映画 『昭和残侠伝』

池部良さんの『乾いた花』が出てくれば、自ずと知れた『昭和残侠伝』である。快楽亭ブラックさんが、「花」と「風」の名コンビ、花田秀次郎(高倉健)と風間重吉(池部良)の役名がそろうのは、4作目からと言われている。池部さんは、この作品に参加するとき、「入墨は入れないこと」「ポスターに写真を入れないで、字を小さくすること」「毎回死でしまうこと」と条件をだされたので、役名の固定化が不確定になったのかもしれない。

シリーズ第七作「死んで貰います」についてブラックさんは 「最後に秀次郎と風間が殴り込みに行かなければ、まるで川口松太郎の人情小説の世界。新派の舞台が似合いそうな物語に、藤純子が情感たっぷりに一目惚れしたした男を忘れられない芸者を好演、粋でイナセなマキノ美学が映画の隅まで生きていてシリーズ最高傑作となった」 とされるが、賛成である。ただ一つブラックさん間違っていました。秀次郎の義理の母は、三益愛子さんではなく、荒木道子さんである。ブラックさんは、幼稚園生の頃に、長谷川一夫さんとひばりさんの『銭形平次』を観ていて、今でも忘れられないそうであるから、どれだけの数の映画が頭の中にあることか。この位の間違いは些細な事であるが、荒木道子さんの理性ある義理の母親役もこの映画の情の部分に一役かっておられる。

秀次郎は料理屋の跡取りなのであるが、家を出てヤクザとなっている。風間はヤクザであったのが、この料理屋の主人に助けられ堅気の板前になって店を助けている。風間は女将さんが目が見えないので、秀次郎の素性を隠し板前として店に入れ、芸者の幾太郎(藤純子)と夫婦にさせようと何かと面倒をみる。女将さんは秀次郎が人の道を外れたのは自分のせいと思っている。このあたりの人間関係のそれぞれの科白が、上手く作られている。店の主人と娘は亡くなり、その婿が相場に手をだし店をだまし取られてしまう。そこで秀次郎と風間の出番となる。

ことによるとしらけてしまうような科白が、そうはならずいい場面に作りあげられている。風間が、秀次郎と幾太郎をからかったり、秀次郎を諭したりしながら、最後は秀次郎とともに同じ道をゆく。そこまでを、一本気の秀次郎を軸に上手く設定されているし、池部さんがよく支えている。マキノ雅弘監督の映画の中には、必要以上に女優さんを畳にオヨヨヨと身を崩して泣かせたりして、その演出に賛成できないものもある。ところが、幾太郎が秀次郎が殺されそうになり、秀次郎をかばい相手の前に体を張り理路整然という科白は溜飲を下げる。あり得ない架空のヤクザの世界のお話を様式化しているのである。それぞれの間がうまく流れていく。

一作目の殴り込みに行くとき、唄が一番だけの予定が二番も入れることになり、佐伯清監督が「歌謡映画じゃないんだぞ」と怒り、「お前らで勝手に撮れ」といわれ、助監督だった降旗康男監督が撮影所の裏の草原でフットライトを一つ当てるだけで撮ったらそれがかえって上手くいったというのも面白い話である。

シリーズのうち二作ほど観たが、このシリーズは池部さんと高倉さんのコンビあっての作品である。池部さんの経験した年数と高倉さんの年数が、役のうえからもバランスよく投影されている。二人が目を合わせ主題歌二番までで、一緒ではあるが二人がそれぞれの自分の行く道を見つめている。そこがまたいいのである。

このシリーズ、藤純子(富司)さんが出ている作品はあと二作ある。「血染め唐獅子」と「唐獅子仁義」である。「血染め唐獅子」は、高倉さんと池部さんが友人で敵対する組に入っている。藤さんは、高倉さんの許嫁で池部さんの妹である。藤さんは居酒屋で働き絣の着物で、この映画では高倉さんが明るい笑顔を見せるのが珍しい。神田の江戸っ子という事もあるのか。池部 さんは破門されるので、一緒に殴り込みとなる。「唐獅子仁義」は、高倉さんはかつて池部さんの腕を切り落としている。その池部さんの女房で芸者をして支えているのが藤さんである。池部さんは腕を切られても、高倉さんを男気のあるやつと思っている。殴り込みに行くとき、高倉さんは池部さんのドスを右手に手ぬぐいで結び付けてやる。見つめ合う。この高倉さんと池部さんの見つめ合いを期待して見ている方も多かったことであろう。日本人の好むところである。口には出さずとも、目と目で分かり合う。

「死んで貰います」がやはり良い。高倉さん、藤さん、池部さんの役どころがはっきりしていて、それぞれがその役柄を楽しませてくれる。

『昭和残侠伝』のこの三作の監督はマキノ雅弘監督である。一作目の池部さんの背広での登場は『乾いた花』を意識されているのかも。そして世話役の三遊亭円生さんの高座と同じ語り口での科白が楽しい。あの語りで科白になっている。監督は佐伯清監督。

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