旧東海道 戸塚から藤沢 (1)

いつになったら京にたどり着くのか、弥二さん・喜多さんよりも覚束ない東海道の旅である。この前に、三島から沼津を歩いているのであるが、違う事を書いているうちに時間がたってしまい記憶の新しいほうからにする。この戸塚から藤沢は、歌舞伎の演目にも縁のあるところがあるのである。さらに、岸田劉生さんが住んで代表的作品を残したのもこの藤沢の鵠沼時代なのである。鵠沼には行かなかったが、坂の多さから<坂道>を題材として取り上げた劉生さんの心の風景が少し見えたような思いがした。

東海道歩きで一番問題なのが、駅から旧東海道を見つけることである。大きな駅であればあるほど駅構内から方向を定めても出口が多く、外に出ると駅の回りはショッピング街やビルであったりする。今回は三人。先ず<清源院>を探す。崖上に木々の緑が集まっている。先ずは当たりである。清源院長林寺は徳川家康の愛妾、お万の方ゆかりの寺である。葵の紋である。朱色のツツジが眩しい。芭蕉句碑 <世の人の見つけぬ花や軒の栗>。何があったのか 心中句碑 <井にうかぶ番(つがい)の果てや秋の蝶>。境内を下り、さてと方向を定めるとなんとなく旧東海道と思いたい道に小店あり。ふらふらと行きかけるが、違う違う、今回は国道1号線なのである。

この清源院から保土ヶ谷方面にもどった吉田大橋の辺りからかまくら道があるらしい。<東慶寺>を目指す人は、ここから東海道からかまくら道に歩みを進めたのであろうか。ただもっと先でも、かまくら道が東海道を横切っていたので、戸塚宿を目安として鎌倉に向かう道が数本あったのかもしれない。

歩道のマンホールの絵がマラソン走者である。箱根駅伝の通過道である。上り坂である。沢辺本陣跡の案内板あり、そばのお宅の表札が澤邊さんとあるので、本陣関係のかたであろうか。道路反対側に<戸塚地区センター>があるはずで資料を調達しようと予定していたが、標識が見えないのでパスして進む。<八坂神社>。<お札まき>の案内掲示板あり。

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<江戸時代中期、江戸や大坂でさかんだった踊りで、今ではこの戸塚宿にだけ残っている。7月14日の夏祭りに男十数人が女装して音頭取りの歌に唱和して踊り、踊り終わると音頭取りが五色の神札をまき、人々はそれを拾い、家々の戸口や神棚に張る。歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」とあり、祇園祭と同様な御霊信仰にもとづく厄霊除(やくりょうよ)けの行事である。>

仲間の一人が「ドラマの<仁>もコロリにかかって点滴をしたんだよね。」 残念ながらこのテレビドラマは見たり見なかったりでその場面はみていないが、江戸の人々にとってはコロリは<厄霊>で封じ込めるか、除くかで身を守ることを考えたのであろう。

次が<冨塚八幡宮>でこの地区の<戸塚>の名のもととされている。かつてこの辺りを冨塚郷といい、冨塚一族の人々が住んで居たらしい。<富塚八幡宮>は源頼義・義家が奥州へ向う途中、社殿を造営したといわれ、富塚、戸塚名の方々の守護神となっている。

ここで八百万の神の話になり、仲間の一人が、「日本人は祟りを恐れて人を神様にして、その祟りを封じこめたから神様が多い。」という。なるほど、この世に変な形で出現せずに、見守っていて下さいという鎮魂の意味が強いのであろうが、かつては、私は何々の生まれ変わりだと名乗る武将達もいた。武勇や戦勝を祈るのは神様にとって迷惑なことかもしれない。神様たちも時には、あっちむいてプイをされておられるかもしれない。判らんなら、勝手に殺し合いなさい。ただ八百万の神といえども、神々の世界に次々送りこまないでいただきたなどといわれておられるかどうか。

『千と千尋の神隠し』の話になり、「ジブリは戦記物のほうが映画としては面白い。」と私。つかさず「戦記ものは全て<駿さん>になってしまうのよね。原作と違うのが不満。」と反論される。なるほど、原作を読んでいる人には不満なのか。「映画にすると盛り上がりを作ってしまって方向性が違ってくる。」それはそうであろう。アニメ映画となれば、盛り上がりをつくるか、ほのぼのさせるか、近頃は懐かしがらせるというのもあるからして。原作を読んでいないので退散。

<上方見附跡>が左側歩道にあるので反対側に渡る。見附は宿場の始めと終わりにある。戸塚宿の終わりで上方方面からの参勤交代の一行が戸塚宿に向かって来るのを見つける場所である。<上方見附跡>の案内板も無事みつかる。ここから坂が急になり大坂である。

目指すは<お軽勘平道行の碑>である。散りかけた桜をみたり、背の高いタンポポに、やはりタンポポはあのギザギザの葉に程よい背丈で咲くのが本当のタンポポなどと互いに講釈をしつつ歩く。ありました。<お軽勘平戸塚山中道行の碑>。

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なかなか立派である。歌舞伎の道行に関しては、『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎座12月) (2) の拙い文で参考にされたい。(本当は次の東海道は、保土ヶ谷から戸塚なのであるが、諸事情によりまだなのである。)高い位置に道があり眼下を見下ろせるすき間も少しある。<お軽勘平>が見たであろう富士は、夜中人目を忍んで歩いたので、薄墨富士というのだそうである。薄墨富士、なかなか良い。今日は遠くは霞んでいて霞富士も何もみえない。道の分岐路には松並木の名残の松があるが、ずーと先で当時の松は松くい虫のために枯れてしまったと説明があった。道でさえ今は車の多い道に変ってしまうのである。今、生き残っていること自体が素晴らしいことである。そして<原宿一里塚跡>があり、今度は右側歩道にある<浅間神社>である。

旧東海道 戸塚から藤沢 (2)

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