜け出すか。大名の奥方(吉右衛門)は夫の勝手は許さないのである。そこで、屋敷にある持仏堂で一夜だけ座禅を組むことが許される。自分の替わりに家来の太郎冠者(又五郎)に頭から座禅衾(ざぜんふすま)の小袖をかぶせ、首尾よく抜け出し夢心地で帰って来てみると、奥方に身替りがばれていて、大騒動となるのである。

奥方はしこめの設定で、時には観る人の笑いを誘うように、頬を真っ赤にしたりするのであるが、吉右衛門さんはお化粧は派手にはせず、嫉妬深きはあるが、そもそも夫のことを思うあまりの悋気として作られた。菊五郎さんは恐妻家で、それでいながらなんとかして花子のところへ行きたい気持ちを現し、帰ってきての花道で花子との逢瀬に身も心もぼーっとしている。花子の小袖まで身に着けている。

座禅衾をかぶっているのは奥方なのであるが、太郎冠者だと思い、思いっきり花子とのやり取りののろけ話を始めるのである。そこが見せ場である。酔いに任せ言いたい放題で花子に語った奥方の悪口まで話してしまう。もうその衾を取れととってみると、怒り心頭の奥方であった。吉右衛門さんは、夫の体の事を心配するうるさい世話女房が、裏切られた怒りを爆発させ、菊五郎さんは、そのうるささから逃れてやっと楽しんだ一夜もばれ、喧嘩しつつも再び恐妻家となるであろう事が想像できる一組の夫婦像を可笑しくも表現されていた。

『壽曽我対面』   様々な人物がでてくるので、役者さんが多く並ぶには都合のよい出し物であるが、これが、それぞれの役がなかなか難しい出し物である。五郎(孝太郎)、十郎(橋之助)はしどころがあるから良いが、しどころも少なくその役柄を判らせなくてはいけないのである。しどころがあっても、特に十郎は難しい役だと思わされた。どのように言えばよいか言葉が見つからない。橋之助さんの場合は声と台詞の抑揚が不満であった。観ているほうが、身体と声と上手く融合させられなかったのである。仇討の敵の工藤佑経(梅玉)に兄弟を合わせる取次をする小林妹舞鶴の魁春さんと遊女大磯の虎の芝雀さんはきちんとはまって観る事ができた。

敵の祝いの席に突然その敵を仇討する兄弟が出てきて対面するのである。佑経はこの兄弟の顔を見て自分が討った河津三郎の息子たちであると分かるのである。兄弟は名乗りを上げる。兄弟の性格の違いもここでの見せ場である。この祝いというのが、富士の狩巻の総奉行を任された祝いで、その大役がすんだら工藤はいずれは兄弟に討たれる覚悟らしい。曽我兄弟の仇討は当時の人々にとっては人気の話で、その敵役を大きく見せる事によって、曽我兄弟をも、理想化させての舞台なのであろう。様式美と言う事か。そう考えるとやはり納得していない自分がいるのである。と同時にこういう舞台の捉え方がよく判らない自分がいると言う事でもある。

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